EF24-105mmF4L
紫禁城の入場料は、たしか60元。入場券売り場は、入場口のかなり手前にあるので注意していないと通り過ぎてしまう。一方入場口の近くにも窓口があるけれども、ここではチケットを販売しているのではなくて、音声ガイドの機器を貸し出している窓口である。音声ガイドは日本語のものもあり、40元を払えば借りられるが、機器のデボジットとして100元預けておかねばならない。この100元は機器を返したときには返ってくるのだが、中国ではこの「デポジット」という制度が広く行われていて困るのである。例えばホテルに泊まるときなども必要だ。一泊180元のホテルで、400元のデポジットというヒドイ金額を預けさせられたこともある。人民元をそんなに換金していない旅行者にとってはデポジットを払えないという局面でもでてくるだろうに。
それにしても一々建物がデカイ。いったい何なんだこれは?
一般大衆の度肝を抜く装置としてはやり過ぎなような気がする。北京西の駅といい、この紫禁城といい、スケールのデカさが違う。これが大陸いや中国クオリティーというものだろうか?しかも、この写真の建物はまだ紫禁城の本体ではない。そこに繋がる「門」に過ぎない。宮殿はこの太和門の先にあるというのだから驚きである。
太和殿、明の時代には皇極殿と呼ばれていた建物である。ここでは、即位式、結婚、朝会、葬儀などが行われた宮殿の中で最も重要な場所とされている。写真で写っている人々の大きさと広場・建物とを比べてみれば、この建物が如何に大きいかがお分かりいただけるだろうと思う。この故宮を見てまわるには、少なくとも2時間は必要である。じっくり見たいのであれば半日は用意すべきだろう。さらにリュックなどの荷物を背負って見るものではない。荷物はホテルに預けてから、じっくりと手ぶらでまわるのが賢いやり方だ。
ちなみに、私の場合はこの日の夜の宿はホテルではなく寝台車。よって荷物であるリュックサックを背負っての故宮観光である。リュックの重さは5キロほどに抑えたとはいえ、これをもって故宮をまわるのはシンドイ。辛すぎる。賢明な諸兄は是非とも荷物はどこかに預けておこう。なお、中国の駅には「コインロッカー」なるものは置いていない。人が管理している荷物預かり所のようなものはあったが、これがはたして預かり所なのか、それとも西洋のチッキのように荷物を目的地の駅まで送るというサービスの窓口なのかは不明である。ただ、これが仮に預かり所だったとしても、中国人がその荷物を管理するのである。そいつが、リュックを開けて貴重品を盗らないとも限らない。中国到着二日目でイヤな思いはしたくなかったので、結局私はこのサービスを利用しなかった。このように中国ではインフラが整っていないため、荷物は極力少なく、そして軽くしておく工夫をしておこう。
太和殿の玉座。正直ここの写真を撮るのはかなり大変だった。なにが大変かといえば、ここの撮影ポイントには常に人だかりの山ができているのである。中国人がこの玉座の写真を撮ろうと、おしくらまんじゅう状態になる。撮影ポイントは朝の満員電車なみの人口密度である。そのあまりの密度の為、巻き込まれた子供などは大変で、泣き出す子もいるくらいの凄まじさである。その人だかりは尽きる事がなく、写真を撮り終えたものが離れる頃には、また新しい観光客がそこに補充されるといったように、つねに大きな人だかりができていて一向に人が減る気配がないのである。また人ごみを掻き分けて撮影ポイントに到達したとしても、押し、そして押されるので、カメラが思うように固定できない。撮影してもブレた写真にしかならない。まるでこの玉座は、芸能人のトップアイドルが如きである。皆、我先にと写真を撮ろうと、押すわ押すわ押すわ。私も15枚くらい撮影したが、まともな写真はここにUPした写真だけである。この現象は太和殿が特別なわけではなく、この後ろにある中和殿においても同様な事が起こる。中国人も日本人と同じく、やはり撮影ポイントには群がるわけである。
さて「天子南面す」という言葉をご存知だろうか?これは日本の京の大極殿も同じなのだが、天子は南を向いて座っているという事である。これは紫微、つまり北極星あたりが世界の中心であり、天帝の所在地であるという概念と無縁ではないだろう。つまり天帝の所在である北から、反対の南をにらむという構図である。同時に北半球において、南というのは一日中光が入るという建物における暮らし易さという要因も入っているかもしれない。だが、この南面という概念は中国のみならず、東アジア・東北アジアを含む一帯に広がる概念でもある。それはどういうことかというと、中国の東北部、または北方には遊牧民の国が昔から存在し、様々な国家形成をしながら栄え、そして滅んでいく事を繰り返していた。