三億円事件犯人に至る道

三億円事件について考察いたします。

ひばりが丘団地とひばりヶ丘駅 表記の違い

2015-10-18 07:31:56 | 日記
アメリカ陸軍の地図、ということで、英語でわかりずらい。略図を作成したので載せておく。
本題になるが、ひばりヶ丘の表記、まだまだ、ある。団地内の公園も、ひばりヶ丘団地公園なのだ。
これは、いったい、どうしたわけだろう。
調べてみることにする。
ひばりが丘団地は、1959年4月から1960年2月にかけて、順次、完成している。
高度成長期から造成されていく、大規模団地の先駆け、ということらしい。
ちなみに、当初の名前は、「ひばりヶ丘団地」となっているのだ。
つまり、もともとは、「ひばりヶ丘団地」。だから、駅名も、派出所の名前も、スーパー西友の名前も、さらには、公園の名前も、当然のように、「ひばりヶ丘」、ということになる。
時代は下り、1967年11月1日(保谷市事務報告書 昭和42年版 115頁)、町名が、「ひばりが丘」に変更されたのだ。
その後の経緯は、はっきりしないが、たとえば、1968年9月10日発行の市広報では、ひばりヶ丘団地の表記、ひばりが丘団地に変更されている。
おそらく、日本住宅公団は、地方自治体の決定に同調して、団地名を「ひばりヶ丘団地」から「ひばりが丘団地」に変更したものと思われる。
ただ、たとえば、ひばりヶ丘米店、があったとして、名前表記を変えるのは、無料なのだろうが、実際、店名の看板を変えるのは、無料ではない。ということで、ひばりヶ丘の名前は、今でも、あちこち、残っているわけだ。
ところで、町名「ひばりが丘」、なんで、突然、出てきたのだろう。こうなるなら、すんなり、町名「ひばりヶ丘」でも、いいような気もする。
ちなみに、ひばりヶ丘団地の命名は、当時の田無町町長によるということらしい。
話は少し変わるが、ひばりヶ丘団地が完成し、しばらくして、東側に、1961年4月1日、保谷市立ひばりが丘中学校が開校する(分校としては、すでに1960年4月11日、開校していたのだが)。ひばりヶ丘中学校ではなく、わざわざ、ひばりが丘中学校という名前にしているわけだが。
そして、ひばりヶ丘団地の大部分は、保谷市なので、大部分の子供は、ひばりが丘中学校に登校することになる。
どうも、町名が、「ひばりが丘」になったのは、ここらへんの経緯からなのかもしれない。つまり、当時、保谷市市民としては、田無市(当時は町)の長が、団地名を命名したことに、少なからず、快く思わない感情があったのかも。だから、新設された中学校の名前を微妙に変えたのだ。
それが、町名変更に結びつき、さらには、団地名の変更になっていく。
今となっては、わからないのだが。
(2013年5月記)
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