ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

無条件の愛

2018-06-19 | わたしの思い

http://www.thepowerofoneness.com

 

 

 

ベトナムで戦った後、最終的に帰国した兵士についての話がある。


彼はサンフランシスコから両親に電話をかけた。 「お母さん、お父さん、僕は今帰宅途中なのですが、ひとつ頼みたいことがあります。 僕と一緒に帰宅したい友達がいるんです。」 「勿論、いいよ」と両親は答え、「お前のその友人に喜んでお会いしよう。」と言った。


「話しておかなければならないことがあります。」と息子は続けた。「彼は戦いでかなりひどく負傷したんです。地雷の上を歩き、片腕と片脚を失ってしまったんです。 けれど彼にはどこにも行くところがありません。 僕は彼と一緒に帰宅してそこで暮らしていきたいんです。」

「なんというひどいことだ。 おそらく私たちは彼がこれから暮らしていけるような場所を見つけてあげられるだろう。」

「いいえ、お母さんとお父さん、僕は彼に僕たちと一緒に生活してほしいんです。」


「息子よ、」父は言った、 「お前は自分が何を言っているのか分からないようだね。そんなハンディキャップを持つ人は、私たちにとってひどい負担になることだろう。 私たちは自分たちの人生を生きるために、そのような人に混乱させられちゃならないよ。 私たちはお前が家に帰ってきて、その男を忘れるべきだと思う。 彼は自分自身で生きる道を見つけるだろうよ。」


その時点で、息子は電話を切った。 その後両親は彼から何も連絡を受け取らなかった。 しかし、数日後、サンフランシスコ警察から電話を受けた。 彼らの息子が建物から落ち即死した、と言うのだ。 そして警察はそれが自殺であると信じていると言った。


悲しみに襲われた両親はただちにサンフランシスコに飛んで、息子かどうか確認するために市の遺体安置所に連れて行かれた。 彼らは遺体が息子であると認めたが、そこで知らなかったことも発見した。 息子には腕と脚が一つずつしかなかった。


教訓:この物語の両親は、私たちの多くに似ているかもしれない。見栄えが良い人や楽しい人を愛するのは簡単だが、往々にして自分達にとって不都合な人や不快感を与える人は好まないし、健康的で、美しく、あるいは賢そうではない人々から離れたがる。 然しながら、そのように扱わない人がいるのも事実である。 私達がどんなに混乱しているかにかかわらず、永遠の家族に私たちを歓迎し、無条件の愛で迎えてくれる誰かがいる。


今晩、あなたが床につく前に、神が人々をそのまま受け入れるために必要な力を私達にお与えになり、私達とは違った人たちへの理解を深めてくれるよう、少し祈ってみたいものである。

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ディキシィ

2018-06-17 | わたしの思い

http://cattime.com



3月の寒い雪の日、私の猫ディクシーは死んだ。バスルームへ行くと、そこに私は彼女が動かずに横たわっていたのを見つけた。
私はやさしく彼女の頭を撫で、彼女を私の腕に抱いた。そして埋葬するために家の後ろの森に彼女を抱いたまま運んだ。泣かないように歩いていった。


彼女は16年生きてきた。次第に彼女の健康が衰え、毛色も退色していることを知っていた。 彼女を撫でた時、灰色の毛皮を介して彼女の骨を感じることができるほど、常に痩せていた猫。 覚悟はしていたのに、涙がこぼれた。


他のどの猫のように、ディクシーもかなり個性があり、窓のそばの机の上の日差しの中で、昼寝を楽しんでいたものだった。夕食後の、まだ温かいキッチンストーブの上で眠っていることもよくあった。



彼女は放っておかれることを好み、彼女自身の都合でしか愛嬌を示さなかった。彼女は抱かれるのが好きではなく、私がベッドにいると、胸に上がり、ボールのように丸くなって、眠りに落ちたものだ。撫でようとすると、歩き去り、それでも自分から夕方の読書を楽しむ私の腕と肘の間にもぐりこみ、いつまでも喉を鳴らし続けていた。 餌を貰う時以外ニャーともいわないくせに、彼女は徘徊する忍びのパンサーのように忍び寄り、食べ物を私の皿から盗だりした。