匈奴という国がかつてあった。この国の軍政を見ると南面の関係が良く分かる。王の軍や政治の中枢は国土の中央に配置し、その東側には「左賢王」の治める国や軍を置き、西側には「右賢王」が治める国や軍を置く。ちょうど左賢王・右賢王が鳥の翼の両翼のように西と東に広がって配置されているのである。この配置は、匈奴の後に現れた遊牧民族国家である鮮卑や突厥、契丹、モンゴル帝国に至るほとんど全ての遊牧民族の編成に共通した特徴である。東を「左賢王」と呼んでいるのは、支配者が南を向いているからである。南を向いている支配者(中国では皇帝)から見た場合、左側は東にあたり右側は西にあたる。そして遊牧民の国家においては、常に重要な位置は右(西)よりも左(東)であった。それは匈奴が鮮卑に取って代わられ、鮮卑が柔然に、柔然が突厥に取って代わられる歴史の中で、取って代わる存在は、つなに巨大な遊牧民国家の左(東)側から現れているという地政学的状況と無縁ではあるまい。遊牧民国家においては左(東)の備えは常に重要と位置づけられていた。中国や日本の官制には「左大臣・右大臣」なるものがある。位は勿論左大臣が上位で、右大臣が下位であるのだが、これは「左賢王・右賢王」の関係と見事に対比している。遊牧民は常に南を見ていた。彼らが居住する地域のさらに北は極寒の土地である。故に彼らが領土として広がりをもつ範囲は東であり西であり、そして定住者の国家が存在する南であったワケである。翻って中国の歴史は、常に北方の脅威にさらされたものであった。中国における遊牧民の形質を持った人が打ちたてた王朝は、数えても「北魏」「隋」「唐」「金」「元」「清」と数多い。
まだ完全に証明はされてはいないが、つまり天子南面す、という言葉そして風習は、おそらく遊牧民の風習から発祥したものが中国に伝わったのだろうと思う。中国の国家が、その地政学上において、南面する意味が分からないからだ。そもそも始皇帝である「秦」の国も、北方の蛮族出身の色が強く、かなり遊牧民国家的な形質を多く持っているのである。さらに遊牧民の宗教観にも「天帝」すなわち「テングリ」の概念は古くから存在しており、何も天帝思想は中国の独創ではないことが分かる。そう考えれば「天子南面す」という概念の発祥がいったいどこに由来するのかについては、かなり有力な推測が導き出せるだろう。すなわち遊牧民族発祥説である。
紫禁城の入場料は、たしか60元。入場券売り場は、入場口のかなり手前にあるので注意していないと通り過ぎてしまう。一方入場口の近くにも窓口があるけれども、ここではチケットを販売しているのではなくて、音声ガイドの機器を貸し出している窓口である。音声ガイドは日本語のものもあり、40元を払えば借りられるが、機器のデボジットとして100元預けておかねばならない。この100元は機器を返したときには返ってくるのだが、中国ではこの「デポジット」という制度が広く行われていて困るのである。例えばホテルに泊まるときなども必要だ。一泊180元のホテルで、400元のデポジットというヒドイ金額を預けさせられたこともある。人民元をそんなに換金していない旅行者にとってはデポジットを払えないという局面でもでてくるだろうに。
それにしても一々建物がデカイ。いったい何なんだこれは?
一般大衆の度肝を抜く装置としてはやり過ぎなような気がする。北京西の駅といい、この紫禁城といい、スケールのデカさが違う。これが大陸いや中国クオリティーというものだろうか?しかも、この写真の建物はまだ紫禁城の本体ではない。そこに繋がる「門」に過ぎない。宮殿はこの太和門の先にあるというのだから驚きである。
太和殿、明の時代には皇極殿と呼ばれていた建物である。ここでは、即位式、結婚、朝会、葬儀などが行われた宮殿の中で最も重要な場所とされている。写真で写っている人々の大きさと広場・建物とを比べてみれば、この建物が如何に大きいかがお分かりいただけるだろうと思う。この故宮を見てまわるには、少なくとも2時間は必要である。じっくり見たいのであれば半日は用意すべきだろう。さらにリュックなどの荷物を背負って見るものではない。荷物はホテルに預けてから、じっくりと手ぶらでまわるのが賢いやり方だ。
ちなみに、私の場合はこの日の夜の宿はホテルではなく寝台車。よって荷物であるリュックサックを背負っての故宮観光である。リュックの重さは5キロほどに抑えたとはいえ、これをもって故宮をまわるのはシンドイ。辛すぎる。賢明な諸兄は是非とも荷物はどこかに預けておこう。なお、中国の駅には「コインロッカー」なるものは置いていない。人が管理している荷物預かり所のようなものはあったが、これがはたして預かり所なのか、それとも西洋のチッキのように荷物を目的地の駅まで送るというサービスの窓口なのかは不明である。ただ、これが仮に預かり所だったとしても、中国人がその荷物を管理するのである。そいつが、リュックを開けて貴重品を盗らないとも限らない。中国到着二日目でイヤな思いはしたくなかったので、結局私はこのサービスを利用しなかった。このように中国ではインフラが整っていないため、荷物は極力少なく、そして軽くしておく工夫をしておこう。
