老人に学び、子どもに救われて
「老人と子供の民俗学」(白水社)宮田登著より
昔から老人と子どもは、密接な関係をもち、社会のバランスを維持していたそうです。
(以下、抜粋)
姥捨て伝承
親子孫三代がそろって山中へ行く話しがある。当主が年をとった父親を捨てるのに自分の息子を連れてゆく。山中で父を置き去りにするとき、父親を背負ってきたモッコも捨てようとした。すると彼の息子が次にはお前(父親)を捨てるのに使うのだからと言い、そのモッコを持って帰ろうとする。その一言が鍵となって姥捨てはやめられることになった。
運動会
子供のしつけや教育は、各地域社会ごとに村や町全体が行うべきだという考えは、日本に古くからあり、それが近代以後学校教育の中にも取りいれられるようになった。野外文化活動の原型の一つに地域社会の祝祭があり、その形態はさまざまであるが、小中学校の運動会などにもその色彩が強く伝えらている。
飯島吉晴によると、学校の運動会には、日ごろ四角い教室に閉じこめられた小さい子供の霊魂を、円環をなした運動場や遊戯のなかに思い切り解放するという「祝祭」の要素が込められているという。
運動会はそうした四角の時間と空間をいったん断絶してしまう、いわばハレの野外文化ということになる。
日常生活の不均衡を運動会というハレの場で破壊し、そしてさらに回復させて最後に統合にまで至るという「死と再生」の観念を、そこに読みとることができるとしている。
応援のフレーフレーというかけ声は、日本の古語で「ターフレターフレ」つまり「狂え狂え」の意味だという柳田国男の説がある。確かに、非日常的な空間のなかで、日常性からいったん解放され、生き生きとした活力を再び獲得することが、野外文化活動の大きな目的なのであろう。
(以上、抜粋)
以上のことから、
老人の生活には、日常と非日常の両方のバランスが必要だということを知ることができました。
田舎育ちの私も、せめてお盆と正月には、我がふるさと帰らなければ、その年はつらいものを感じてしまいます。
老人ホームにおける施設の夏祭りも、非日常性です。夏祭りにも地域生活を支えた文化的意味が存在します。地域に生き続ける入居者の生活を支える大切な営みのひとつです。企てる職員が大変だからこそ、行事を全うすることに意味が増し、老人の生活は一年を維持されます。
安定した日常を維持してくれる非日常性。何かそこから、ひとつの光明が見えてくる気がします。
今日で3日目ですね。日記ですから早くも正念場に入るでしょうか。
さて、去年のその後ですが、上海に行ったN君は消息不明です。九州に配属されているN君はお盆に帰省します。理学診療士のS君は2度ほど帰省しました。
で、利久庵の主殿はお盆はいかに?
暑い夏が来ました。
利休庵の主殿は青森出張ですか。
梅雨明けにもなり暑さ本番です。
倒れないようにお気張り下さい。
(;´д`)ゞ
昨夜は近所の帰省したK君と親交を深めていました。
今日も
今日はお邪魔しました。また来週帰省しますが、誰と会えるか楽しみにしています。お墓参りもありますから。
上海転勤中のN君に連絡をとってみましょう。不安な情勢の中、元気でいるか少し心配です。K君のことも気にしています。
今後も情報拠点、よろしく。