新令和日本史編纂所

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大本営参謀の情報戦記 第三部

2021-01-12 12:34:05 | 新日本意外史 古代から現代まで

大本営参謀の情報戦記 第三部


参謀本部「ソ連班」はドイツの敗北を分析していた
第二次大戦前、日本は、日独伊の三国同盟を国策として締結した。
そして、ドイツがソ連に攻め込むと、ドイツの勝利を疑わなかった。だがこれは、何々をすればドイツが勝つだろうという、予想と願望を基にした甘い判断だった。
しかし、参謀本部情報課第五課は「ドイツ敗北」の判断をしていたのであるが、参謀総長はこれを無視してしまった。
日本にも正しい情報判断をしていた人や部署があったというのに、惜しみて余りある話である。

以下p-50-からの引用。
 西郷大佐の第十六課の情報への取り組み方は、何といっても大島浩という近来稀な大物武官(のち大使)を持っていて、ドイツの権力の中枢であるヒットラー、ヘス、リッベントロップといった重要人物と、
あまりにも容易に会って意見を聞き得る立場にあり、彼ら中枢の意図することが聞き出せたのと、日独伊三国同盟の同盟国が日本に嘘をつくことはないという認識の甘さと、
日本軍の中枢を占める高級軍人たちのほとんどが盲信的な親独感情を持っていたことなどが基礎になっていたことは否定できない。
従って大島大使から、「リッベントロップが本職に斯く斯く説明せり」と打電してくると、その内容は疑う余地のない絶対性をもつものになっていた。
換言すれば第十六課は大島大使を長とする在独武官室の東京出張所といっても過言ではなかった。
 これに対して林大佐の第五課は、ドイツ課の取り組み方とはまったく違っていた。在ソの駐在武官や大使が、容易にクレムリンに出入りして、スターリンやモロトフや軍の首脳と和気藹々と話をすることは、
ドイツと違って至難中の至難であったから、止むを得ず権力の中枢の考えている意中が、ソ連国内のどこかに、何かの形で徴候として出ていないかを、虎視たんたん克明に探して分析していくことになる。
そのため、国内や隣接国家を旅行したり、シベリヤ鉄道の輸送に何か変ったことはないか、観兵式に出る新しい兵器はどうか、新聞雑誌でソ連の要人が何を喋ったか、以前に喋った内容と、今度の内容に喰い違いはないかなど、
各種の徴候を丹念に積み上げ、る情報を基礎に、「ドイツは三ヶ月以内にソ連軍を席巻してモスコーに進出する」と言い、第五課は「ソ連の戦力は第一次世界大戦のときとは比較にならないほど充実していて、
たとえモスコーやさらにウラル山系まで後退することがあっても、それはソ連特有の遅滞作戦であって、米国からの軍需品補給が続く限り、冬とともにソ連が一大攻勢に転ずる可能性が強い」と主張してソ連に軍配を上げた。
その結果は、翌十八年二月独軍がスターリングラードで惨憺たる潰滅的敗北を受け、それ以来東部戦線はソ連軍の支配的戦勢に変ってしまったことで明らかである。
 大島大使の電報はいまも外務省資料館に残っている。参考までに、昭和十六年十一月十一日の電報では(原文は片仮名、傍点は筆者)、
「(冒頭部省略)今回の大作戦開始までに、既に五百万のソ軍を殲滅し、(中略)今や往電一二二四号の如く、モスコー大包囲戦を展開中なるが、最近のブリヤンスク、ウィヤスマにおける包囲により、
残存せるチモシェンコ軍に更に大打撃を与うべきを以て、モスコーの運命はも早や尽きたりというべく、かくてドイツは計画通り厳冬期前にソ軍に殲滅的打撃を与え、ソ連を再起不能の状態に陥らしむるを得べく(中略)今日と
雖も其の方針に毫も変化なきは、『ヒ』総統、『リ』外相の累次の本使(註、大島)に対する言明に徴しても明らかなり(以下略)」
 というようなものであるから、これを信じない方がおかしいと思われるぐらい電報受領者の心を揺すぶってしまった。しかし冷静に読んでも大島電の中で、傍点を付した部分は明らかに推測または仮定である。
親独という眼鏡をかけて読むと、推測や仮定が真実に倒錯するから、情報は二線、三線と異った複数の視点の線の交叉点を求めないと危険なことをよく示している。
 なお付け加えておくと、第五課では昭和十六年八月(独ソ戦開始後二ヶ月)、すでに諸情報を分析して、ソ連有利の判決を参謀総長に出していた。
以下略
ここで少し、独ソ戦で有名なバルバロッサ作戦について触れておく。
ドイツ軍はソ連侵攻に当たって三個軍集団300万人を終結させた。その内訳は、
北方軍集団(リッター・フオン・レープ元帥)がレニーグラードを目指した。
中央軍集団(フェドール・フオン・ボック元帥)がモスクワを目指した。
南方軍集団(ケルト・フオン・ルントシュテット元帥)スターリングラードを目指した。
そしてこのかってない大規模侵略軍の内容は、戦車3500両、野戦砲7000門、航空機2000機となっていた。

