物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20200904 瀬田

2020-09-09 | 行った所

「逢坂山うち越えて、勢田の唐橋駒も轟と踏み鳴らし」
平家物語第10巻「海道下」の道行だ。重衡を連行する一行は瀬田の唐橋を渡る。
現在琵琶湖には近江大橋・琵琶湖大橋をはじめ、1号線の橋、高速道路の橋、鉄道各線の鉄橋などいろいろ架かって入るが、平安末どころか近世にいたるまでにあったのは勢田の唐橋ただ一つ、俵藤太のムカデ退治の伝説の舞台にもなれば、今井兼平が粟津で義仲と再会する前、必死と守っていたのが勢田だった。勢田の唐橋は京阪石山坂本線唐崎前駅のすぐ東にある。駒も轟と踏み鳴らしが交通量が多い事を言うのならば今もそうだ。滋賀県道2号線で片道一車線、瀬田川の西岸寄りに中島がある。その島を間に置いて橋は架かっているが、長い橋だ。島は大きく、飲食店や老人ホーム、水位計の施設もある。俵藤太の案内板があるのもこの中島だ。


瀬田橋の上でムカデ退治をしたかと思いきや、藤太は大蛇に化けていた琵琶湖の竜宮の王に見込まれ、三上山のムカデを退治するのだ。これはこの土地、近江に根差した物語だ。俵藤太と藤原秀郷とは本当に同一人物なのだろうか?活躍の場が違う気がするのだけれど。それに曽我物語に出てくる大見小藤太。大見と近江は違うけれど俵藤太と何かつながりがありはしないか。

瀬田橋東詰、こんなところに竜宮がある。


建部神社 滋賀一之宮だそうだ。

平治物語では、伊豆へ向かう頼朝に纐纈盛康という者が、武部神社にて頼朝に霊夢をささやく。彼は鏡の里まで供をする。

寿永2年(1183)野戦があり焼き払われたとある。なにに書いてあるのか、義仲の京都入りに際しての事件と思われるが、分からない。

 


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