ろごするーむ

聖書のみことば と 祈り
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聖霊降臨日子供の説教

2007-05-27 06:33:57 | 子供の説教
使徒言行録2章1節~ 
2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
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今日弟子たちに聖霊が注がれたということを聞きました。不思議な出来事でした。弟子達が集っていると、突然風がビュウッと吹いてきて、炎のような燃える舌が現れて、そこにいた一人一人の上に留まったんだって言います。

神様が注がれた聖霊って何なのでしょうか。

聖霊は風のようだと言います。
風は見ることはできませんが、みんな風が吹いていることに気づきますよね。風はいつ吹いてくるか分からないし、わたしたちがいくら吹かせようと思っても出来ませんけれど、確かに風は吹いてきます。聖霊は、風のようで、見えないけれど、確かにわたしたちが気づくのです。

次に、聖霊は火のようだと書いてありました。
聖霊が注がれて、弟子達はこころが燃えた。汚いものを焼き尽くす火。冷たくなった心を暖かくしてくれる火のようです。

最後に、舌のようにと書いてありました。舌というのは、言葉を語るために神様が備えて下さったものです。聖霊が舌のような形で注がれたというのは、とても大切なことです。私たちの口は、友達のことを悪く言ったり、出来ない出来ない。どうせ何やったって無駄無駄・・・。否定的なことを言ったり。 イエス様が復活された?!そんなことあるわけないじゃん!!
ところが、聖霊を受けた弟子達は聖霊に満たされて語りだすのです。それを聞いた沢山の人たちは、神様はなんと素晴らしいんだろう。感動してイエス様のことを信じる人が次々と起こされたといいます。

聖霊は、弟子達のそばに注がれたのではありませんでした。弟子達は聖霊に満たされたんだと聖書に書いてあります。聖霊と一緒にでなくて、聖霊に満たされて。聖霊の側にではなくて、聖霊に満たされて。
弟子達の内側が聖霊で一杯にされたんだと言います。
今朝、電車の中で斜め前に立っていた人が、喉が乾いたんでしょう。炭酸水、スパークリングドリンクを飲もうとして、ペットボトルの蓋をあけたわけです。すると、ブワ~~ッ!!!と、中の水が溢れ出て、一面水浸しになりました。聖霊もこういうことかなと思いました。まるで押さえ切れないように、聖霊に満たされる。炭酸水が溢れ出るように、ブワァ~~ッ!!!と溢れ出る。
この聖霊は、神様の愛の贈り物です。

最後に洗礼のことを思い出してみたいと思います。洗礼の水は自分でかけるのではなくて、かけられたのです。洗礼の恵みは、自分でかけたのではなくて、かけられたということが大切なんです。
同じように、聖霊も弟子達が自分で注いだのではなくて、注がれたのです。聖霊は、神様からのお恵みとして注がれたのです。
何より、聖霊が弟子達に注がれて、しかも弟子たちの中を溢れるほどに満たしたのです。
もう、神様を外から眺めているだけではなくなったのです。イエス様は、その聖霊を今日も、私たち一人一人に注いで下さっています。見えないからと言って、注がれていないという必要はありません。自分は信仰がないからという必要もありません。それは、私たちが注ぐのではなくて、神様が注いでくださるからです。神様の霊が、わたしたちに注がれているのです。
ヨハネさんは、福音書の中でこう書いています。「神は聖霊を限りなく賜うからである。」(ヨハネ3:34)