バルバロッサ作戦の兵站計画?
ロシアへの侵攻作戦が決まった時、戦場となる広大な領域での補給路確保が重要な問題だった。過去の戦争に比べて戦場となるロシアは広大であり、ドイツの補給ラインに対するロシア側の脅威が予想された。
ドイツ軍は後方補給線保護に苦心した。アクティブとパッシブの後方警備対策が区別され、状況に応じた警備用の特殊部隊が複数設立された。
一方で警備隊は予備役や退役兵など主に高齢者から構成され最低限の訓練しか受けていなかった。武器の補充も不十分で赤軍から鹵獲したロシア製の武器を利用していた。
ドイツ軍の兵站業務は陸軍参謀本部の兵站総監部が統括していたが、バルバロッサ作戦では広大なロシアの領域をカバーするため各軍集団に現地事務所が設置され補給を担当した。
しかしソ連の広大な領土で整備された街道はミンスク~スモレンスク~モスクワ間の一本しかなく、機甲部隊の通行に適さないデコボコの悪路が果てしなく続いていた。
また雨が降ると地面は泥濘化し、雨季のまともな作戦行動は困難だった。
侵攻開始から一か月で輸送用トラックの3割が故障し、機甲部隊の戦車も稼働率が激減した。
(この当時、ドイツ機甲軍の戦車の多くは、二号戦車、三号戦車、Ⅳ号戦車で、チェコ製のシェコダ戦車も使われていた。ソ連のT-34戦車に苦戦した結果、パンツァーやタイガー戦車の開発に着手している)
ドイツ軍は道路の不整備を鉄道輸送で補おうと試みたがロシアとドイツでは間隔(ゲージ)が異なり、ゲージ変換作業に追われた。鉄道工作部隊が編制されたが補給路への負担は改善されず
物資の積み替え駅では深刻な渋滞が発生した。7月31日時点でドイツ軍は東部の戦闘で21万3301人を喪失していたが補充されたのは4万7000人に過ぎなかった。鉄道網と道路の不備は前線に深刻な物資の欠乏を生じさせていた。
また兵站の優先順位が曖昧であり、運行優先権をめぐって現地部隊が対立し、酷い時は部隊間で物資を積み込んだ列車のハイジャックが行われた。 
ヒトラー対スターリン
 一九四一年十二月初め、モスクワまで十六キロの地点に迫っていたドイツ軍は、新たに出現したソ連極東軍団に押し戻され、独ソ戦開始以来初めて退却に転じた。
これは日本が大きく関係していた。ソ連諜報員ゾルゲによって、日本の国策が南進政策に決定し、満州国境の百万からのソ連軍を転用できると踏んだのである。
ドイツ軍は越冬の準備と戦線の再構築にとりかかり、ソ連軍の士気は上がった。緒戦の電撃作戦によるモスクワ攻略には失敗したものの、しかしドイツ軍は全体としてまだ強大であり、独ソ戦の行方は予断を許さなかった。
 年が明けて一九四二年に入ると、独ソ戦線の様相はいっそうの混迷を深めてきた。ヒトラーとスターリンは軍事の専門家でも何でもなかったが、戦争のプロフェッショナルである軍部の作戦に執拗に介入してきた。
この二人の独裁者はまるで互いの失敗を補い合うかのように、相互に愚行を繰り返した。ヒトラーもスターリンも自国の作戦に不利をもたらし、多大の損害を与えた。
 ドイツでは、ヒトラーの執拗な干渉によって作戦をひっかきまわされる軍部がたまりかね、「ヒトラーはスターリンのまわし者ではないか」という冗談にも、ときどき真剣さが入りまじるほどだったという。
ドイツ陸軍の頭脳とうたわれたマンシュタインユタイン元帥は戦後、その著書『失われ
た勝利』のなかで、もしもヒトラーの作戦干渉なしに自分が戦争指導していたら、ドイツは100パーセント、ソ連に勝っていた、と断言している。
 モスクワ攻略には失敗したものの、ドイツ軍は一九四二年春に戦線を立て直し、攻勢をかけてきたソ連軍を迎え撃った。五月、南部のウクライナ方面に大攻勢をかけたスターリンは、
まずクリミア半島のセバストポリを解放しようとして大軍を差し向けてきた。しかしこれはマンシュダイン元帥の反撃にあってクリミア半島から駆逐され、一八万のソ連軍が捕虜になり、飛行機四百機と戦車三五〇両が捕獲された。
さらにその直後にスターリンがハリコフ奪回のためにかけた大攻勢も、ドイツ軍機甲部隊によって包囲殲滅され、二五万の兵士が捕虜になり、千二百両の戦車と二千門の火砲が捕獲された。
これはドイツ軍の力を過小評価して、無理な攻勢に打って出たスターリンの大失策だった。ドイツ軍はこの戦いの勝利の余勢を駆って、ヴォルガ河とカフカスに殺到した。
そしてこれが、来るべきスターリングラード攻防戦の幕開けとなるのである。
 カフカスは油田地帯である。ここの石油資源を入手できなければ、ドイツの戦争継続は難しくなる。カフカスに向かったドイツ軍は占領に成功したが、ソ連軍は退却に際して油田を徹底的に破壊した
地獄のスターリングラード
 ヴォルガ河に向かったドイツ軍は、スターリングラードに突入した。ここは交通の要衝であり、ここを取られたらソ連は南北に分断されてしまう。戦闘は、最初はドイツ軍が優勢だったが、スターリンはいかなる理由があろうと撤退を許さず、
死守を厳命し、もてる限りの軍事力を投入し、次から次へと補充部隊を送りこんできた。酸鼻を極める市街戦となった。一つの建物をめぐって奪ったり奪い返されたり、同じ建物の中で両軍が階を隔てて占拠したり、
といった混戦になった。当初優勢だったドイツ軍も次第に追いつめられ、軍司令官のパウルス元帥は、ひとまずスターリングラードから撤退して戦線を立て直したいと、ヒトラーに要求した。しかしヒトラーは「断固死守せよ」と厳命し、
撤退を拒絶した。これはヒトラーの大きな誤りだった。進退窮まったスターリングラードのドイツ軍は、ついに一九四三年二月降伏し、十万が捕虜になった。
このスターリングラードの攻防戦が独ソ戦の天王山であり、分岐点になったとよくいわれる。

