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3月の寒い雪の日、私の猫ディクシーは死んだ。バスルームへ行くと、そこに私は彼女が動かずに横たわっていたのを見つけた。
私はやさしく彼女の頭を撫で、彼女を私の腕に抱いた。そして埋葬するために家の後ろの森に彼女を抱いたまま運んだ。泣かないように歩いていった。
彼女は16年生きてきた。次第に彼女の健康が衰え、毛色も退色していることを知っていた。 彼女を撫でた時、灰色の毛皮を介して彼女の骨を感じることができるほど、常に痩せていた猫。 覚悟はしていたのに、涙がこぼれた。
他のどの猫のように、ディクシーもかなり個性があり、窓のそばの机の上の日差しの中で、昼寝を楽しんでいたものだった。夕食後の、まだ温かいキッチンストーブの上で眠っていることもよくあった。
彼女は放っておかれることを好み、彼女自身の都合でしか愛嬌を示さなかった。彼女は抱かれるのが好きではなく、私がベッドにいると、胸に上がり、ボールのように丸くなって、眠りに落ちたものだ。撫でようとすると、歩き去り、それでも自分から夕方の読書を楽しむ私の腕と肘の間にもぐりこみ、いつまでも喉を鳴らし続けていた。 餌を貰う時以外ニャーともいわないくせに、彼女は徘徊する忍びのパンサーのように忍び寄り、食べ物を私の皿から盗だりした。
彼女は犬がいっぱいいる我が家に嫌気がさして、苛立ったり、隠れたりして生涯を過ごしたものだった。けれど、いつも私の心の中にある彼女のためだけの特別な場所にいたので、ことさら別れは辛い。
半世紀の私の人生で、多くの犬や猫を失ってきている。私たちは何年も生きるのに、犬・猫は、ずいぶんと短い生涯である。こうした喪失からくる傷心、心痛や滂沱する涙があるにもかかわらず、私は彼らなしに自分の人生は考えられない。彼らは、開かれた心でこの人生を生きなければならないことを何度も何度も私に教えてくれてきた。苦しんでも愛し続け、愛する人たちを失う時でさえ、心を開いて愛することを教えてくれた。生きる上で、愛とその喜びが痛みよりももっと価値があることを知らなければならない。 それは神が私たちのために与えたこの世で学ぶべき最大の教訓の一つかもしれない。 ペットとなる犬や猫が私たちがそれを学ぶのを助けるためにいるのだ、とさえ思えるのである。 常に彼らを愛し続けたいものだ。
ジョセフ・J・マゼッラ
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姉の猫が、老衰でこの世を去る場に居合わせた。呼吸するのが、非常に大仕事で、体中で、その労力をしていた。姉は、ずっと看病し続け、「もういいのよ、ゆっくりとあちらへ行ってもいいの。私は大丈夫だから。 今まで14年間本当にありがとう。あなたもすごく頑張ったわね。でも早く楽になっていいのよ。」と何度も何度も老いた猫のやせ細った体をそっと撫でながら、繰り返しつぶやいていた。 やがて、ぴったりと息も動きも止まった。 姉は、何度この場面に遭遇してきただろうか。 小さな生き物だが、生きることへの頑張りに感動し、私も涙がこぼれた。 姉は洟をかみながら、愛する老猫の亡骸を丁寧に丁寧に柔らかな布で包み、用意してあった箱にそっと入れて、それからペットの葬儀を司るオフィスへ電話した。 その係の人は翌朝早くやってきて、三日後にお知らせします、と手慣れた、でも十分に飼い主の心の痛みを配慮して、手続きを手早くしてくれた。私たちが幼いころは、ペットが逝けば、庭の片隅に埋葬したが、昨今はこうして埋葬サーヴィスを手掛ける業者がいることの便利さ、ありがたさを痛感した。私はこれからも、姉の愛と世話を必要とする犬や猫が、続いてやってくると確信している。 何故なら、姉は小さなものを愛さずにはいられないから。