物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

南越前町杣山周辺

2023-05-14 | 行った所
花蓮の咲く季節はまだ遠い。蓮池は一面小さな薄緑の水草に覆われ、その間から、蓮のまだ小さな葉が顔を出している。
蛙が鳴いている。
蓮池に向かった木陰のベンチに腰を下ろす。
陽射しはそれなりに強いが、暑くはない。風がさわさわと木々の葉を揺らす。蛙は一種類ではない鳴き声だ。
その合間に鳥の声もする。向かいの山の緑が濃い。その上の青空に飛行機雲が一筋、次第に伸び、下の方からかすんでいく。
蛙の歌が草野新平の詩に聞こえてくる。とろとろと眠気がさしてくる。


花ハス公園への道の途中に、杣山神社がある。杣山の北側を東へ走る道だ。


花ハス公園を過ぎて、東へ行くとほどなく、たくら街道という標識があり、右手に折れて街道に入る。すぐトンネルだ。
トンネルを抜けると橋がある。左手に大きな採石場がある。川は田倉川。橋を渡るとT字路になる。左へ、東の方へ行ってみる。

右手に何か案内板がある。あまりよくわからなかったが、南北朝時代の遺跡のようだ。

古耶の宮(杣の宮)なるお宮さんがあり、武士たちはその前を馬に乗って通ると落馬した。宮の正面を変えて建て替えると落馬しなくなった。

ここの馬上免はそういう意味らしい。馬上免がこの辺の地名らしい。
ここから北西方向にあるのが杣山。

南朝方新田義貞らがこもった。その前の敦賀金ケ崎上の戦いで、義貞側は敗北を喫し、「玉」恒良親王と尊良親王を失い、杣山に逃げ込んだのだ。
続く狛山の戦いでも、義貞は北朝の斯波高経方に敗れ、北へと落ちる。新田義貞が死んだのは、現福井市になる灯明寺繩手である。
瓜生保は、南越前町、南条郡飽和村出身らしい。死んだのは金ケ崎城か杣山の戦いで、墓は敦賀市樫曲にある。476号線樫曲から少し入った北陸新幹線樫曲トンネル工事現場の近くだ。

但し、碑は明治時代に建てられたものだ。
瓜生保は、確かに南朝方として戦死したのだが、北朝側についていた時期もあったはずだ。南北朝の全国的騒乱は、地方豪族もどちらかに味方せずにはいられず、どちらが勝つのかを慎重に見定めようとしたのだろう。
鈴木善那というのはさらにその下の武士であろうか。

この辺りで道を西に引き返し、今庄に出ることにする。
途中案内板を見た。田倉は宅良ともかくようだ。

田倉川


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