彼女は犬がいっぱいいる我が家に嫌気がさして、苛立ったり、隠れたりして生涯を過ごしたものだった。けれど、いつも私の心の中にある彼女のためだけの特別な場所にいたので、ことさら別れは辛い。



半世紀の私の人生で、多くの犬や猫を失ってきている。私たちは何年も生きるのに、犬・猫は、ずいぶんと短い生涯である。こうした喪失からくる傷心、心痛や滂沱する涙があるにもかかわらず、私は彼らなしに自分の人生は考えられない。彼らは、開かれた心でこの人生を生きなければならないことを何度も何度も私に教えてくれてきた。苦しんでも愛し続け、愛する人たちを失う時でさえ、心を開いて愛することを教えてくれた。生きる上で、愛とその喜びが痛みよりももっと価値があることを知らなければならない。 それは神が私たちのために与えたこの世で学ぶべき最大の教訓の一つかもしれない。 ペットとなる犬や猫が私たちがそれを学ぶのを助けるためにいるのだ、とさえ思えるのである。 常に彼らを愛し続けたいものだ。


ジョセフ・J・マゼッラ


*****

 

姉の猫が、老衰でこの世を去る場に居合わせた。呼吸するのが、非常に大仕事で、体中で、その労力をしていた。姉は、ずっと看病し続け、「もういいのよ、ゆっくりとあちらへ行ってもいいの。私は大丈夫だから。 今まで14年間本当にありがとう。あなたもすごく頑張ったわね。でも早く楽になっていいのよ。」と何度も何度も老いた猫のやせ細った体をそっと撫でながら、繰り返しつぶやいていた。 やがて、ぴったりと息も動きも止まった。 姉は、何度この場面に遭遇してきただろうか。 小さな生き物だが、生きることへの頑張りに感動し、私も涙がこぼれた。 姉は洟をかみながら、愛する老猫の亡骸を丁寧に丁寧に柔らかな布で包み、用意してあった箱にそっと入れて、それからペットの葬儀を司るオフィスへ電話した。 その係の人は翌朝早くやってきて、三日後にお知らせします、と手慣れた、でも十分に飼い主の心の痛みを配慮して、手続きを手早くしてくれた。私たちが幼いころは、ペットが逝けば、庭の片隅に埋葬したが、昨今はこうして埋葬サーヴィスを手掛ける業者がいることの便利さ、ありがたさを痛感した。私はこれからも、姉の愛と世話を必要とする犬や猫が、続いてやってくると確信している。 何故なら、姉は小さなものを愛さずにはいられないから。


 

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ウィークエンド/ゲッタアウェイ その2

2018-06-15 | アメリカ事情

http://eccentricroadside.blogspot.com



墓地から戻った私は、夫と海辺のインでゆっくりスウェーデン式パンケーキと卵とハムの朝食を摂ってから、カリフォルニア・コーストハイウェイ1(PCH)を南下して、ボデガ・ベイまで行くことにした。 スウェーデン式パンケーキは、スウエーデン以来7年ぶりに供されたので、早速写真を撮ってドイツの三男の妻にテキストすると、彼女から「確かに!」と返事が来た。私達の住むセントラルカリフォルニアには、スウェーデン人移民の切り開いた町があり、毎年スウェディッシュ祭りを催し、このパンケーキもふるまうのだが、近いとかえってなかなか行かないのが常。 リトル・リヴァー周辺はロシア人やイタリア人移民が多いのだが、なかなかおいしいスウェーデン式パンケーキであった。


ただの薄いパンケーキと侮るなかれ。

 

 

