ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

開いた心

2019-06-22 | アメリカ事情

zdnet.com

 

 

 

 

日本ではほとんど、というよりも全くおなじみではないコメディアンで司会者のジェイ・レノーを、私は気に入っているが、9年ほど前に言葉のあやで誤解され(と私は解釈)袋叩きのような批判をされて、その人気は失墜した、とさえウィキには出ている。その真相はわからないが(というよりも芸能人一般についてはアメリカのも日本のもほとんど知らない私が思うに)、少なくともジェイ・レノーは決して悪い人ではない。ごく普通の両親の許で育てられ、その著書でよくスコットランドから10歳でアメリカに来た母親やイタリア系アメリカ人の父親について書き、そこはかとなくレノーの両親への愛が見られ、つまりまともに育った人である。


そんな彼が自身の父親についてこう語っている。


私にはとても良い両親がいました。母は、11歳のときに一人でスコットランドからこの国にやって来ましたが、彼女はあまり教育を受けていませんでした。私の父は街中に育ち、そこから生きるコツをまなんだような子供で、やがて戸別に二束三文の安い生命保険を売る保険事業に入りました。 それは1930年代のことで、アメリカが今よりはるかに人種差別で隔離されていた時代でした。


ある日、父は彼の上司に「保険販売が最も難しい市場は何でしょうね?」と尋ねると、彼は「まあ、黒人たちだね。あの人たちは保険を買わないよ。」と答えました。父は考えました、でも彼らには子供がいて、家族がいる。何故彼らは保険を買わないのだろう? そこで彼は言いました、「私にハーレム地区を担当させてください」。父はハーレムを専売地区とし、安い生命保険を売ったのでした。毎週金曜日、父は保険代の5セントを顧客から徴収し、保険証券の領収書を渡したものです。


父が1994年に亡くなったとき、私は(当時司会をしていた)トゥナイト・ショーで父がハーレムでどのように働いたのかや、二人の息子(レノーには弁護士の兄がいた)にどのように偏見を持たずに、人種差別的なことを言ったり考えたりしないように教えたかを話しました。するとある日、私は75歳くらいの女性から手紙を受け取りました。


この女性が小さな女の子だった頃、保険代金を受け取りに彼女の家に来た人は、いつも彼女に飴を持ってきたものです、と書いてありました。彼女は、この人が自分の家で夕食に来た唯一の白人であり、ほぼ大人になるまでの間、共に夕食を食べた唯一の白人であったと言いました。その人は彼女にとても親切で、名前はアンジェロと述べていました。これは私の父であろうか、と私は思いました。


その手紙は私を泣かせました。私は彼女に電話をして、はい、実にそれは私の父ですと、言うと、彼女は父が彼女の家族に対してどれほど親切だったかを言いました。白人に対する彼女の考えや態度は、子供の頃に出会ったその親切な人に基づいていました。その人はいつでも親切と尊敬を持って彼女に接し、飴をくれ、彼女が大きくなったら何になるのかと尋ねたそうです。この経験から、私は貴重な人生の教訓を学びました:決して人々を裁かず、心を開いて、親切であるということです。

 

 

COURTESY JAY LENO

ジェイ・レノーの両親、キャサリンとアンジェロ

参照: The Best Advice I Ever Got by Katie Couric, 2011








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