三億円事件犯人に至る道

三億円事件について考察いたします。

布多天神社について(12)

2017-02-28 03:39:22 | 日記
このあたり、多摩川流域に広がる、長閑な田園。
この風景こそ、万葉集第二歌、「うまし国ぞ 大和の国は」に、ぴったりである。
おそらく、なにか、特別な、感情、というのは、この田園風景、ではないだろうか。
長閑な田園。緩やかに流れる、多摩川。川面にたなびく、麻布。
だからこそ、江戸時代、多摩川の麻布は、万葉集に登場したのだと、確信したに違いない。
だが、その田園風景、まがりなりにも、江戸時代になって、多摩川の流路が固定され、用水が開削されてから、出現している。
それ以前の、多摩川は、洪水を引き起こし、流路を幾度も変える、暴れ川。
長閑な田園の片鱗もない。
当然、万葉集、多摩川の麻布の歌が、できた当時も、同じだったはずだ。
(2013年9月記)

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布多天神社について(11)

2017-02-28 03:36:57 | 日記
たしかに、支流も含めた多摩川流域、麻布の生産に、適していたには、違いない。
ただ、実は、そうした河川の流域は、全国に、広く、分布している。
原料となる、苧麻は、一般的に、繁茂しており、地域性は、特にない。
また、苧麻による、麻布の生産は、縄文時代から、行われている。
縄文土器を作ったときの、縄目の縄、それこそが、苧麻による麻布の縄でもある。
つまり、苧麻による麻布は、日用品だったわけだ。
にもかかわらず、支流も含めた多摩川流域の麻布が、万葉集の歌に登場している。
その不思議さにこそ、なにか、特別な、感情が、生まれる、根源ではないかと思える。
(2013年9月記)

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布多天神社について(10)

2017-02-27 03:40:17 | 日記
布多天神社境内にある、江戸時代に建てられた「松寿軒筆子中の碑」には、記してある。
万葉集の歌、
多摩川に さらす手づくり さらさらに 何ぞこの児の ここだ愛しき
この舞台こそ、この地だと。
たしかに、支流も含めた多摩川流域には、違いないのだろうけど、その中の、どこかというと、まったく、わからないのだ。
根拠がないにもかかわらず、この地だと、主張するのは、砧、白糸、染地、等の地名と、同じと思われる。
では、なぜ、そのような主張をしてしまうのだろう。
そもそも、多摩川流域による、麻布の生産は、それほどに、特異なものだったのだろうか。
(2013年9月記)

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布多天神社について(9)

2017-02-27 03:39:00 | 日記
では、天満宮になる以前、いまの地に移転する前は、どうだったのか。
天満宮ではないのに、旧地を古天神としている時点で、もはや、まったく、わからくなっているといっていい。
おそらく、多摩川の南岸、対になるように、存在していて、また、同じ、新田郷にあった、穴澤天神社と、似ているのでは、と思える。
だが、もはや、痕跡は、残っていない。
(2013年9月記)

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布多天神社について(8)

2017-02-26 05:31:21 | 日記
この地を、「調布の里」と呼ぶようになった、としているわけだが、いま、見ると、あたかも、布多天神社があるあたり、つまり、調布市あたり、と思ってしまうが。
たとえば、江戸時代、大田南浦「調布日記」。取り上げているのは、多摩川流域である。
つまり、「調布の里」、というのは、支流も含めた、多摩川流域のことを指しているといってもよい。
実際、多摩川の歌枕は、「調布」。
「調布」というのは、支流も含めた、多摩川流域のことなのだ。
(2013年9月記)

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