ライズ外伝

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古代官道の考察

2019-02-27 | その他



古代官道は奈良時代に

『五畿七道』を設定した時に出来た道とされる

いわば、日本で一番古い国道(国営)みたいなもの


流れ的には


645年 大化の改新

710年に平城京建立

716年 武蔵国に高麗郡設置

741年に各地に国分寺を造るように命令

758年 武蔵国に新羅郡設置








初期の東海道は、今の東京を通らないで

神奈川から海を渡り千葉から茨城へ行くルートとされる

しかし、違う説もあるからややこしい


なんでこの時期に、武蔵と下総を結ぶ道があったのか?

武蔵国府と相模国府のルートもあるのが謎

『足利』から南下するルートだけではないのか







『〇〇京』がいろいろと移転している時代に変更される

この時代の『香取の海』の大きさが定かではない

海を渡りまた海を渡ったのか?

関宿の辺りが唯一陸がつながっていたとも








道は、国府を通る『驛路』と

郡衙を通る『伝路』の2種類があった

重なっている区間もあれば別なルートもある


本線なのか、枝線なのかの見極めが難しい





基本的には、国府と国府を『直線』で結び

道幅は9mあり,大路・中路・小路に分かれ

16k(30里)ごとに『驛家』が設定されている


が、驛の位置が定かではない

直線と16キロごとに驛がどうも合わない

驛路と伝路の見分けが難しい





771年に『武蔵国』が東海道に編入される

それまでは武蔵国は東山道に属していた

下野足利と武蔵府中を結ぶ道が消える

この道は直線で9m幅の本来の企画だったようです





794年に平安京建立(奈良から京都へ遷都)

平安時代の予想された駅とルート

ちゃんと相模・武蔵・下総を1本で繋がっている


この辺りで下総と常陸を結ぶ道が誕生

市川から松戸のルートなのか?

松戸を通らないルートなのか問題






807年 流山市駒木に諏訪神社建設

811年頃に東北の蝦夷をほぼ平定

816年 空海が高野山金剛峰寺で真言宗を開創


武蔵から下総のルートが消える

相模から下総のルート

『豊島駅』は古くから存在するが場所が定かではない

王子に郡衙が確認されているのでそこが有力


港区の飯倉は『飯倉御厨』といわれ

三田,芝と古東海道の有力ルート


大森貝塚、芝増上寺横と上野寛永寺に古墳が発見されている





浅草寺(628年)や乳待山聖天(595・601年)は奈良時代には存在していた

この時代くらいから浅草を通るルートに

武蔵と下総の国境は今の隅田川


墨田に『宿』が確認されている(浮島)

この墨田と小岩を結ぶルートは

今の『奥戸街道』が有力である

豊島駅は移動しているが確証はない



【追記】


平安初期には隅田驛が存在していた

伊勢物語は平安時代初期の作品

歌人・在原業平(ありわらのなりひら、825年~880年)をモデルとする

業平って東京スカイツリーの所の業平橋

その隣の亀戸の香取神社は天智4年(665)の創建

官道からの距離が気になる







851年 野田市桜台に櫻木神社建設


875年、下総国で俘囚の反乱


935年に将門の乱で、下野、常陸、上総の国府が落とされ


940年 成田山新勝寺開山(将門死す)


951年 流山市鰭ヶ崎に守龍山東福寺開山(814年鰭ヶ崎由来)


1003年、平惟良が下総国府を焼き討ち、武蔵と上総も乱行する






1021年の『更級日記』に松戸の由来が登場

この時に、上総から下総を通り武蔵の国へ行くルートが表記される

『下総と武蔵の堺の太日川の上の瀬のマツノサトの渡りに泊まりて・・』

これが市川から豊島驛か?松戸から豊島駅か?が謎


馬の津だから『茜津驛』は松戸、柏の呼塚も津なので候補地

古代驛名も定かではない(特に茜津驛の場所)

馬津の郷は『矢切の渡し』説もある

13歳の女の子の日記(晩年に書いたとも)は信憑性が薄いとされる


武蔵国は竹芝寺(済海寺)に寄ったとされる(三田)


にしても関東は戦乱していた





1028年、平忠常が安房国府を襲撃、下総・上総をも巻き込む

1051年 前九年合戦(奥羽地方)

1083年 後3年合戦(奥州藤原氏誕生)

1130年に相馬御厨(我孫子)、葛西御厨(葛飾)、夏見御厨(船橋)が成立

1159年 平家政権が始まる(平清盛)






1185年、源頼朝が平家を倒し鎌倉時代へ


この時の頼朝が挙兵し通った道は官道だったのか?

行徳を通りうどんを食べた道はどうなんだろか?

義経の逃げたルートも気になる






その後、鎌倉を中心に道が整備される

上ツ道、中ツ道、下ツ道と枝道

『いざ鎌倉』は鎌倉に武士が集合しやすいように整備した道


豊島駅が消え、古代の駅名が無くなる

(下総道は残っていたかもしれない)

この頃には松戸・青戸・隅田・浅草のルートが確立され


室町時代に葛飾区新宿(にいじゅく)が後北条により設けられる



江戸時代に五街道が整備され、

江戸の街の区画整理があり

鎌倉街道の一部は消える


古東海道と旧東海道は別のルート

古隅田川に軍用金の沈没船の伝説があり

旧水戸街道の江戸初期は水路の可能性もある


というのが最近の調査経過です


課題は、平安時代に

下総国府から常陸国府のルートは松戸を通ったのか?

茜津駅はどこなのか?

下総国府から武蔵国府のルートは?

豊島駅は?王子で確定か

国府はいつまで機能していたのだろうか?

調査は続く

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