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物忘れの激しい猫のための備忘録

鵜川のこと

2019-07-30 | まとめ書き

加賀国鵜川寺、白山の末寺だと言う、ここの湯殿に国衙の目代が乱入、馬を洗ったとか、怒った僧どもが、馬の足を折ったとか、埒もない喧嘩とみえたものが、叡山巻き込み大騒動になっていく。
さて、鵜川寺は加賀にある。加賀の国司、目代は後白河院の寵臣西光の息子、鵜川寺騒動は弟目代の起こしたものだが、鵜川寺は国衙の近くとある。加賀の国府は小松だ。小松付近に絞ったら鵜川がある。遊泉寺という地名もある。

鵜川寺を焼き、騒動を起こした加賀の国司と目代は、後白河法皇の寵臣西光の息子たちで、師高、師経という。西光は元は北面の武士だが、後白河の荘園の管理人のような役をしている。実質的に法王の財政を握る人物といっていいだろう。この人物が、寺社領を自分たちの傘下にしようと起こした騒動らしいのだが、実はもっと伺った見方もある。
鵜川寺は白山の末寺、国衙側の焼討・狼藉に白山神社に駆け込み、白山の僧兵が目代屋敷に攻め寄せるが、目代師経は京へ逃げ帰ってしまう。おさまらない白山は神輿をもって比叡山に向かう。鵜川は白山の末寺、白山は比叡山の末寺、という構造だ。白山と比叡山の神輿は内裏へ向かう。強訴である。後白河の曽祖父白河法皇が思うようにならないものと嘆いた、鴨川とサイコロと山法師、その山法師の強訴だ。数を頼んで押し寄せる。内裏の警備は武士の仕事、源三位頼政は手薄なところの守りにいたが、うまく僧兵たちを平家の守る門へ回してしまう。平家は黙って僧兵たちを通すわけにもいかないので、矢を射かける。矢は神輿にも突き刺さる、多くのけが人を出した僧兵たちは神輿を放り出して山へ帰る。さらに神罰か、京都の町は大火事に見舞われる。
というのが事件のあらましで、この後、怒った法王が延暦寺の天台座主明雲を遠流にするの、取り返すのという話が延々と続く。
さて、伺った見方というのは、西光(後白河)が比叡山と事を構えるため、わざと加賀で問題を起こした、というもの。時あたかも後白河と側近達による平家打倒の陰謀が進行中、鹿ケ谷の陰謀、である。比叡山と法王の合戦と見せかけて兵を集め、その兵をもって平家を攻めようという作戦。ということなのだが、そこまではうまくいったとしても、本気で後白河のために平家と戦おうという兵がいただろうか。それに鹿ケ谷に集ったメンバーを見ればそんな作戦の遂行能力がありそうにも見えない。俊寛、成経、康頼らだが、いずれも命惜しさに右往左往する情けない連中だし、鹿ケ谷でも猿楽騒ぎ、多田の行綱が不安のあまり清盛の下に駆け込むのも不思議ではない。但し、西光ははるかに肝が据わった人物だ。清盛の前に引き出された西光は敢然と清盛をののしっている。


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