高岡は大伴家持が何年間か居たことから万葉集で売り出したらしい。高岡万葉歴館へ行く。結構凝った建物だ。新しそうに見えたが、1900年の開館だそうだ。メンテがいいのだろう。中身はほとんど家持に特化していると言っていい。家持が視察して歩いたルートの地図がある。能登の珠洲あたりまで行っている。行は陸路、羽咋を通り、帰りは海路だ。
越中一宮気多神宮へ行く。羽咋にある気多神社の分社?らしい。
国分寺跡が近くにあった
義仲は、倶利伽羅合戦の前でに越中に来て六動寺の国府に入ったとある。伏木の六度寺らしい。
雨晴海岸へ寄って氷見に向かう。
さて、義仲である。倶利伽羅での勝利の後、志保山へ向かうのであるが、これが分からなかった。
平家は倶利伽羅の前に兵を二手に分けている。主戦力が倶利伽羅へ、搦め手が志保山へ。これに対応して義仲も叔父の行家を志保へ回す。
倶利伽羅は越中へ向かう街道だった。ならば志保も越中へ向かう街道になければならない。志保山はわからないのだが、実は羽咋に「しお」という地名はある。子浦、志雄、等と書く。子浦川という川もある。この川の源流らしき山は石川・富山県境となる。この辺りか、と思えるが今ひとつピンとこない。
ここではもう一つわからないことがある。義仲は志保山へ向かうのに氷見へ行っているのだ。しかも氷見の港をザブザブと馬で渡ったという。これこそハア?である。志保山とは違って氷見湊は氷見港である。そこをどうして「渡る」のか??氷見の北の方に海に突き出た阿尾という城塞があったけれどもあそこに行こうとしたとしても海に入るか?港に注ぐ河川でも渡ったかな、馬で渡れるような河口があるだろうか、等と思ったのだが、誰でも考えるのは同じと見える。http://gichumania.o.oo7.jp/index.html 「義仲マニ屋」というサイトの中「木曽殿聖地巡り北陸道1」で十二町潟あたりを比定している。マニアというだけあって大変詳しいサイトだ。また大変な機動力だ。
十二町潟は水郷らしい。また川の名は万尾川。万を数えるような水路が流れ海に注ぎ、満潮時には潮が逆流もしてきただろう。現在海まで1km以上あるようだが、だいぶ埋め立てられてもいるのだろう、この潟を馬で渡ったというならうなづける。
義仲は氷見から能登半島を横断したはず、その途中に志保山があったか着いた先が志保だったかはわからない。万葉歴史館にあった家持の地図では羽咋へ行くのに、もっと南のルートをとっているようだが、羽咋を目指す一般的なナビ様ご推薦の道を行く。国道415号線だ。酷道ではなく立派な道だ。2車線確保されているし、それほどカーブもきつくはない。山を越えて羽咋には出たものの、また困る。平家にはこうある「志保山打ち越えて、能登の小田中、新王の塚の前に陣をとる」 小田中新皇塚、というのはある。但し、ここ、415号線と159号線が交わるあたりから北東へ7~8Kmもある中能登町になる。子浦までは4Kmくらいだ。志保では行家が苦戦中だ。急いで駆けつける途中なのだ。親王塚へ行くのは志保山の戦いの後でなければならない。そうなると、義仲は家持張りに南ルートで志保山を通り、ひと合戦して平家を蹴散らしてから北上し、新皇塚で陣をはったということになるが、そんな面倒なことをするかな。目指すは京都、何故戻るのか。
新皇塚にはほとんど予備知識なしで行ったので驚いた。陵墓参考地だ。周りをまわって見る。外周縁辺は補修してあるようだがかなり大きい。立派な円墳だ。すぐ下に前方後方の陪塚がある。三角縁神獣鏡が出ているらしい。現状日本海側最北端の出土地だろう。周囲は直近まで民家が迫っているが、なんとなく古くから開けた感じの集落だ。家持の地図にあった越蘇駅はこの近くだろうか。
この辺りの有力者にでも会いに行ったのだろうか?
志保山の戦いはどうもすっきりしない。倶利伽羅峠で大勝利を収めた義仲はそのまま西へ進み、加賀へ出て志保山、というコースでは何か不都合があったのだろうか?行家が氷見から志保山へ行ったのなら挟撃できる可能性もあるのに。
後日、ネットで「義仲道」を見つけた。「街道古道廃道道」というサイトで「富山 名のある通り」http://www7b.biglobe.ne.jp/~kiku-uj/na2/tym/tym3.htm
「義仲道あるいは蓮如道と呼ばれる道は氷見の穂積から芝峠を経由し中能登町の久江に抜ける古道を言う。一刎越えとも言われ、氷見市稲積-芝峠-久江原山峠-久江の道順 となっている。寿永二年(1183年)木曽義仲が能登への進撃につかった道と言われている。この事から義仲道の名がある」とあるが一切根拠が書いてない。が、この道を行けば小山田親王塚の近くへ出る。いったい車は通れるのか?という道だがここを使ったのなら、志保の合戦前に新皇塚に陣を敷いたことになる。となると「志保山打ち越えて」が宙に浮いてしまう。いったい志保山とはどこなのだ?