![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/c8/07f14c69797986ff558383e1635efecf.jpg)
古代官道は奈良時代に
『五畿七道』を設定した時に出来た道とされる
いわば、日本で一番古い国道(国営)みたいなもの
流れ的には
645年 大化の改新
710年に平城京建立
716年 武蔵国に高麗郡設置
741年に各地に国分寺を造るように命令
758年 武蔵国に新羅郡設置
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/1c/b5ec5f3bab91ce6f210d0c41c2b8cab5.jpg)
初期の東海道は、今の東京を通らないで
神奈川から海を渡り千葉から茨城へ行くルートとされる
しかし、違う説もあるからややこしい
なんでこの時期に、武蔵と下総を結ぶ道があったのか?
武蔵国府と相模国府のルートもあるのが謎
『足利』から南下するルートだけではないのか
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/bc/3a8b2e02dd086019ab61152ea53368b1.jpg)
『〇〇京』がいろいろと移転している時代に変更される
この時代の『香取の海』の大きさが定かではない
海を渡りまた海を渡ったのか?
関宿の辺りが唯一陸がつながっていたとも
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/cc/5920209b0f5057089ec24a97a346510c.jpg)
道は、国府を通る『驛路』と
郡衙を通る『伝路』の2種類があった
重なっている区間もあれば別なルートもある
本線なのか、枝線なのかの見極めが難しい
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/28/2c13ef65543a23e9aedc8f7b216573c1.jpg)
基本的には、国府と国府を『直線』で結び
道幅は9mあり,大路・中路・小路に分かれ
16k(30里)ごとに『驛家』が設定されている
が、驛の位置が定かではない
直線と16キロごとに驛がどうも合わない
驛路と伝路の見分けが難しい
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/0b/6a977fe9e81310763204efab26d81a90.jpg)
771年に『武蔵国』が東海道に編入される
それまでは武蔵国は東山道に属していた
下野足利と武蔵府中を結ぶ道が消える
この道は直線で9m幅の本来の企画だったようです
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/f3/4b59ebf54f09f31a1c9e87f70910b06d.jpg)
794年に平安京建立(奈良から京都へ遷都)
平安時代の予想された駅とルート
ちゃんと相模・武蔵・下総を1本で繋がっている
この辺りで下総と常陸を結ぶ道が誕生
市川から松戸のルートなのか?
松戸を通らないルートなのか問題
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/02/9a1fdfda9e61d47191c74afd7af6c298.jpg)
807年 流山市駒木に諏訪神社建設
811年頃に東北の蝦夷をほぼ平定
816年 空海が高野山金剛峰寺で真言宗を開創
武蔵から下総のルートが消える
相模から下総のルート
『豊島駅』は古くから存在するが場所が定かではない
王子に郡衙が確認されているのでそこが有力
港区の飯倉は『飯倉御厨』といわれ
三田,芝と古東海道の有力ルート
大森貝塚、芝増上寺横と上野寛永寺に古墳が発見されている
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/a0/db37d05d09bc7df50ab3137a722eeaa9.jpg)
浅草寺(628年)や乳待山聖天(595・601年)は奈良時代には存在していた
この時代くらいから浅草を通るルートに
武蔵と下総の国境は今の隅田川
墨田に『宿』が確認されている(浮島)
この墨田と小岩を結ぶルートは
今の『奥戸街道』が有力である
豊島駅は移動しているが確証はない
【追記】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/c6/6640c0a07ec847e2963ca5faede79278.jpg)
平安初期には隅田驛が存在していた
伊勢物語は平安時代初期の作品
歌人・在原業平(ありわらのなりひら、825年~880年)をモデルとする
業平って東京スカイツリーの所の業平橋
その隣の亀戸の香取神社は天智4年(665)の創建
官道からの距離が気になる
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/65/48b1990871f74581b9f7e35db1cb526d.jpg)
851年 野田市桜台に櫻木神社建設
875年、下総国で俘囚の反乱
935年に将門の乱で、下野、常陸、上総の国府が落とされ
940年 成田山新勝寺開山(将門死す)
951年 流山市鰭ヶ崎に守龍山東福寺開山(814年鰭ヶ崎由来)
1003年、平惟良が下総国府を焼き討ち、武蔵と上総も乱行する
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/d9/84206b6962c3864d8f6f02ee4bad8d77.jpg)
1021年の『更級日記』に松戸の由来が登場
この時に、上総から下総を通り武蔵の国へ行くルートが表記される
『下総と武蔵の堺の太日川の上の瀬のマツノサトの渡りに泊まりて・・』
これが市川から豊島驛か?松戸から豊島駅か?が謎
馬の津だから『茜津驛』は松戸、柏の呼塚も津なので候補地
古代驛名も定かではない(特に茜津驛の場所)
馬津の郷は『矢切の渡し』説もある
13歳の女の子の日記(晩年に書いたとも)は信憑性が薄いとされる
武蔵国は竹芝寺(済海寺)に寄ったとされる(三田)
にしても関東は戦乱していた
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/77/db69ae681f06bf57e88c605297327f86.jpg)
1028年、平忠常が安房国府を襲撃、下総・上総をも巻き込む
1051年 前九年合戦(奥羽地方)
1083年 後3年合戦(奥州藤原氏誕生)
1130年に相馬御厨(我孫子)、葛西御厨(葛飾)、夏見御厨(船橋)が成立
1159年 平家政権が始まる(平清盛)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/6b/bd39a13be93affc4eec3059e87439c45.jpg)
1185年、源頼朝が平家を倒し鎌倉時代へ
この時の頼朝が挙兵し通った道は官道だったのか?
行徳を通りうどんを食べた道はどうなんだろか?
義経の逃げたルートも気になる
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/7a/c0b0f2e32ca004a861828d16b6ce285e.jpg)
その後、鎌倉を中心に道が整備される
上ツ道、中ツ道、下ツ道と枝道
『いざ鎌倉』は鎌倉に武士が集合しやすいように整備した道
豊島駅が消え、古代の駅名が無くなる
(下総道は残っていたかもしれない)
この頃には松戸・青戸・隅田・浅草のルートが確立され
室町時代に葛飾区新宿(にいじゅく)が後北条により設けられる
江戸時代に五街道が整備され、
江戸の街の区画整理があり
鎌倉街道の一部は消える
古東海道と旧東海道は別のルート
古隅田川に軍用金の沈没船の伝説があり
旧水戸街道の江戸初期は水路の可能性もある
というのが最近の調査経過です
課題は、平安時代に
下総国府から常陸国府のルートは松戸を通ったのか?
茜津駅はどこなのか?
下総国府から武蔵国府のルートは?
豊島駅は?王子で確定か
国府はいつまで機能していたのだろうか?
調査は続く
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