物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20210227 若狭 三方五湖

2021-03-07 | 行った所

三方五湖の周辺は桃源郷みたいなところだ。特に早春。春の光の中に梅林を通してみる湖水はかがやき、風が渡る。
以前来た時には、犬・猿・雉を相次いで見かけた。

三方五湖は五つの湖が寄り添うように存在するのだが、それぞれに性格が違うようだ。
菅湖は小さく水月湖とつながり、水月湖は三方湖と繋がる。久々子湖と水月湖は江戸時代に掘られた浦見川という運河によってつながり、水月湖と日向湖とは嵯峨隧道というトンネルの水路によってつながってはいるが、水門は滅多に開けられないらしい。久々子湖と日向湖は海につながっている。


久々子湖は南北に細長く、北は早瀬川という川で海につながるため、南側に比べ海の雰囲気も少し持つ。海岸部に早瀬という漁港がある。

 早瀬

 早瀬の水無月神社

若狭の地酒に早瀬浦というのがあるが、造っている酒屋はこの近辺らしい。

 久々子湖

日向湖は他の湖との関連が薄く、もっとも海に近く、荒々しさを秘めている。

 これは海だが。

水月湖はもっとも大きく、いくつかの特徴から有名だ。
水月湖には直接流れ込む大きな川がない。湖底をかき回す水流がなく、底の方に酸素がなく生物活動がない。だから堆積物がそのまま沈殿していく。
沈殿物の量は毎年0.7mm、堆積物がの断面は縞模様であり、これを年縞という。水月湖の年縞は世界標準と認定されている。

 水月湖

 嵯峨隧道

 三方湖
三方湖湖畔に若狭三方縄文博物館に隣接し年縞博物館がある。縄文博物館は鳥浜遺跡を中心とする博物館だ。鳥浜は縄文時代のタイムカプセルと云われた。今では三内丸山遺跡・桜町遺跡など木質遺物が多く出土したところが全国的に多くは調査されるようになったが、鳥浜は早い例である。

 菅湖付近

梅まつりの梅会館の梅

 

久々子湖と水月湖を結ぶ浦見川の東1km足らずの所に宇波西神社がある。

浦見川を開削した碑

 

 

境内に王の舞の像がある

王の舞は若狭のお祭りだ。小浜にある若狭歴史民俗博物館に詳しい。

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20210227 若狭 倉見荘

2021-03-07 | 行った所

三方湖に南から注ぐ、鰣(はす)川に沿って登ると倉見という集落がある。若狭町になる。若狭の倉見荘という新日吉神社の荘園はこの辺りに比定されている。この荘園は常神半島先端部にも飛び地を持つ。

 福井県史より図

倉見の集落へ入る手前に、闇見神社というものを見つけた。

くらみ神社というらしい、闇見=倉見なのだ。

その脇から古道が伸びる。


近江坂古道だそうだ。

山の尾根伝いの大変な道に見える。

石仏が集めてある

倉見神社は天満宮だ。工事のシートみたいに見えるが梅鉢紋一つでそれらしい。

境内に「闇見神社例祭式諸人座席碑」というのがあった。

お祭りに集落の代表が据わる席次かと思われるものが字が逆さになったり、横を縦にしたり、彫ってある。よくわからないが、このようなものの碑は初めて見た。

集落へ向かっていくと三十三間山登山口の駐車場がある。


かなりの山だ。頂上から琵琶湖が見えるそうだ。
三十三間山の名は蓮華王院の棟木を切り出した山だからだという伝承があると、近江坂古道の案内板にあった。

 

***************************** 以下福井県史 ************************

第四節 越前・若狭の荘園の諸相
      三 倉見荘
       鎌倉期の倉見荘


 三方郡倉見荘は、三方湖に注ぐ川の中・上流部周辺に広がった荘園である。鎌倉期の文書には、岩屋・井崎・白屋・黒田など現在まで残る字名がみられ、倉見の地名とともにかつての倉見荘の故地が推定される。文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳案(大田文)には一四町七段八八歩の荘園としてみえるが(ユ函一二)、永仁三年(一二九五)の実検田目録によれば、加野新田三七町余をも加えた田数総計一〇〇町を越える規模の大きな荘園として記されている(資8 大音正和家文書二一号)。また川沿いの本荘とは別に、若狭湾に突き出た常神半島の先端に近い三方郡御賀尾浦(三方町神子)も倉見荘の一部とされており、飛地のような形で扱われていた。 
 
