物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20190623 今庄 燧が城

2019-07-02 | 行った所

舞若道を敦賀で降りる。敦賀から今庄に向かうのだが、下道、国道476を走る。途中まで近くに高速が見える。高速道路から見え隠れする一般道は8号線かと思っていたが違うのだな。杉津の方にはいかず木の芽峠の方へ向かう道だ。高速のトンネルの名前として見覚えのある集落名の標識がある。木の芽峠の処はトンネルだ。鉄道、北陸本線もこのあたりを走っていたらしい。北陸トンネルができる前だ。ようやく少し整理がついてきた。木之本から北上する北国街道は敦賀を通らず栃木峠を越えて今庄に至る。東近江路ともいう。敦賀を通る道が北陸道、西近江路になる。大浦や海津からの道も北陸道に収斂し敦賀に至る。

 
 


福井―今庄間8里、一日の行程だという。8里といえば32㎞か、とても歩ける気がしないが・・・ちなみにここ1年くらいの間に一番一日の間に歩いたのは、特大連休で四国へ行った2日目、15.1km、というのがスマホに記録されている。

今庄の町に入りふるさとという蕎麦屋で昼食。ここのそばはおいしいが汁蕎麦を出さないという難がある。
蕎麦屋で燧城への登り口にあるという新羅神社(しんら、と呼ぶらしい)の場所を聞いたのであるが、床屋の脇だという。その床屋が見つからないのだ。うろついて、燧城の案内板を見つけた。確かに新羅神社の脇にはかつては床屋だっただろうと思われるものもあった。

 


登り口に芭蕉の句が書いてあった。芭蕉は木曽義仲のファンだったらしい。「義仲の目覚めの山か月悲し」ここで読んだというが、句はぴんと来ない。この燧城の合戦は義仲自身は参戦していない。義仲勢が燧城に立てこもる。ここは北陸道・北国道が交わる要衝、さらに山の周りで川をせき止め、深く濁った湖に見せかけ守りを固めていたという。
しかし、義仲勢の大将格の一人、平泉寺の僧斉名の裏切りにより城は陥落する。堰き止めたという川はたぶん鹿蒜(かひる)川という川だ。西南から流れ着て、今庄辺りで日野川と合流する。平家はどこから来たのだろう。栃木峠を越えたか木の芽峠を越えたか、平家物語には記述がないが、福井県史によれば源平盛衰記には記述があり、平家は2手に分かれ、まさに栃木・木の芽両方向から来たようだ。山越えの前、平経正は竹生島で琵琶を弾いて戦勝を願ったという。燧城における平家の勝利はこの願がかなったものとみなされる。しかし次の戦場は倶利伽羅だ。

福井県史通史編より



山道を登っていく。カタクリの自生地の標識がある。案内板によれば、燧城趾は藤倉山という650mほどの山の中腹標高270mとなっている。しかし150mほども登ったろうか、途中で柵がしてあり、侵入禁止の様相である。仕方なく引き返したが、後で地元の人に確認すると鹿よけの柵で登ってもよかったらしい。この次は登るぞ。

燧城登りは諦め今庄の宿を散策する。いい街並みだ。宿場として栄えた往時がしのばれる。しかし、木之本でもそうだが、宿場或いは他の産業でそのまま発展を遂げていたら宿場の風情は残っていないだろう。今、宿場の風情があるということは今はさびれているというに等しい。

袖ウダツ、というようだ。今庄の町の家々の2階の正面端左右に妙に前のめりになった袖壁のようなものが取り付けられている。雪除けなのか風除けなのか。酒屋で地酒を一つ買う。京藤甚五郎家という酒屋が修復され見学に供されている。入ってみる。なかなかの文化人でもあり、橘曙覧とも親しかったらしい。この今庄の宿が水戸天狗党とも関わり合いがあったことを初めて知った。かなり正確な日本地図が表装されて掛かっていた。元は折りたたまれ持ち歩きようだったかもしれない。左隅をよく見ると文化8年再刻とある。印刷物だよこれ。


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