ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

去ったが忘れ去られてはいない

2017-08-09 | 系図のこと


マータの件については先日書いた。



その後マータは、ちょくちょく私の詰める晩に、家族の歴史センターへやってくるようになった。
彼女は、家族の話や思い出話をよくする。他人の思い出話は、長くて嫌だ、という方々もいらっしゃるが、昔から私は、特にお年寄りの昔の話は、興味深く、楽しんで伺っている。長くて、同じことを何度も、ということも、意に介さない。特に調査を依頼されたら、そのパトロンに、なるたけたくさんの家族の思い出や家族に伝えられている話を聞く。何故なら、そういう話の中には調査の鍵だの、ヒントだのが、入っていることが多いからだ。時折、はっと胸を突く話もある。例えば、マータの従姉の話。マータはその従姉がいかにヒッピーの真髄をいく人生を送ったかを話してくれた。



Chrisine Hintonクリスティン・ヒントンは、1948年サンフランシスコ湾に面したサンマテオで生まれた。彼女は、David Crosbyデイヴィッド・クロスビーの最初のガールフレンドだった。クロスビーは1967年秋までバーズ(the Byrds)と言うロックバンドにいたが、その後、新しいバンド, クロスビー、スティルス、ナッシュを始めた。すぐに二ール・ヤングも参加して、コーラスの美しいクロスビー、スティルス,ナッシュとヤングを結成した。その時代まさにヒッピー文化全盛で、麻薬、大麻、LSDなどが違法であるにも関わらず、日陰の道を堂々と歩き始めていたから、クリスティンもデイヴィッド・クロスビーもそうした生活をしていたと言う。二人は一度別れて、彼は売り出す前のカナダ人歌手Joni Mitchellジョ二・ミッチェルをガールフレンドにしていたが、すぐ別れ、クリスティンと再会し、よりを戻したそうだ。



でも彼女の幸せは長く続かなかった。1969年9月30日マリン郡に住んでいたクリスティンは、飼っていた二匹の猫を獣医に連れて行くので、デイヴィッドのフォルクスワーゲンのバスを借りた。その途中、猫が突然運転していた彼女の膝に乗り、驚いた彼女は、大きくハンドルを左に切ってしまい、反対車線にはいり、スクールバスと衝突し、亡くなった。マータと彼女の家族はクリスティンの葬儀に参列したが、21歳の美しかった彼女の死を悼むデイヴィッドは、悲しみにうちひしがれていた、とマータは言う。



その話を聞いて、もったいないなあ、その人生、と思った私だが、マータは、死に急いでいたかのように生きていた従姉よ、と言った。ヒッピーだった従姉は、傍から見れば、刃の上を歩くような人生だったそうだ。交通事故がなくても、いつか大麻やLSD,麻薬にも手を出していたから若死にするだろうと思われていたそうである。それでも21歳は若過ぎた。



その従姉の話をしてくれた晩、実はマータはある先祖の墓所を探していて、私達は Find A Graveというサイトで検索していた。なかなか見つからず、何度かその名前のスペルを変えてみたり、死亡が起きただろう、そしてそれまで住んでいた場所で検索したが、出てこなかった。もう時間は、閉館の10分前である。まだ10分あると、もう一度調べてみると、それならと死亡地以外の住んでいたかもしれない隣の郡を検索したら、閉館5分前に突然その先祖の墓石の写真が画面に大きく出てきた。彼女の先祖に相違はなかった。そのタイミングにマータも私も息を呑んだが、それは最後の最後に見つけたこともさることながら、墓石に彫られている言葉に驚いたのだった。



そこには、"GONE BUT NOT FORGOTTEN"とあったからである。去ったが忘れ去られてはいない、とでも訳そうか。それはさっきまでマータが話していた従姉からのメッセージのようにも、感じられた晩だった。

 


コメント (1)
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