氷見港 道の駅付近から
かすんでいるが立山が見える
平家物語第7巻「倶利伽羅落」
何度読んでも納得できない志保山合戦に関わる義仲の動き。
厄介叔父行家がどうせ苦戦しているだろうと救援に向かうのはいい。しかし何故、氷見の湊をざぶざぶ馬で渡るのだ?ざぶざぶについては十二町潟がとても大きく、氷見港付近まで広がっていたと考えれば、まあ何とかなりはするのだけれど・・・
倶利伽羅合戦で勝利し、小矢部辺りにいたはずだ。神馬を白山に納したりする。
結局志保山の戦いの場所がわからないのでどうにもならない。加賀越中国境の志保山は宝達山から北に望む一帯の山々とされているのだが、どのあたりか比定されていない。
そもそも氷見へ行くこと自体おかしいのだ。宝達山から北に望む一帯を横切る道路として、現代の道だが県道29号がある。この中ほどが志保山というなら一番納得がいく。どうしても氷見を回るなら、氷見から羽咋へ抜ける国道415号線がある。この道は一度走ったが、それほど勾配もない通行の便のよさそうな道である。
ところが、氷見から中能登町に向けて義仲道と云われる道があるという。
「街道古道廃道道」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~kiku-uj/na2/tym/tym3.htm
「義仲道あるいは蓮如道と呼ばれる道は氷見の穂積から芝峠を経由し中能登町の久江に抜ける古道を言う。一刎越えとも言われ、氷見市稲積-芝峠-久江原山峠-久江の道順 となっている。寿永二年(1183年)木曽義仲が能登への進撃につかった道と言われている。この事から義仲道の名がある。」とあり
「木曽殿は志保の山打ち越えて、能登の親王の塚の前に陣を取る。」という記述に合わせて考えられたのかと思うような道なのだが、どうだろうか。親王塚に陣を敷いたのは志保山の戦いの後である、義仲道の途中のどこを志保とするのだろうか。
氷見から北に向かう山中に一刎(ひとはね)という集落がある。一刎越えといい、林道稲積谷林(村?)線がそれらしい。
一刎から更に北へ向かうと久江原峠があり、そこから久江川に沿って下ると中能登の小田中親王塚の1kmほど東北に出る。
「富山の峠」
http://www1.tcnet.ne.jp/tu-box/touge/touge_2.html
「 氷見市一刎から石川県鹿島郡久江を抜ける道で、県境に峠がある。
歴史のある峠みたいです。一刎越えとも言われ、氷見市稲積-芝峠-久江原山峠-久江の道順で、1183年、同様な道順で木曽義仲が能登へ進撃、1449年、蓮如上人が布教のためそれに近い道順で巡回、などという伝説が残されており、「義仲道」「蓮如道」と呼ばれている。ん~ん!全然知らんかったぞい・・・」
自転車で行かれたようだ。車の道はないような・・・
氷見あいやまガーデンというバーベキュー場のような公園の脇を通る道を登っていく。細い山道ではあるが、待避所もあり車の通る道だ。
SayFarmという牧場に出て急に開けた。なんと氷見の街が見える。富山湾と霞ながらも立山連峰も見える。
牧場を過ぎると道はだいぶ心細い。落ち葉で道が埋まっていたり、倒木があったり、でも残雪に前に行った車のわだちが見える。このわだちを追えば、と思ったのだが、道路全面が雪に覆われた場所で、先行車は引き返している。我々も引き返すことにして、だいぶ下がってUターン。
あいやまガーデン入口からつまま園の前を通る道路に戻る。県道18号線だ。これを北上してみることにする。県道18号線である。
磯辺神社に寄ってみる
磯部から左折し県道70号線に入る。
70号線からの眺め
一刎の集落に入る手前に林道の出口があった。
車が走った址はない。
一刎は小学校もある立派な集落だ。
一刎から引き返し18号を北に向かう。
荒山峠、
ここが県境だ。
石川県側、かつては邑知潟の水辺が広がっていただろう羽咋川沿いの平野部の向こうに能登半島の山、風車と送電線がが見えたが写真では無理だ。その向こうに日本海。
久江川より3キロほど東北に降りてきた。
久江川
近くの弥生遺跡 この辺りの遺跡は山麓と旧邑知潟の間に発達した小扇状地に立地する。