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ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

希望の箱

2017-08-26 | アメリカ事情

Hope Chest(ホープチェスト)は、日本の嫁入り道具のひとつ長持や櫃と同じ役目を果す,長方形の箱型の物である。Hopeとつくのは、いつか花嫁になる若い女性が結婚(希望)にむけて用意した寝具やテーブルクロスやあるいはシルバーウエアなどをそのチェストにしまうからである。


このホープチェストを作る家具メーカーは、長い間若い女性向けの雑誌(特にSeventeen誌)に大きな頁をさいて宣伝していたものだ。1980年代初期からは、全く見なくなった。今や芸能人についての記事やファッション・化粧品記事などが盛んである。


私がSeventeen誌を愛読していた頃は1960年代の後半から1970年代初期で、ホープチェストに限らず、婚約・結婚指輪、シルバーウエア、食器、寝具などの宣伝が17歳を中心にする年齢層相手に随分あった。料理に関する記事もたくさんあって、例えばフォーチューンクッキーのレシピは、今でも持っている。


少し前まで、アメリカの若い人々の結婚は早く、高校卒業後すぐ、や、州にもよるが、親の承諾、法廷の承諾、妊娠の理由で、驚く若年で結婚したらしい。2001年にテネシー州で、10歳で結婚した”子供”もいた。昨今は殆どの州で18歳から、親やその他の承認なしに、結婚できるのが主流のようである。ただし例外は、ネブラスカ州は19歳で、ミシシッピー州は、21歳で,本人同士の意志で結婚できる。しかし、それはあくまで結婚の年齢制限であって、全ての人々がそれに従いはせず、婚姻は只の紙切れだと同棲しているカップルも数多だろう。


四十年ほど前まで、十代中期から、結婚は若い女性の進む道の一つであったから、現実的に結婚後の生活用品を少しづつ揃えていくものだ、という観念を持たせていたのだろう。高校卒業時にプレゼントするのが、ホープチェストだった。若くても家事を母親を幼い頃から手伝って、食事作りや洗濯や掃除やらのやり方を覚えて行ったと思う。弟妹がたくさんいる女性は若くても子守りをして、ダイパーチェンジなどはお手の物だったかもしれない。すくなくとも現代の17歳よりも40年、50年前の17歳は、もっと大人びていたのかもしれない。そして女性の社会進出はあっても、それが現在のようではなく、まだまだ男性中心の社会で、若い女性の進路は結婚が大部分という考え方が主だったと思う。


今は、結婚の相手が決まる前から、将来の自分の家庭のために、食器を揃えたり、なんてことは誰も考えもしないだろう。だいたい食器にしても、日常に使う物と日曜の午餐に使う物を分けて持つ考えも最近はない。


私自身は流行り廃りに関係なく、二種類持っているが、日曜午餐用のは12人用のセットであるから、チャイナハッチに納められて、子供達全員と伴侶達が集まる時、丁度12人だから、とても重宝している。この食器セットを娘の誰かに継いで欲しいが、二人の娘達は関心がない。ところが三男の妻が欲しいと申し出た。喜んで継いでいただこう!


娘の一人には、Hope Chestを高校を卒業した年のクリスマスに贈った。その中にスペインのテーブルクロスとナプキンのセットと、真新しい白い毛布と、そんな物を入れた。娘にHope Chestの言われを語ったが、結婚だけが女性の生きる道ではないのが現実だから、娘はただの家具のひとつとして受け取り、大学に持って行った。


そのホープチェストは今時、家具店では、なかなか見つけることがないが、偶然入った家具店に一種類だけ置いていた。ラッキーなことに気に入ったスタイルだった。あめ色で、中は虫除けのシーダーの板張りで、ベッドの裾あたりの床に置く、極シンプルなもの。それは母親として、娘がいつか結婚して、自分を失わずに伴侶を支え、共によき人生を末永く過ごせるようにと、盛りだくさんな希望を込めたチェストである。今のところ、その希望は失われず、実現されている様子だ。



娘のホープチェスト。。。三度の引越しを経て年季が入ってきている。


 




ハートアタック:紙の場合

2017-08-25 | アメリカ事情

二歳違いの三人の息子達が八年生くらいから十二年生で卒業するまでの約八年間、土曜日の朝ドライブに投げてある朝刊をとりに外へ出ると、かなり頻繁に、前庭の木々にTPがされていた。TPをする、と言うのは、文字通りToilet Paperのことで、木のはるか上のほうまで放り投げてTPで巻くこと。ハロウィーンの頃に多くある(筈だ)が、うちの場合は年がら年中であった。

