ライズ外伝

仕事以外の趣味のコーナーです。
主にお出かけが多いです。
ポタリングしてます。

旧水戸街道ポタリング(下総編)参

2018-10-31 | 道中
つづき




『呼塚(よばつか)』も読めそうで読めない地名

源氏の名馬を埋めた塚らしい

今は交差点の方か有名だが

柏の由来となる河岸場として栄えていたもよう






呼塚橋を渡り再び旧水戸街道へ

ここからまた登坂

我孫子市に入る





再開発の土地で遺跡調査中

歴史的発見があるのか気になる

周辺には『松ヶ崎城』と『根戸城』の跡が見受けられる






根戸の根は干支の『子』の意味があり最初とか1の意味があるという

江戸、松戸、根戸、水戸などの『戸』は『津』の意味がある

船戸は分かりやすく船が付く港

下戸が良く分からずだが戸張も地形的な由来ぽい


またカーブがあるがここは宿場町ではない

街道沿いの集落には意味がありそう

布施弁天の方には手前の十字路を左へ





またまた六号線を渡り線路の方へ

台田(だいた)にはダイタラボッチの伝説がある


国道356号を走る




常磐線を歩道橋で越える

反対側の道にでる

356号は木下の方へ行く道





日が暮れだす

この辺から『我孫子宿』

イメージより綺麗で昔の面影がない


ここでこの日は終わり

続きは次回に

仕切り直す





昔はこんな感じ

家が路面に対しノコギリ型に建っているのが特徴

『武者隠し』ともよばれ隠れて敵を襲う事が出来る

道がクランク状なのも曲がり角で待ち伏せができ

直線だと矢が飛んで来たら逃げられないとされる


防衛作と言われるが

宿場町は襲われやすいのかと気になる

本陣を襲われないようにするためなのか

実は城下町だったのか

なぞ

周辺には根戸城以外の城は見当たらない

明治にはここから手賀沼にかけて文豪の別荘地として栄えた





今だと我孫子宿の次は取手宿なのだが

江戸時代初期は布佐→竜ケ崎→水戸のルートだったようです

利根川がまだ銚子まで工事が完成していない時期と一致する






一里塚なのか、ここで分岐する

取手は左へ

石碑はあるんだか整備されていない



つづく




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旧水戸街道ポタリング(下総編)四

2018-10-30 | 道中
つづき




我孫子市の町名の付け方はユニークだ

漢字一文字もあれば難読な漢字も多い

独自な文明があったのではと推測する

この辺りは南相馬郡





日を改めての再出発

布佐の方から行くルートが本来の道だったと知る

とりあえず取手宿を目指す






道なりに進むと成田線

踏切に『浜街道』の字がある







常磐線で本線がとだえる

車両基地がある

松戸車両センターの出張所あつかいとなっている





迂回しアンダーパスをくぐり坂を登る

ここは複雑で自力で橋の上の道に出る








古道感が少ないけど老人ホームの信号を左折

古地図も鍵の手のように曲がり北上する








『柴崎神社』

この辺りから神社仏閣が多い道になる

この神社は将門と関連があり古い

北星神社もあり亀の石造がある





神社から6号まで民家がつづく

昔からの集落

将門が通ったとなると水戸街道より古いことになる





6号に出る

並走して青山を右に

右側は高台になっている





南青山の地名もありなんかお洒落な感じ

古民家が並ぶ

なんか勝手なイメージとは違う






『利根川』に到着

昔は渡し船

隣の小堀の渡しは有名

今はゴルフ場が占めている





利根川橋は東京まで38k地点

6号線を何度も行ったり来たりとしてきたが

結局はこの6号線が最短距離のようだ






橋を渡り右折すると『取手宿』

古い建物が所々ある

新町という町名が気になった

道が広いのは拡張したと思われる





本陣通りというように『本陣』がある

でも宿場町としての観光案内が見つからない

台宿や代宿の古い名があるのに






少し街を散策

大師通りの蛇道の店の曲線が良かった

これも古い街ならでは

もっと昔の方が古いけど立派な感じだ




『長禅寺』に寄る

ここも創建者は将門と伝えられている

でも創建時は取手競輪所の方にあり

江戸時代に水戸街道と取手宿が整備され移転してきたもよう




取手の地名は大鹿氏の出城の『砦』があったのが由来

手賀沼の手と取手の手は関係があるのかと思っていたが違う

古地図では『取手驛』と表記されている

常陸国北相馬郡


気がかりなのは、本来の水戸街道ではなかったこと

布佐の方から行くのが本来の道だったとは

日光街道と同じく水戸街道も2ルートあってもいいが


次回は本来の道へ
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旧水戸街道ポタリング(武蔵編)前

2018-10-20 | 道中



一周シリーズが終わり、次は旧道シリーズ

昔の道の名残を走っています

今回は旧水戸街道

水戸街道は五街道の1つと思いきやそうではありません

日本橋からではなく北千住が出発点

日本橋から北千住までは日光街道(奥州道)と並走

今の国道六号線を水戸街道というだけに勘違いしやすいので注意






今回は江戸川を越え金町関所からのスタート

当時の江戸川とは地形も違い橋のない時代

古地図だと関所は川の中になってします


『入り鉄砲出女』というように江戸に入るのは厳重体制

逆に将軍が下総に狩りに出る時は船で橋を造り渡ったとも

水戸藩は徳川御三家なので参勤交代はあまりなかったもよう