 荘園としての成立は嘉応二年(一一七〇)ごろと考えられ、領家は京都にある新日吉社であった。一方で倉見荘は、若狭の有力在庁官人稲庭時定の没収所領を受け継いだ若狭忠季が地頭職を有していたことが知られる(ユ函一二)。当荘の地頭に関しては、忠季のあと誰に替わったか定かではないが、鎌倉末期には守護得宗領となっていたらしく、またそれ以前遅くとも十三世紀の後半までには、東国出身の御家人が実質的に在地の管理にあたるようになっていたと考えられる。御賀尾浦では永仁ころから年貢などの貢納に関して何度か訴えが出されているが、その裁許を下した地頭のなかに、鎌倉幕府の有力御家人である二階堂氏とおぼしき人物が見出されている。なお荘内には恒枝という他と較べてかなり規模の大きな名があったが(資8 大音正和家文書二一号)、これは倉見荘を本拠にしていたと思われる御家人倉見氏が名主であった可能性が高い。
 ところで、前述のように倉見荘は御賀尾浦をその領域に含み込んでいた。このように内陸の荘園と海辺の浦とが一組にされる例が、若狭ではほかにも国富荘と犬熊野浦、宮河荘と矢代浦、西津荘と多烏浦などの間にみられる。若狭国は周知のように、漁猟・製塩が発達し、また日本海交易の舞台として廻船人の拠点も点在していた。そうした事情を背景に、荘園領主は海産物に対する欲求を満たし、あるいは日本海への窓口としての役割を期待して、浦々を領域化していったものと理解できる(一章六節六参照)。実際、若狭に荘園をもつ領主の間に海産物を入手しようという欲求が強かったことは、小浜から南川をさかのぼった山間に位置する名田荘からですら、領主が公事として塩・昆布・蚫(鮑)などを納めさせようとしていることからもわかる(資2 真珠庵文書二九号)。新日吉社も倉見荘を若狭における最大の拠点とし、平安末期以来少なくとも伯耆にまでいたる日本海を広く交易の舞台としていた海人の根拠地御賀尾浦をも組み込むことで、海産物の収取と日本海への窓口を確保しようとしていたと思われる。また近江にある日吉社の動きも活発で、嘉禎元年(一二三五)には日吉神人拒捍使代官の大和房と称する人物が三川浦(御賀尾浦)へ乱入するという事件もおきている。御賀尾浦は新日吉社領であり、住人は新日吉社の神人として油役を勤めて きた。ところが大和房は彼らを無理やり日吉社の神人にしようと企て、住人らが反対するのも無視して日吉社神人への任符(任命状)を住宅に「捨置」いていったというのである。日吉社は少しでも神人を獲得しようと、このような多少強引な手段も使っていたのである(資8 大音正和家文書六号)。このほか贄としての海産物も注目されており、御賀尾浦には延慶三年(一三一〇)に東国出身とおぼしい藤原盛世なる人物によって信濃諏訪社の末社が勧請され、諏訪本社にも干鯛・員魚などを納めることになっていた(同二七号)。

 

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20210227 若狭国吉城趾

2021-03-07 | 行った所

若狭国と越前国を合わせて福井県となっている。福井県を地方で分けると嶺南と嶺北地方ということになるのだが、これは若狭と越前と同じではない。敦賀は越前だが、嶺南となっている。若狭の最東端は美浜ということになる。

戦国時代、若狭は武田氏、越前は朝倉氏が支配した。武田と朝倉は或いは協力し、或いは対立して来た。

武田氏は、名高い甲斐源氏武田信玄と同族である。八幡太郎義家の弟新羅三郎義光を祖先に持つ。甲斐から安芸へ分流するが、更に室町時代安芸武田氏4代武田信繁の嫡男である武田信栄が若狭守護に任じられた。朝倉氏は越前守護の斯波氏の家臣から戦国大名へなっていった下克上の大名である。武田の方が由緒正しきといえようが、戦国大名としての実力は朝倉が上だっただろう。

国吉城は若狭の越前に対する押えの城だ。居館は山のふもとにあり、

本丸は山上にある。資料館脇が上り口

築城は武田の家臣であった粟屋勝久。武田信豊の二人の息子が家督を争い、長男義統が継いだが、勝久は弟に与し、反乱を企てた。
武田義統は朝倉の力を借り、勝久を討とうとする。押し寄せる朝倉勢に、勝久は籠城戦で対抗する。国吉城は守に安く、攻めるは難しい堅城であった。


後の織田信長の朝倉攻めに、勝久は協力し、信長を国吉城に迎えている。

朝倉・武田が滅んだ後、若狭を支配したのは丹羽長秀で勝久はその下で国吉城を任されたが、後に城主は秀吉家臣木村定光、堀尾吉晴と変わっていく。堀尾は松江城を築いたことで知られる。

資料館がある。

小浜藩佐柿奉行所跡で、木村定光が城下の整備を行い、丹後街道を城下に通した。江戸時代の小浜藩主酒井忠勝が、相木陣屋と呼ばれたこの奉行所跡に休息所として御茶屋屋敷を設けたとのことである。

丹後街道 国吉付近拡大↓

 

幕末の水戸天狗党が捕まり小浜藩に預けられたが、ここでは准藩士として扱った。

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