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狼犬のマヤがいなくなってから、多くの隣近所の飼い猫が、我が家の庭にやってくる。以前は汚されるのが嫌だったが、夏の日差しの強い頃に庭のレッドウッドの下を好んで涼みによく来ている。ついでにオポッサムを追い出してくれたりもするので、好きにしてくれたらいいと思うようになった。私の住む所では、実は野良猫や野良犬は滅多に見かけない。犬のようだが太い尻尾を持つキットフォックスと言われる小さめのキツネや、有袋類のオポッサムはその代わりよく見かける。つい最近はボブキャットが車の多い街中の往来をのんびりと歩いていた。オポッサムはアライグマや野ネズミ同様人家の天井裏などに巣を作る。撤去するのがたやすくない。そうした動物は、猫(チリチリと首輪の鈴をならしてやってくる飼い猫たち)が頻繁に庭にやってくることでかなり逃げ出してくれる。害獣でも、殺傷したくはなく、追い出してくれれば、それはありがたいことである。
おそらくペットロスから、私は多くの動物を愛する方々のブログを訪れる。愛らしい動物たちの写真もさながら、お書きになることも私は興味を覚える。高級なペットをお持ちの方もいらっしゃるが、それ以外に、雑種犬や野良猫や野鳥やらを慈しんでたくさんの愛情を持ってお世話している多くの方々のブログはいつ拝読しても心が打たれる。同じ屋根の下に暮らしてはいなくとも、給餌や給水は欠かさず、怪我や病気の際には獣医へなんとかして連れていく。もちろん看取りもするし、とにかくこうした野良となった動物たちのお世話を欠かさないのである。沖縄のある女性は「使い物」にならなくなって路上に放りだされて捨てられた瀕死の軍鶏を拾っては看護して助けているという記事も読んだ。言葉を持たない者、力のない者への深い愛情をお持ちになるこうした方々は行動を起こしてお世話なさっていらっしゃる。野良特有の文字通り満身創痍の猫を最近みかけないが、と心を痛め、戻ってくると喜んでいつでも用意してある餌や水をその猫のすぐ近くへ持っていく。こうした行為をなさる方々には頭が下がるし、涙さえこぼれる。それはまるで庭によく見かけるセント・フランシスの像が生き返ったかのようである。
アメリカでは、セント・フランシス、日本では聖フランシスコあるいは聖フランチェスコ。そう、かのアッシシ(アッシジとは日本語で)の聖フランシスコのことである。確かに私はクリスチャンであっても、旧教徒ではないのだが、高校生の頃にセント・フランシスの作った讃美歌のひとつ(All creatures of our God and King;邦題:神は造り主)が素朴で美しいと感じたことと、彼の生涯もたいしたものであったので感銘を受けて興味を覚えたのである。
裕福な家庭に生まれたフランシスはどの人にも礼儀正しく接してはいたが、散財家で、享楽的な生活をしていた。しかしながら若いうちに神の啓示を受けたり、聖痕(スティグマータ)も受けたとされ、そうした経験からこの世俗社会を抜け出し、修道士となる。私が興味を持つのは、修道士となる過程や結果よりも、彼の自然保護や動物愛護の精神である。欧米の民家の庭にセント・フランスの像をよく見かける。それは大抵その肩に鳥が止まっていたり、足元には羊や犬や猫などの動物がいたりする。中には両手が鳥の水浴びや餌のために使われる鉢を抱えている像もある。
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簡素で謙虚な道を行く生涯を選んだセント・フランシスは、動物に話しかけ、魚にさえ教えを説いたという伝説もあるが、声なきもの、小さいものへの愛情を示すことは、どのような宗教でも無宗教でも、人間として最善を尽くすことのひとつではあるまいか。昨今の小児に対する理不尽なむごい犯罪を見て、ただ深い悲しみに包まれるだけではなく、万物の命を尊ぶ生き方について改めて考えたいものだ。それを実行なさっていらっしゃる方々がこのブログ世界に多いことは、暗闇に光る希望である。