この写真例は Elite Daily、Connor Tooleさんからお借りした物。

http://elitedaily.com/humor/worst-halloween-treats-tped/1251530/

これは本当に掃除がたいへんだったが、息子たちに手伝わせた。上の写真の例は、まだましで、うちは前庭中、家の前面で、どうせTPするなら、ロールのまま置いておいてくれたら、Salvation Army(救世軍)に寄付できるのに、といつも夫に言ったものだ。

TPでなければ、少し厚い色画用紙をハートに切り抜き、メッセージを書いてたくさん車の屋根やフッドやバンパーなど、あらゆるところにぺたぺたと貼ったり,置いたりするのがある。これを息子が運転していた白い車の上に置かれ、朝早くにスプリンクラーの水が掛かり、色が付いてしまったことがあった。これを(紙の)ハートアタックと呼び、普通はヴァレンタインズ・デイあたりに多いのだが、これ又うちは始終であった。

これは、A Mom KnowsのBeckyさんの頁よりお借りした物。

 http://www.amomknows.com/2012/01/how-to-give-a-friend-a-heart-attack-a-paper-one/

こうしたことは、所によっては、不法侵入、不法投棄、器物破壊などの罪に問われることもあるが、大概はティーンエイジャーのお遊びで、ティーンエイジャーだからした、というようなわかったような、わからないようなことである。うちの場合は、苛め、嫌がらせとは一切関係なく、女の子たちが犯人であることが多かった。つまり、息子たちの気を引きたかったと言う。やれやれ。

娘の時は、大抵ドライブウエイにチョークで、メッセージや絵を描かれたものだ。特に夏のガールズキャンプに行って今日には帰ってくるという朝、よくあった。そのメッサージは、I (We) missed you の様なたわいもないボーイズのする落書き。

もっと簡単にメッセージを伝える方法はいくらでもあるし、それこそティーンエイジャーの手から生えている携帯電話でテキストを送ればいいのに、お金と労力を費やして、ご苦労様だな、と思うことしきり。子供達に、あなた方は、こういうこと他所のお宅には、していないでしょうね?と聞くと、おかあさん、TPを買うようなお金あったら、映画代にする、が答えだった。娘達は一言、そんな面倒なこと、で終わり。そうよね。

お隣近所の間で有名になったほど、うちは”アタック”されたが、みな卒業したら、ぴたりとやんだ。皆成長したんだなと、感慨深かったことである。


ハートのある人

2017-08-24 | 家族

末娘ものが続いたが、これはその夫のおまけ話。

娘の少し年上の夫は、大学は卒業したが、これから法科大学に進むので、あと三年は、働きながら学生もする。そんな彼の交通手段に娘は職場の人から、このバイクを安く買った。普通なら5,6千ドルはする、というのを500ドルで。500ドルでも高いと思うが、私はなにぶんその世界を知らないから、余計なことは言うまいが、自転車通勤・通学はなにか危険そうで、私自身が運動音痴だからか、恐れ多くて自分はできないし、人にも勧めたくない。

ご本人は大喜び。颯爽と街に乗り入れ、学校に仕事に、と走り回っていた。手入れも欠かさず、大事にしていた。ある朝、街なかを走っていたら、傍を通りがかった女性ドライバーの車に接触され、はねられた。彼は投げ出され、大好きなお気に入りの自転車は見事に捻じ曲がった。はねられた彼は、立ち上がり、自分をはねた女性のほうへ歩み寄り、尋ねた。「貴女にお怪我はありませんか?大丈夫ですか?」そしてその女性をハグして、「お怪我がなくて、本当によかったです。」と言ったのである。

その後救急車が来てはねられた彼を病院へ連れていった。本人は、大丈夫,と言ったが、すぐ娘の顔が浮かび、それでは念のために、と病院へ向かったのだった。下の写真は娘が駆けつけた時の彼である。かなり痛々しいが、頚椎、背骨、頭、などなどいろいろ検査された。こんな時でも、携帯電話がまるで手から生えているようなのは、さすが現代っ子である。

検査結果ではどこも異常はなく、打ち身程度で、後日筋肉通があるかもしれない、ということだった。そしてようやく夕方退院した。最初連絡を受けた娘は、どれだけ心配したかわかるから、夕方,大丈夫と連絡が来た時は、受話器のこちらも本当に安堵した。

事故直後の話は、相手の女性ドライバーが話してくれたので分かったことだった。この人は。。。咄嗟に相手に怪我ないかが気がかりだった、なんて。そして相手に怪我はないと分かった時の安堵から、思わずハグしたそうである。夫も私も他の子供達も、彼ならそうするだろう、と妙に納得し、うなづいた。無事でよかった。

今はすっかり元通りの元気な人になって、またマラソンも完走できるだろう。ちなみにその後、娘達は、二台目の車を買った。二輪ではない、四輪を。


Eclipse Day!