本来は江戸川河川敷を走るのだが道がなく

土手の内側を走る

桜土手を過ぎた辺りから本線と合流する形になる





葛西神社の脇を通る

葛西神社の歴史は古く平安末期とか

酉の市でも有名





旧水戸街道に出て6号線にでる

ここから少しの間、新旧道の並走となる

京成線を越えて右に入っていく





街道のなのに道が狭いことに気づく

駅前の商店街が旧道だとも言われたが違っていた

名残が無いように思えるが





貨物線の踏切に『浜街道』の文字がある

明治に入って『陸前浜街道』と呼ぶようになった

水戸は徳川なので変えられたのではと推測する


その先に六地蔵があるが移動したものらしい

この辺から柴又に行く道と分かれる

佐倉に行くのはもう少し手前の6号の辺り





今だと右に行くとすぐ中川なのだが

コの字に迂回する不自然さ

こういう道を『鍵の手』と呼ぶとのこと

何か意味がありそうなんだけど


どうやら大池があったもよう

歴史的には戦国時代に北条氏が造った宿場町なんだとか

軍事上の防衛もうかがえる


6号線に出る手前を右折する

ここから宿場町のメインで上中下宿に分かている

新宿(にいじく)と呼ばれ昔は金町と亀有より栄えていた







金阿弥橋の跡があるのだが見つからず

お寺と神社があるから旧道に思える

でもこれといった古い家は見当たらず


幼稚園の前の銅像を右折し中川橋へ





中川橋も昔はなく『渡し船』

江戸時代初期には今の区堺を流れる古隅田川があり

徳川の軍資金船が沈没した話がある





向いのマンションの間が川の名残

葛飾区を一周した時に走りました

ここから先はこち亀でお馴染みの『亀有』

この辺の歴史はこち亀によく載ってます


道なりに進んでいく




環七を越えると『一里塚』がある

ここも10mくらい移動している

北千住から1里(4k)地点がこことなる





曳舟親水公園の道を越える

曳舟とは『船を曳く』意味で、昔は人力で船を引いていたもよう

金町→柴又の鉄道も初期は人力で押していました

(葛飾区は怪力が多かったのか)







この辺から旧道の案内板がでる

旧水戸街道と旧水戸佐倉街道はあるが

陸前浜街道とは書かない

(認知度が低いからか)





矢印が無いと分かりづらい

直線ではなく曲線の道がつづく

昔は田園地帯だったので民家はない








千代田線まできて古隅田川に沿うように下る

葛飾区の曲がった道は古道の名残で

直線は耕地整理した新しい道とのこと


マスクメロンの皮のように網の目になっているのが

葛飾区の道の特徴でもある

立石を通ったとされる古代東海道も必見




余談だが、この近隣に千葉神社があり

葛飾区に千葉村が存在していた

千葉県の船橋には葛飾町がある

もともと葛飾区は武蔵ではなく下総だったけど

なんでだろ


つづく











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旧水戸街道ポタリング(武蔵編)後

2018-10-19 | 道中
つづき




ここから小菅(江戸川から荒川まで葛飾区内)

小菅は昔『小菅県』になるほどの中心地

銀座ならぬ銭座があったのもこの町

小菅御殿が廃止され、刑務所となる


新選組はこの御殿より北の五兵衛新田(綾瀬駅近辺)に宿泊し

流山に向かったと言われる

旧水戸街道を通ったのかは定かではない





堀切中央通りを越える

右には蓮昌寺がある(鎌倉時代建立)

いかりや長介のお墓がある





綾瀬川を『水戸橋』で渡る

ここは水戸の名が使用されている

千住の大橋の次に架かる橋で、昔のは少し下流にあった





橋の下方にその名残がある

水戸黄門の伝説も残っていた

今の皇居の平川橋に名残があるとのこと





次は荒川なんだけど渡れないから日光街道の方から迂回

荒川は人工に造られた川

昔は陸地だった


古い町並みが残る

東京拘置所の昔は小菅御殿といい

将軍の休憩御膳所でした





ちょっと寄り道すると

ザ・駄菓子屋

ドラマや映画にもよく登場する聖地がある


4号線へ




日光街道の新千住橋を渡る

目標は線路の次の辺り、河川敷を走る

川と垂直ではない位置にあるので注意





土手を上がり下りる

道にはちゃんと『旧水戸街道』とある

ここを見つけるのが大変でした





日の出神社の横を通る

町名が旭とか日の出とか東のイメージが強い

鉄橋の下のレンガが時代を感じる

昔の東武鉄道も荒川が出来てからルートを変更している





清亮寺は線路に挟まれるように建つ

この寺にも水戸黄門のゆかりがあったようです

この辺は鉄道が多く川のように渡るのが大変






さすがに旧道のリスペクトを感じた

千代田線はこの辺から地下に入る

昔は直線だが今は少し曲がっている





標識が『旧水戸街道』とはっきりと

千住宿場町通り

ゴール





ここが『水戸街道』の入口

左は日光街道、右は日本橋

表記は、旧日光道中と旧水戸佐倉道

これは当時物ではないと思われる


道が狭いから街道には思えないが

宿場町通りから直角の分岐点となり

日光街道とはここで分かれる


ところが柏市で水戸街道から日光街道にまた分岐するのだ

そこに『旧日光街道入口』とある(ここも直角に)

日光参拝の時は行きと帰りでは同じ道を通らなかったのかもしれない


佐倉に行く道も、千葉街道の方が近いような気がするが

ルートは2つあった方がいいのかもしれない

たぶんだけど


では















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