7月27日土曜に朝から出かける
加賀の国府は越中国府伏木のように明瞭ではない。一応小松市国府、総社だった石部神社付近ということになっている。数年前に発掘調査はなされたらしいが確たる遺構はなく、遺物も少ないようだ。
石部神社といったってナビに出てくるわけでもないので、1キロ以内ではあるらしい企業の営業所を目標に出発する。
その後は小路に入り、集落の中をうろうろ走り、それらしい所へでる。
鳥居をくぐるとかなり立派な碑があり由緒が書いてある。近年のものだ。安元の遊泉寺騒動の被害を受け没落した、とある。鵜川騒動のことだ。
石段を登ると、鬱然たる林で荒れ社だ。発掘の為に伐採しただろうと思うのだか、どこだかわからない。あまりの藪蚊の襲来に恐れをなして、にげだした。
周囲を確認すると、ざっと畑地、直ぐ側を川が流れている、梯川だ。昔は鵜川という川だった、ということはないかな。鵜川・遊泉寺ともにこの辺の地名だ。
集落を出て大きい通りに出るところで、なにやら小高いところに碑を見つけたので行って見る。なんと虫塚、天明の飢饉の後、ウンカの大発生をみ、その年も凶作、ウンカを集めて、五斗俵に20数俵になったとある。どんな量か見当もつかないが、そのウンカを供養した碑だという。人丈ほどの柱状の碑だが、鵜川石で作られている、とある。鵜川石ねえ、凝灰岩のようにに見えるがこの辺でとれるのだろう。
「遊泉寺温泉」の看板があったのでで行ってみる。ピュア遊泉寺というのだが、銭湯の少々大きいものといった構え、寺社とは関係がないようだ。しかし、この辺りは温泉も出るのか。騒動の発生した湯殿というのは温泉だったのかな?
遊泉寺銅山址、石切場址、というのも見つけ、これも行ってみる。
銅山だった山に遊歩道などを整備中だったが、その前の広場のようなところに銅山の沿革や創業者の碑などがある。この創業者、竹内明太郎というのだが、元土佐藩士、鉱山技師になるが、機械工学全般すごかったらしい。小松製作所の創業者でもあったのだ。
石切場址の方は、見つけはしたが、私有地につき入るなの看板があり、引き返した。近くの鵜川町集会所の前にこれも鵜川石らしい柱状の碑があった。西南の役戦の没者供養塔だった。維新後徴兵制が敷かれて最初の戦争、この辺りの農家の次男三男、出征したのだろう。
近くにあった若宮八幡にも寄ってみる。近年建て替えられた社らしかった。ここの由緒の碑文でも鵜川湧泉寺事件のことを言及している。奥の方に旧社にあったという古式な感じの狛犬と石の祠のようなものがあった。