パシフィック・コースト・ハイウェイ(California State Route 1=国道1号線)は、愛称PCHと呼ばれ、カリフォルニア州太平洋沿岸の大部分を走る南北の最長州道ハイウェイで、わずか655.8マイル(1055.4Km)だが、サンフランシスコ周辺やロサンジェルス周辺などいくつかの沿岸都市を結ぶ。1919年連邦資金で建設が始まり、1921年には加州有権者は、州政府資金の調達を選挙によって承認した。建設には、三つの刑務所が簡易的に建設現場付近に作られ、服役囚が労働力となり、受刑者は1日当たり35セントの支払いを受け、懲役刑の者は重労働の代償として減された。1930年代にはBig Sur地域で初の部分道路が開かれ、その後ハイウェイは、様々な段階を経て延びていった。


このハイウェイは、特にBig Sur周辺など、海岸沿いの頻繁な土砂崩れや浸食によって度々、最近では去年、切断され、修復されている。去年土砂崩れで遮断されたあたりにはおいしいキャラメルを生産する修道院(僧院)があり、一時はヘリコプターが主要交通運送手段だった。そうした災害が起こる場所は、往々にして圧倒的な景観の良さがあるが、気の遠くなりそうな高所をカバーする橋も多く、また道筋もよじれていて、いつも私は車の中で窓外の絶景の恐ろしさに凝り固まる。Big Sur周辺にあるジェイド(ヒスイ)・ビーチはそのハイウェイすぐ横にあり、本当にジェイドがゴロゴロしていて、一度は行ってみたいのだが、道筋の恐ろしさに打ち勝たなければならない。ちなみにジェイド・ビーチは、機械を使わなければ、手で拾える範囲で見つけたジェイドは持ち帰りができる。常識の範囲内のやり方で、見つけた、常識の範囲内の量を、である。


Bixby Creek Bridge near Big Sur ビッグ・サー付近のビクスクリクリーク橋  PCH https://en.wikipedia.org



そんなPCHをしばらく走ると、やがてボデガ・ベイ(Bodega Bay)の小さな町並みに入る。地図をご覧いただくとお分かりだが、Bayと言われるのは、小さな湾になっているからで、カニ漁が盛んだそうだ。そして、このボデガ・ベイはヒッチコックファンの方なら、すぐあの「鳥」を思い起こされるだろう。ボデガ・ベイの町並みから少し南に行くと、左手に丘の間にある集落ボデガに着く。そこに、主役のティッピ・ヘドロンが、いつの間にか校庭に大群となって集まったカラスに気づき、学校内にいた小学生達を伴って逃げる場面で出てくる「ボデガ・ベイ学校」がある。ボデガの小さな小さな集落に、一軒だけアンティークショップがあり、そこでミニチュア・カーのコレクションから、孫息子達のよろこぶ物も見つけたのも楽しかった。


 

ボデガ・ベイとボデガ      https://www.google.com/maps

 

 

Potter School 建物は、1968年から個人所有になり、現在でも同じ家族が所有している。個人所有のため、内部は一般公開はされていない。

 

https://www.google.com

 

  

子供達とティッピ・ヘドロンが襲い来るカラスの大群から逃げ惑う場面に使われた。映画は合成であるが、手前の教会と後ろに少し見える学校建物は現存する。 そしてTides Restaurant。今はすっかり大きくなっているが、

いまだ同じ場所にある。

 

  

ここで軽くランチ。 レストラン内には、「鳥」のメモラビリア写真がたくさん飾ってある。

 

 

ボデガ・ベイの向こう側へ行ってみたが、あいにく強風の午後で、外海に面した丘に立つことさえ怖かった。 強風の上かなり寒くて、夫と私はそうそうにホテルへ戻り、暖炉に薪をくべて暖をとった。


ボデガ・ベイのあちら側=外海の太平洋

 

 

翌朝私達はPCHを南下し、ボデガの集落を通り抜け、セバストポルを経てハイウエイ12でサンタロサへ戻り、そこからUS101を通って、金門橋を渡り、帰宅した。短いけれど、リトル・リヴァーの静けさを再び楽しめ、北加コーストで休養できた旅だった。この次はどの小さな町(カリフォルニアの)を訪問しようか、と、もう次のプランをしたことだった。月曜日からの通常勤務に、「耐えられる」ような英気を多少は養うことができたと思う。


 

ただいま~!

