2019070607 加賀越中 1
天気はもちそうだ、8時出発、坂井町に寄って高速に乗る。
片山津ICで降りる。片山津温泉、昔来た事あったなぁ。柴山潟湖畔に至りこの潟から日本海に流れ出す川に架かる橋の名は「げんべい橋」という。源平食堂という看板も見える。ちょっと笑える。
橋を渡ってすぐ右手に首洗い池がある。池自体は小さい。篠原合戦場跡だ。池の上に合歓が満開だった。
火打城の戦いを勝利し、加賀に陣を進めた平氏は一旦この篠原に集結したようだ。ここから越中路へ向かい、倶利伽羅峠で大惨敗を喫す。生き残った者達は再び篠原に集まり、義仲勢を迎え撃たんとするが、勢いに乗る源氏の敵ではない。
ここで語られるのは斎藤実盛の最期である。
この人は不思議な語られ方をしているように思う。関東武者だというが越前の出身だという。源氏方で源義賢についていたらしい。義賢と義朝が対立すると義朝につく。しかし、義賢が義朝の長子義平に殺されると、義賢の子駒王丸(義仲)2歳を助け木曽へ届けるのだ。平治の乱後、実盛は平家につく。西の平家・東の源氏とは言うものの実際には東の侍も平家に従っている。以仁王が挙兵した時の宇治の橋合戦では関東武者が利根川で使っていたという渡川法、「馬筏」で宇治川を押し渡っている。この場に実盛の名は見えないようだが、富士川で頼朝勢と平家勢が対峙したとき、実盛は関東武士の勇猛なる事を説き、平家の者たちを怖気づかせてしまい、水鳥に驚き敗走するという醜態を演じさせる一因になったという。
ここで思うのである。実盛は源氏に寝返ることを考えなかったのだろうか。想起するのは源三位頼政である。頼政も保元・平治を勝ち組に拠り、平家の信頼も厚く、位階も上がった。しかも齢70過ぎだという。しかし頼政は以仁王に平家打倒の令旨を書かせ、挙兵を即すのである。そして宇治の平等院で力尽きる。この頃はまだ平家は事態を掌握できた。しかし将にこの挙兵が呼び水となり、頼朝・義仲が立ち上がり、与するものも多い。実盛は富士川で信じられないような平家の弱さを見ただろう。この北陸路での合戦の御大将も富士川と同じ維盛なのだ、頼りがいのある大将とは言い難い。そして平家を率いてきた大総帥、清盛は既に死んでいない。実盛は武蔵の長井荘の別当だという。鎌倉時代で言うところの地頭のようなものらしく、その地位は平家に安堵されていたろうが、今、東国は源氏のものとなっていく。実盛は頼朝・義仲双方に縁もある。特に義仲にとっては命の恩人といっていい存在で、義仲を育てた中原兼遠や樋口兼光とはお互いに信頼しあった仲だ。義仲の下へ行けば喜んで迎え入れられただろう。篠原の合戦前夜、仲間の関東武士と飲み交わし、義仲についた方がいい等というが、翌朝はあんたらを試したのだ、と討ち死にの覚悟を語るのだ。ここの場面は引っ掛かる。妙な事を言うものだなと思う。平家物語にはあるが、源平盛衰記にはない場面だが、富士川での相手の勇猛さの吹聴といい、もともと妙な事を言うのが癖のじいさんだったかもしれない。どうせなら、倶利伽羅でこんな山中での野営は危険だ、位のことを言えばよかったもの、と思うのだ。維盛は余計な差し出口を叩くな、と怒り出すような大将ではなかったろうに。
実盛はあくまで平家として戦う。実盛の子供も父の命を守り、維盛の遺児六代に最後まで付き従った、というから、維盛には実盛の心を捉える何かがあったのだろう。
実盛は大将クラスが着るような錦の直垂の戦装束で戦う。しかも髪を黒く染めて。装束に関しては、事前に宗盛の許可を得ている。故郷に錦を飾る、の意だそうだ。火打合戦で手ひどく義仲を裏切る斉明という平泉寺の坊主は実盛の親戚のようだ。武蔵に本拠があり関東武士の矜持もあろうとも、既にお国言葉は武蔵のものとなろうとも、故郷は越前だったということか。織田信長の祖先は越前織田荘で、越前朝倉の出自は兵庫県北部の山中にある。しかしその移動は室町期である。どのような経緯で実盛が武蔵へ行ったか分からないが、末期とはいえ平安時代にこの移動、ちょっと意外であった。
芭蕉の碑があった
無残やな兜の下のきりぎりす
実盛の首を抱えた義仲が泣くシーンのモニュメントにいたバッタがご愛敬