鎌倉時代は、このあたりにとって、南側にある鎌倉が中心であり、そのために、南北道が主要な幹線道路となる。江戸時代は、東側にある江戸が中心になるので、東西道が、主要な幹線道路になる。また、地域の中心は、府中宿のあった府中なので、府中への道も、主要な道路となる。とはいえ、東西道だけしか存在していないのでは、交通網は成り立たないので、東西道同士を結ぶ、南北道も、付随的に整備される。鎌倉時代、幹線道路だった南北道は、このような東西道を結ぶ道路として、部分的に残ったのかもしれない。江戸はそのまま、東京になったので、このあたり、東西道を中心とした交通網は、そのまま、踏襲されたのだろう。そして、高度成長期、三億円事件当時、おそらく、まだ、同じだったはず。つまり、当時、道路は、府中に向かっていたのだ。
(2013年12月記)
(2013年12月記)