2017-08-23 | アメリカ事情

A map of the United States showing the path of totality for the August 21, 2017 total solar eclipseCredits: NASA/Goddard/SVS/Ernie Wright




8月21日月曜日は午前中に皆既日食が始まり、終わる。オレゴンからサウスキャロライナまで。私の居るところでは、72%の日食だが、さほど暗くはならずに、少々精彩を欠いた日照だった。キャンパスのリスたちは何時にも増してせわしげに芝を駆け回っていた。1987年にもあった部分日食は、場所はカリフォルニアの南の果てだったが、薄暗くなった。暗くなると温度が下がり、小鳥たちが突然けたたましく庭の大きな木々に群がったのを覚えている。庭に出てスプリンクラーに濡れたコンクリートの上にできた水溜りに映る欠けた太陽を見た。あの薄暗さは一種独特で、夜と少し違う。動物は微妙に暗さを感じ取る。蚊も刺し始めるから、しばらくして家に引っ込んだ。


今年はオレゴンが全皆既日食のある場所なので、わざわざオレゴンに赴いた人々もたくさんいる。長女の義弟家族もその人たちにはいる。もともと父親がオレゴンに住んでいるので、訪問ついでであるが、日食そのもののために休暇を取って出かける人も少なくない。滅多に起こらない天体のショウは、一度見ておきたい、と思う人がたくさんいる。私のボスは海洋学畑出身の科学者の学部長なので、いくつかの日食用ゴーグルを持っていて、それで皆外に出て観測することが出来た。


下は、午前10時くらいの太陽。





1997年にかなり長い間、肉眼で見え続けたへール・ボップ彗星を思い出す。1995年に二人の観察者によって別々に発見されたばかりなのに、二年後には誰もがはっきりと夜空に浮かぶ彗星を目にできた。思えば、日本で天の川を見たことがなく、見上げる星空に雲状の光の集りを最初にはっきりと観たのは、ニュージャージー州南部に住んでいた姉の庭でだった。そういえば、そこで蛍も初めて見たのだ。ブラウスのポケットに入れると、ぼーっと光っていたのを思い出す。


弟は、少年時代に父から天体望遠鏡を貰い、だんだん本格的な物にしていき、凍れる冬の月夜に、月面や土星の輪をみせてくれた。それでも、天の川を肉眼で見たことはなかった。弟は、七年前ガンで急逝した。初めて天の川と蛍を見た庭のある家に住んでいた姉も、43の若さでガンで逝った。


亡くなって星になるわけではなく、遠い空の彼方に行ってしまうわけでもない。亡くなった人は私達の眼には映らないだけで、この地にいて、ただ次元が異なり、どちらからも、ふとした偶然がない限り見えないのだと思う。肉体を失っているから、今まだ肉体のある生きている者に託する気持ちもまだ持っているかもしれない。天体ショウの朝、そんなことをふと思ったりした月曜日である。




 


結婚・末娘の場合 その2

2017-08-22 | 家族の結婚

 

荘厳な結婚式を終えて晴れ晴れとした二人

新郎・新婦となった二人は幸せいっぱいで、新しいスタート。

これが12月末のカリフォルニア。朝晩は冷えるが、昼間は暖かい。

 教会のフォイアー飾り付け。お客様からメッセージをインデックスカードに書いていただき、こうして吊るした。

 昨夜の準備。Gのアイデアの一つ。こうして豆電球チューブをテーブルの下に入れて、

この上にはケーキを置いた。

さあ、披露宴の準備は整った。

 

各テーブルの上にはこうしてメイソンジャーの飾りを置いた。

出来上がり。

このメインテーブルにレフレッシュメント・軽食・レモン水を置いた。

 次々とやってくるお客様。

 

 こうした披露宴の準備は、全て教会の知人・友人が大勢手伝ってくださった。 

披露宴後、友人たちの作るアーチを抜けて旅立つ二人。 

こうして二人は新婚旅行にコーストへ。

と思いきや、ホテルで一泊した二人は我が家に朝食に来た。それからコーストへ向かった。。。彼女らしいと言えば、彼女らしい。。。