福井市街地で、近世以前、というより第二次世界大戦前の建築物はほぼない。戦火、アメリカ空軍の福井大空襲は1945(S20)年7月19日だった。その一週間前は敦賀空襲は原爆の予備弾、すなわち広島のピカドンの予行演習だったという。
加えて1948(S23)年6月28日、大規模地震が発生。被害地域は福井市のほぼ全域、近隣に及ぶ。死者は5000人を越え、阪神淡路大震災に匹敵するが、神戸と福井では人口密度が違う。戦後数年を経ない時期で耐震建物など望むべきもないとはいえ、この被害は如何にも大きく、壊滅的なものであった。
これは幕末期の福井城下の絵図(福井市郷土歴史博物館平成30年特別展「江戸・京・大阪と城下町福井」図版集より)
現代の地図と比べることが出来る。
内堀と本丸の石垣のみが残った城址(中に建っているのは県庁と県警という不粋さだが)、足羽川、いくつかの寺院は比定可能だ。
内堀以外の掘割のほとんどが埋められ、区画整理がされているが、元の道がわかるところもある。
南から福井城下に入るには、足羽川を越えなければならない。そして足羽川にかかる橋は九十九橋ただ一本。橋を渡り、北進する道は呉服町通、そして東に方向を転じ、松本通を東進、加賀御門から北進するのが北陸道のおおまかな道筋だ。城下町の常として、城と武家屋敷のエリアをを大きく迂回するルートになる。
注目していいと思うのは、呉服町通りから松本通りに曲がる辺りの北に書かれた室屋の文字である。室屋というのは醸造業者のことである。今ここにあるのは室次というガソリンスタンドだが、この店は元々は天正年間の創業という信じ難いような由緒を誇る醤油屋なのだ。当主は代々次左衛門を名乗る。室屋の次左衛門だから室次となる。現当主は第15代目の次左衛門さんである。室次のHP https://www.muroji.com/history に歴史が記されているが、書類はことごとく消失しているらしい。先代の聞き書きとして明治のころの醤油醸造業者の様子が見える。
室屋の文字のすぐ左下に「イワイ丁」が見える。この辺りの町内会名が祝町である。田原丁も見える。呉服町も今では住居表示は順化2丁目なのだがここも町内会名として残っている。
加賀口のすぐ脇に水路がある。城下図の濠の一部だろうか。
加賀口から真直ぐ南下し松本通に出た場所にある和菓子屋さん昆布屋孫兵衛の看板に加賀口御門の表記がある。
このお店の創業は天明期だそうだ。近くで城下絵図に見えるセイレンジも確認できる。
簸川神社は加賀の前田家が参勤交代の時に休んだとあるが、前田家の参勤交代には北周り経路が多く、越前を通るのは例外的な事だったらしい。
松本通は城下絵図に松本の町名は確認できるが、今のような道が東西に走っていたわけではない。松本通りの植栽は松だ。街道の並木の松とは違うようで、単に松本の松に拠ったようだ。ただ福井城下で東西に走る道はこの辺りにあった、ということだ。フェニックス通を渡り次の信号の南東角に米五がある。
米五は天保2年(1831)に創業したという味噌やさんだ。当主は米屋五右衛門を名乗っていたという。更に芭蕉碑がある。今あるのは近年のものだが、元のものは戦災で失われたが寛永元年のものだったという。「なき名たつ空とはいへど星こよい」の句が彫られている。
米五を城下図で探したが残念ながらわからなかった。
続いて右手に現れるのは室次、ガソリンスタンドだが、看板がある。
左折し南下、呉服町通に入る。呉服町というからには呉服屋が多いはずだが仏壇屋が多いような。福井一繁華な通りだったというが・・・それでもNHK前通を横断し上呉服町へ入ると北国街道の表示が出てくる。
和蝋燭屋さん、仏壇屋さん、呉服屋さん、陶磁器屋さん、尋ねればそれなりの由緒ある店だったのかもしれない。
呉服町が終わり、京町の案内板がある。
それを過ぎて九十九橋だ。