物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20190903 石川県立歴博 富樫館跡 多太神社

2019-09-05 | 行った所

野々市から犀川を渡って金沢市街に入る。といっても野々市市も金沢市もほとんど一体化している。
広坂を上がり、石川県立歴史博物館へ。特徴的な赤煉瓦の建物は、旧陸軍兵器庫で移築されたようだ。
中庭には辰巳用水の石管が再生されており水が流れて涼しげだったのだが、意外に風が強い日で、私は帽子を池に飛ばしてしまった。


展示はオーソドックスだ。古墳や豪族の分布図等は学芸員の労作だろう、義仲の事も触れられてはいたが、説明のバックの壁紙のようなものは、倶利伽羅峠の戦いの屏風絵か何かから採った火牛だ。誤解を招くようなものだと思うが、平安末を専門にする人がいないのかもしれない。一向一揆と前田家の比重はやはり大きい。明治以降はほぼ民俗の展示といっていい。平日の所為かあまり人がおらず、ゆったりしていてよかった。
富樫の屋敷跡が野々市の方にあるらしい。富樫氏は平家物語にも義仲の加賀の手勢として出てくる。火打合戦の後、加賀の方へ退いて戦うが、ここでも負けてしまう。「平家 加賀の国に打ち込み、富樫・林の2城郭を打ち払う」とあるが、この2城の場所が分からない。林は加賀というより福井の東藤島のあたりではないかと思うのだが。富樫城もこの時は野々市だとは思えない。平家はこの後、篠原(片山津)に集結し、倶利伽羅と志保へ向かう。篠原と野々市では直線距離でも30kmを超す。富樫は義仲とともに京へ上るが、少なくとも義仲最後の手勢の中には入っていない。
この頃の加賀の国衙は小松なのだが、この後、富樫が加賀の守護になると、小松よりも富樫の本拠地野々市が栄える。現金沢城のあたりの山は高尾城という富樫の城だったらしい。この高尾城を一向一揆が攻め落とす。守護富樫政親敗死、加賀は百姓のもちたる国となった。

野々市に戻る。野々市工大前といういしかわ鉄道の駅の脇に富樫館跡の碑があった。


小松へ向かい、多太神社へ行く。
裏口から入ってしまったのでよくわからなかったが、表の方は意外なほど長い参道があった。参道の両脇には民家があるが、少なくとも参道の周りを社域としてもそれなりに大きな神社だっただろう。ここに齊藤実盛の兜が義仲により奉納されたという。一般公開はしていないらしい。社務所らしいところもかぎが掛かっていて誰もいなかった。


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