 

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ウィークエンド・ゲッタアウエイ

2018-06-13 | アメリカ事情

Little River Inn



金曜日に休暇を取り、夫と二人で、ウィークエンド・ゲッタアウェイへ。 ここから三時間程の北加のコースト沿いの小さな町二つを訪問した。まずはソノマ郡のサンタロサにあるチャールス・M・シュルツ博物館*(ここ)を訪問した。昨秋の大規模山火事がこの建物の一マイルほど手前で、やっと収まり、危うく難を逃れている。 隣接するスヌーピーのホームアイスこと、レッドウッド・エンパイア・アイス・アリーナは、1969年シュルツ氏が設立し、現在でも営業され、公共的にも個人的にも使用ができる。サンタロサの喧噪を離れたところに位置するこの二つは、大人も子供も十分楽しめる。


 

Charles M. Schulz Museum and Research Center / ”スヌーピーのホームアイス”

 

   

 

 

チャールス・シュルツとピーナッツの世界をしばし堪能し、私達はパシフィック・コースト・ハイウェイ(California State Route 1)沿いにあるメンドシーノ郡リトル・リヴァーへ向かうため、うっそうと繁るレッドウッドの森をくねくねと縫うようにある道をしばらく走った。 その森を抜けるたび思うのが、デイズニー映画Darby O'Gill and the Little People(1959年・邦題:四つの願い)の世界である。 この映画をご覧になった方は、納得がゆくことだろう。

 

 

  

森の中を通る時の写真と「四つの願い」のポスター https://en.wikipedia.org/wiki/Darby_O%27Gill_and_the_Little_People#/media/File:Darby_o_gill_and_the_little_people.jpg

 


ゴールドは発見されなかったが、19世紀にはメンドシーノ郡の豊富なレッドウッドを切り出す林業が盛んになり、多くの人々を国の内外から寄せた。 大きなレッドウッドを切り出し、丸太を船に乗せて各地の製材所へ移送した。その輸送方法は、切り出した丸太をいくつかロープでまとめ、それを原始的なクレーンで持ち上げて海上の船へ降ろす、という恐ろしく不安定で危険な作業だった。 波止場などまだ定着していなかった時代でも、そうしてまでビジネスを成り立たせる意思は、とてつもないものだと感心する。 その後1885年に森林を抜けて内陸へ切り出したレッドウッドを運ぶ鉄道ができ、現在そのラインは、スカンクトレインとして観光客を乗せている。 下はその丸太を運ぶ汽車。 レッドウッドはとにかく大きいので、切り出しもさることながら、その運送もなかなか危険で、なるほど尋ねた小さな墓地には、切り出しや運送工程で亡くなった男性の墓石が多いわけである。


 

Pinterestから

 

https://www.winecountry.com/regions/mendocino-county/coastal-mendocino-county/mendocino/

 

 

上の写真はメンドシーノの町並みであるが、見覚えのある方もあるかもしれない。これは、”Murder She Wrote"シリーズ(邦題:ジェシカおばさんの事件簿)の最初に出てくる、メイン州のキャボット・コーブの町のつもり、な所である。 母はこのシリーズが大好きだったが、その娘も劣らずに気に入っていたショウである。 母を一度連れてきたかったものだと来るたび思う。 ジェシカ・フレッチャーを演じたアンジェラ・ランズベリーの年を重ねても矍鑠(かくしゃく)とした姿は、私にとって老いることの見本である。

 

https://mainecrimewriters.com

 

