ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

種屋さんの話

2019-06-14 | アメリカ事情

  Shutterstock.com 515671684

 

 

 

この季節、多くの日本の方々が、梅シロップや赤紫蘇ジュースをお作りになるのをブログで拝見し、誠に羨ましいと感じる。日系マーケットのミツワなどで青梅や紫蘇見かけることもあり、いつかチャレンジしてみたい、と思って何年になるだろうか。材料が入手困難だから、ではなく、本気でやる気持ちがなかなか湧かないのが残念である。いいえ、本当はやる気はあるのだが、時間の問題が私を怠け者にさせる。赤紫蘇のジュースは少し前福岡の知人宅で自家製のものを楽しんだことがあり、あのおいしさを思い出しては、今年こそ、と思うのだが。。。そうそう、そうだった、赤紫蘇自体を見かけないのだ。緑の紫蘇は10枚ほどのパッケージで売っているのに、ジュースに使う大量の赤紫蘇はミツワにもない。


お隣の国、メキシコにはAqua de Jamaica(アクア・デ・ハマイカ=ハイビスカス水=ハイビスカス茶)があちらこちらの屋台で、あるいはレストランで売られている。カリフォルニア州はテキサスやアリゾナ同様メキシコに隣接するため、メキシコ食文化がこちら側でも発達して、国境を越えずともハマイカは楽しめる。けれど、同じ赤いジュースでも、赤紫蘇ジュースが欲しい。青梅から作る梅シロップが欲しい。青梅はともかくとして、赤紫蘇は、それならば、かつて母が庭で栽培していたように、私もそうしたらいいのではないか、と考えて、早速北澤商会から取り寄せたカタログを取り出した。


北米にお住みの方は、北澤商会(Kitazawa Seed Company)をご存知ではなかろうか。社名を知らずとも、おそらく日系商店の片隅に置かれているマニラ紙の小さな封筒に緑のインクで野菜のイラストが何の種なのか示している種袋をお見掛けになったことがおありかもしれない。北澤商会は、1917年カリフォルニア州サンノゼでギジュウ・キタザワ氏によって始められた。現在はオークランド市に会社はあるが、アメリカ全土に日本野菜やアジア的な野菜の種子を届けている。もちろんここではちゃんと赤紫蘇の種も販売している。種子カタログをご希望の方は、こちらのPDFを右クリックで新しいタブでどうぞ。ちなみに種子パケットは一袋$4である。園芸店や日系商店では$4よりも少し安く売っている。



Credit: Courtesy of Maya Shiroyama

創業当時1917年の加州サンノゼの北澤商会。左:創業者のギジュウ・キタザワ氏



このカタログや種子袋を目にすると、一種の懐かしさを覚えるのは何故だろう。創業時と変わらぬ実直な商いの仕方が続いていると思える。この北澤商会について、カリフォルニア州立大学バークレー校大学院を卒業して、サンフランシスコ湾地域でジャーナリストとなったアリッサ・ジオング・ペリーによって書かれた記事がPublic Radio International(PRI)にある。題して、「如何にしてひとつの日系アメリカ人のビジネスが第二次世界大戦を生き抜き、二つの家族をつなげたか」。


「シロヤマ・マヤと彼女の夫は、カリフォルニア州サンノゼにあるランチ風の家で、車を停めた。そこには網戸の所に一人の老人が二人を待っている。87歳(注:この記事は2017年11月10日付)のトム・キタザワは、百年前に北澤商会(キタザワ・シード・カンパニー)を開業した創業者の最後の生き残りの息子である。


トムの父親、ギジュウは、日本からの移民で、ふるさとの味が恋しい日系人のために、日本茄子、シソの葉、大根などの野菜の種を売っていた。

 

 

しかし、この種子会社は数回経営難に陥った - 最初は、北澤家が他の何万人もの日系アメリカ人と共に第二次世界大戦中、収容所に送られた時である。 ギジュウは終戦後、会社を一から再構築しなければならなかった。

 

 

そして数十年後、ある日系アメリカ人家族(シロヤマ・マヤの家族)が事業を閉鎖から救った。しかし、この二家族は、今年になるまで座って話をする機会が一度もなかった。


 

第二次世界大戦以前は、日系アメリカ人の3分の2は、農業、あるいは農業関連事業に従事していた。戦争はそれをすべて変えた。


 

日本がパールハーバーを襲撃してから2ヵ月後の1942年2月、フランクリンD.ルーズベルト大統領は10万人以上の日系アメリカ人の強制移住を命じた。


 

当時少年だったトム(キタザワ)は、サンノゼを去ることを強制されたのを覚えている。彼の父親は、すべての種苗を売却しなければならなかった。いつ、もしもできるとしたら、帰ってこられるかわからなかったからである。


 

「持ち運べるものしか持っていけないので、人々は家の中のすべてを処分しなければならなかったのです」と、トムはマヤに言う。


トムは家族のワイオミング州ハートマウンテン戦時移住収容所への旅を振り返り、言った、「私たちはみんな鉄道線路に連れて行かれました。鉄道の駅ではなく、鉄道の線路です。」


家族は屋根付きの貨物車に押し込まれて、ハートマウンテンへ連れて行かれ、その旅は数日間続いた、と彼は言う。


戦後、やがて北澤家はサンノゼに戻った。そしてトムが言うには、彼の父親、ギジュウが、事業を再開するために一生懸命働いたそうだ。


「彼はすぐにしなければならないと感じた種類のことをし始めました」とトムは言う。彼はいくつかの種子会社とそこの種子供給業者に連絡を取った。


次世代(経営者)のシロヤマ・マヤと北澤家との関係は戦後から始まった。彼女は1950年代に生まれ、彼女の父方・母方両方の祖父母たちが農場を持っていたフレズノ郊外で育った。彼女の祖父母たちも戦時収容所に送られたが、(フレズノに)戻ると農業を再開した。


「両家族(マヤの家族と北澤家)とも(自分達の農場に)戻れたのは幸運なことでした」と彼女はトムに言う。 「(両家族の)隣人たちが(収容所に送られている間農場の)世話をしてくれていました。そして北澤さんから私は園芸について学びました。」


しかし、マヤは自分が植えた種がいつの日か彼女の家族とトムの家族を結ぶことを知らなかった。


1999年に、マヤはなぜ彼女の父親が注文した種の配送が滞っているのか調べるために北澤種子会社へ行った。そこで彼女は、会社を経営していたトムの姉妹から、事業がうまくいっていないことを知り、事業閉鎖を計画していると聞いたのだ。


「北澤シードカンパニーは日系アメリカ人の歴史の大きな一部であるから、それは非常に残念なことだ、と私は言ったのです。」とマヤは言う。


その翌年、彼女はその会社を買い取り、それをオークランドに移した。北澤は現在オンラインストアを持ち、日本やアジアの他の地域からの何百種類もの野菜の種を提供している。


しかし、いくつかのものは昔と変わらず同じままだ - 緑色のインクで記されている小さなマニラ紙の種子封筒のように。


マヤと彼女の夫がいとまを告げる前に、トム北澤は孫のために何冊か種のカタログを送るようにと二人に頼む - 孫たちが自分たちの家族歴史を知るように。

alamedabackyardgrowers.org



この記事を読んだ私は、早速赤紫蘇の種と日本茄子、そして小松菜の種を注文した。








コメント (6)
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