 スターリングラード攻防戦は辛うじてソ連が勝ったが、独ソ戦は一九四三年いっぱいを通じてまだまだ一進一退の攻防が続いた。七月のクルスクの戦いは、史上最大の戦車戦となった。
ドイツ軍の戦車二千七百台とソ連軍の戦車六千台が激突し、戦闘は一進一退を続けた。局地的な戦闘ではドイツ軍が圧勝したものの、攻撃能力は限界に達し、ヒトラーは作戦中止命令を出して撤退に転じた。
結局ドイツはこの地を占領することができず、この戦いをもって、ドイツがソ連に勝利する最後のチャンスは失われた。そしてまさにこの同時期に連合軍がシチリア島に上陸し、地中海、バルカン方面でドイツ軍を牽制したため、
これはソ連でのドイツの戦いにも暗雲を及ぼしはじめるのである。
 一九四四年六月六日、連合軍がフランスのノルマンディーに上陸して、ヨーロッパ大陸の第二戦線が構築されると、それに呼応するかのようにソ連軍は東部戦線で大攻勢をかけてきた。
これを正面から受けたドイツ中央軍は、すでに弱体化が著しかったため、とりあえず撤退して戦線を立て直すことを要求した。しかしヒトラーはこれを断固として許さず、死守を命じたため、
ドイツ中央軍は総崩れとなり、四十万人が死傷し、十万が捕虜になった。壊滅状態となったドイツ軍はあっという間に三週間でベラルーシを奪還され、ソ連軍はポーランドのヴィスワ川まで迫った。
これはソ連軍の電撃作戦とでもいうべきものだった。これによってドイツの敗北は確定的となり、ソ連軍はその後も戦闘で膨大な犠牲を出しつつも、翌年四月ベルリンに突人するのである。
以上長々と独ソ戦の状況を、バルバロッサ関連史料を元に記述したが、堀参謀が指摘している「兵站(補給)」が如何に大切かを力説したかった故である。
ソ連が勝利できたのも、膨大な兵站、即ちアメリカからソ連に供与された軍事物資が桁外れだったからである。
トラックを中心に、軍用車四十万両、機関車千九百台、ソ連の全タイヤの四三パーセント、鉄道レールの五十六パーセント、使用された爆薬の三分の一などである。
さらに加えて膨大な食料、銅、アルミニウム、航空機用燃料も惜しみなくソ連に与えられた。しかし狡猾なスターリンは、アメリカから援助を受けていることをいっさい公表しなかったが、これらの
 援助がなければ、ソ連はドイツとの戦争をとうてい勝ち抜くことができなかっただろう。
日本がアメリカに負けた大きな要因は、元々圧倒的な国力の差で勝ち目はなかったが、「情報」「兵站」の脆弱性も大きな要素だった。