太和殿の玉座。正直ここの写真を撮るのはかなり大変だった。なにが大変かといえば、ここの撮影ポイントには常に人だかりの山ができているのである。中国人がこの玉座の写真を撮ろうと、おしくらまんじゅう状態になる。撮影ポイントは朝の満員電車なみの人口密度である。そのあまりの密度の為、巻き込まれた子供などは大変で、泣き出す子もいるくらいの凄まじさである。その人だかりは尽きる事がなく、写真を撮り終えたものが離れる頃には、また新しい観光客がそこに補充されるといったように、つねに大きな人だかりができていて一向に人が減る気配がないのである。また人ごみを掻き分けて撮影ポイントに到達したとしても、押し、そして押されるので、カメラが思うように固定できない。撮影してもブレた写真にしかならない。まるでこの玉座は、芸能人のトップアイドルが如きである。皆、我先にと写真を撮ろうと、押すわ押すわ押すわ。私も15枚くらい撮影したが、まともな写真はここにUPした写真だけである。この現象は太和殿が特別なわけではなく、この後ろにある中和殿においても同様な事が起こる。中国人も日本人と同じく、やはり撮影ポイントには群がるわけである。
さて「天子南面す」という言葉をご存知だろうか?これは日本の京の大極殿も同じなのだが、天子は南を向いて座っているという事である。これは紫微、つまり北極星あたりが世界の中心であり、天帝の所在地であるという概念と無縁ではないだろう。つまり天帝の所在である北から、反対の南をにらむという構図である。同時に北半球において、南というのは一日中光が入るという建物における暮らし易さという要因も入っているかもしれない。だが、この南面という概念は中国のみならず、東アジア・東北アジアを含む一帯に広がる概念でもある。それはどういうことかというと、中国の東北部、または北方には遊牧民の国が昔から存在し、様々な国家形成をしながら栄え、そして滅んでいく事を繰り返していた。匈奴という国がかつてあった。この国の軍政を見ると南面の関係が良く分かる。王の軍や政治の中枢は国土の中央に配置し、その東側には「左賢王」の治める国や軍を置き、西側には「右賢王」が治める国や軍を置く。ちょうど左賢王・右賢王が鳥の翼の両翼のように西と東に広がって配置されているのである。この配置は、匈奴の後に現れた遊牧民族国家である鮮卑や突厥、契丹、モンゴル帝国に至るほとんど全ての遊牧民族の編成に共通した特徴である。東を「左賢王」と呼んでいるのは、支配者が南を向いているからである。南を向いている支配者(中国では皇帝)から見た場合、左側は東にあたり右側は西にあたる。そして遊牧民の国家においては、常に重要な位置は右(西)よりも左(東)であった。それは匈奴が鮮卑に取って代わられ、鮮卑が柔然に、柔然が突厥に取って代わられる歴史の中で、取って代わる存在は、つなに巨大な遊牧民国家の左(東)側から現れているという地政学的状況と無縁ではあるまい。遊牧民国家においては左(東)の備えは常に重要と位置づけられていた。中国や日本の官制には「左大臣・右大臣」なるものがある。位は勿論左大臣が上位で、右大臣が下位であるのだが、これは「左賢王・右賢王」の関係と見事に対比している。遊牧民は常に南を見ていた。彼らが居住する地域のさらに北は極寒の土地である。故に彼らが領土として広がりをもつ範囲は東であり西であり、そして定住者の国家が存在する南であったワケである。翻って中国の歴史は、常に北方の脅威にさらされたものであった。中国における遊牧民の形質を持った人が打ちたてた王朝は、数えても「北魏」「隋」「唐」「金」「元」「清」と数多い。
まだ完全に証明はされてはいないが、つまり天子南面す、という言葉そして風習は、おそらく遊牧民の風習から発祥したものが中国に伝わったのだろうと思う。中国の国家が、その地政学上において、南面する意味が分からないからだ。そもそも始皇帝である「秦」の国も、北方の蛮族出身の色が強く、かなり遊牧民国家的な形質を多く持っているのである。さらに遊牧民の宗教観にも「天帝」すなわち「テングリ」の概念は古くから存在しており、何も天帝思想は中国の独創ではないことが分かる。そう考えれば「天子南面す」という概念の発祥がいったいどこに由来するのかについては、かなり有力な推測が導き出せるだろう。すなわち遊牧民族発祥説である。