以前来た時*も寄ったのだが、リトルリヴァーのインの近く、カリフォルニア・コースト・ハイウェイ1に沿って小さな墓地がある。早朝にホテルを抜け出して夜霧に濡れた道や墓地内をぬかるみを避けて歩く。 ハイウェイには車の通りが、ほとんどなく、静寂な厳かな墓地である。 もちろん誰一人いず、一つ一つの墓石を読みながら歩いた。 ホテルからの出がけに「連れてこないでよ。」とベッドの中から夫は言ったが、大丈夫、塩パケットはちゃんと持っているから。 ゆっくりと墓地を回り、ある墓石の前でその墓碑銘を読んでいた時、突然パタパタと子供が駆け回るような音がすぐ後ろでしたので、子供がもう墓地にやってきているのか、と後ろを振り返ると、誰もいない。 「あら?やっぱりどなたか、ついてきたいのかしら?」と思ったが、すぐそれは、墓地中央に建てられている旗ポールに、常時掲揚されている星条旗が、夜露で濡れ、風になびき、ポールをたたきつけるかのようにぶつかっている音だと気がついた。 丁寧に墓石を読んだ後、リンクフェンスの門をきっちりと閉じ、塩を肩越しにふりかけ、墓地のほうを向いてお辞儀をしてホテルへ戻った。

 

 

この続きは次の機会に。

 

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恋愛と結婚

2018-06-11 | アメリカ事情

https://pngtree.com

 

 

 

  

ある学生が教師に「何故, 人は恋仲だった人とは違う人と結婚することがあるのでしょうか。」と質問した。「あなたの質問に答えるには、まずあなたは小麦畑に行き、最高の小麦を選んで戻ってこなければなりません。そのルールは畑を一度しか通り過ぎることができませんよ。」と教師は答えた。 


そこで学生は小麦畑に行き、最初の列を通り、すぐに気に入った大きな小麦を見たが、他にもっと大きなものがあるかもしれないと、通り過ぎた。 小麦畑の半分以上を通過して、結局最初に見た小麦が一番よかったと、彼は気付き始めた。 つまり彼は、より大きいものを、と探して、最高のものを見逃していたことに気づいたのだった。 後戻りできないので、学生は何も持たずに教師の許に帰った。 


教師に学生は何故最高の小麦を放棄したのかを説明した。 教師は彼に言った。「あなたは最高のものを捨てて、より良いものを探し続けました。そして、あなたが最高のものを見逃していると、分かったけれど、そこへ戻れませんでした。 これは、恋に落ち、人生で最高の人を失った人々がしばしば犯す間違いです。」


学生はこう尋ねた。「それでは決して恋に落ちてはいけないのでしょうか?」 教師は答えた。「いいえ、誰もが適切な人を見つければ、恋に落ちることができます。しかし、あなたが本当に恋に落ちると、あなたは自我、あるいは他者との比較のためにその人を放棄するかもしれませんよ。」


「だから人は自分が愛した人以外の人と結婚するのですか?」と学生は又尋ねた。 教師は、「その質問に私が答えるには、あなたはトウモロコシ畑に行き、最大のトウモロコシを選んで戻ってきなさい。 そしてルールは以前と同じで、一度だけ通り過ぎることですよ。」 学生は、前回の間違いを繰り返さないように注意して、畑の真ん中に到達した時には、満足していると感じた中くらいの大きさのトウモロコシを1つ選び、教師の許に戻った。 学生はどのように彼がそれを選んだかを説明した。 教師は彼に言った。 「今度は、あなたは手ぶらでは帰りませんでした。 あなたはただ素敵なものを探し、これがあなたが得ることができる最高のものであるという信念を持ちました。 これが、結婚の選択肢です。」


教訓:人生は果物のバスケットのようなもの。 好きな果物を食べるか、健康によい物ならばなんでも満足するかを選択する必要がある。  賢明に選択しないと、もし。。。していたら、とあなたは人生をいつも疑問に満ちて過ごすことになるかもしれない。 もしあなたが自分自身に真実で正直であれば、どんな選択肢があっても、なにか間違っているのでは、ということがない。

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