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新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

韓国本位歴史は如何なものか 南北朝鮮に融和は厳禁

2019-06-14 09:37:19 | 新日本意外史 古代から現代まで

従来の日本史が唐書に合わせ下敷にし作られてきたのに朝鮮歴史書の〈三国史記〉や〈三国通紀〉が和訳されだしてからは、韓史を基にして考え直す思考発生は如何なものか。 日本と韓国歴史家の交流が始まってから、ますますもって黒潮や寒流を無視した、大陸渡来日本人説が広まりました。 しかも北朝鮮側と違い韓国史学は極めて自由な立場で、日本列島歴史を韓国だけの立場からのみ解明説明しようとし、古代史研究の人々はその朴蒼岩説に全面的信頼を寄せている。

そもそも、一国の歴史というのは、その国の権力者が偽史を作成するのに対して、周囲の国々の歴史を付け合せて、その誤りを訂正してゆくものですが、 日韓併合の際に伊藤博文が現地へ赴き殆んどを統治上の必要から朝鮮の歴史書は、強制的に没収焚書しました。 だから朴史観は、初めて照合できるものが出現と感謝されます。
 しかしこの、韓国史観でゆきますと、日本列島を支配したのは中国勢力ではなく、ずっと隣接した朝鮮半島だったのだ、としてしまうのが困りものである。
 
 白村江の敗戦で唐軍の郭将軍、劉将軍らが九州から、男っ気なしの奈良時代の御所へ入ってきたのが西暦六六四年から。高麗が唐軍によって滅ぼされた六六八年を経て3年後、 百済系の中大兄皇子の天智帝が崩御なさると、次の皇位をつがれる大友皇子の弘文帝を仆したのは、どう考えても高麗や百済亡国の朝鮮半島の勢力ではなく、 大化改新のフィクサーだった藤原鎌足の率いていた岡山の華夏王朝なのである。つまり唐でない事には、六六九年から唐より又も二千余の軍が追加進駐してきているのだから、 辻つまが合わぬのに、まったくこれを無視しているのです。これは困ります。
 
 弘文帝が殺されて天武帝に代わられた後も、朝鮮半島で唯一国、まだ反唐勢力を辛うじて保っていた新羅との関係は順調で、この頃までに既に亡国の民である高麗人らを東北へ移住を強い、 彼らによって東国から陸奥は開発されたものとします。天武帝のバックアップは鎌足の死後とはいえ渡来唐人及び従前より岡山にいた桃原と名のる鉄剣集団ゆえ、 大陸で敵対していた新羅と仲よくする訳はなく高麗人を関東へ追放したら、次は新羅人も同じ運命で、いまの群馬、埼玉辺りと想われる。
 
 韓国史観には全くでてきませんが、黒潮暖流で安房の小湊や尾張一の江、津島から明石や淡路島に漂着し、定住していた古代海人族らを、遙か東北へ追い出しだのは、 アメリカで非農耕の狩猟氏族のイッデアンを居留地へ追いこみ、彼らが馴れぬコーン栽培を渋々しだし、どうにか荒地が耕地になると司政官が取り上げ、 もっと奥地へ移転命令。拒めば騎兵隊が突入し皆殺しの西部劇と同じことです。
 韓国史観は、西暦七〇七年天智王未余勇の第四女元明女帝が即位なさると、奥羽開発政策が積極化したとし、佐伯石碣を征越後蝦夷将軍に任命し、巨勢麻呂を陸奥鎮東将軍にし、境土拡張を下命とします。
 
つまり開拓でき農地化されたのを没取して王土とし、さらに荒野へ武力で追いたてて、そこを新居留地にさせたのが本当です。 だから〈古事記〉ができたと伝承される七百十二年の翌年には出羽も国守をおかれる迄になったのです。 が、それでも出羽三山の密教の修験者たちが、みな揃いも揃って、「望海」「懐海」と海を懐かしんで、海号を誰もがつけるのも、彼ら古代海人族が追われていった例証ではないでしょうか。
韓国は日本列島とは違い黒潮が直突してこないせいか、海流無視しすぎるのは困りものです。また関東六国の富民一千戸を移すというのも、彼らに強制的に新農地を当てがい年貢を取りたてる為に、 分散して農奴を使わせるよう送りこんだのであるし、尾張の一揆を起した七十四戸を席田雨近に命じて、美濃山中の山奥へ送りこんだが反抗したというのも〈続日本紀〉に出ております。
〈文徳実録巻四〉には、美濃席田郡に妖しき者らの反乱あるを、新美濃の国務次官の介となった藤原高房が武力討伐したのは天長四年。 ようやく彼らが飛騨へ追われたのが七一五年ゆえ、八二七年迄も一世紀の余もレジスタンスを続けたのは、大陸系に対する山中へ入られたゆえの、 海人族ら日本原住民たちの抵抗とみるべきでしょう。 尾張は「塩尻」美濃は[ヒタ]とよばれ日本原住系八の者の根拠地である。
 
 日本の原住民をすべて朝鮮半島から釜山経由で流れこんだ韓国人としてしまう史観では、西暦七一六年に駿河、相模、上総といった黒潮暖流で接岸した定着民さえ海人族でなくなってしまいます。彼らを武蔵へ移住させ高麗郡となったのだから、彼らは高麗人であったとしてしまいますのは承服できません。これは大間違いだと指摘する。
なにしろ武蔵は前から高麗語の「主」のムと、城の「サシ」の土地で、つまり前からの高麗系騎馬民族の本貫の土地です。 なのにそこへ仲の悪い異種の海人族千七百九十九人を奴として放りこんだというのでは、夷をもって夷を制させる為の苛酷な政策でしょう。
 
やはり百済系の元正女帝につぎ元明女帝がたつと、東海道、東山道、北陸道の内で農耕地帯に一変した肥沃な土地を官土として召し上げるため、その二百戸を出羽へ強制移住させた。 まったく西部劇のカスター将軍のインデアン弾圧時代と同じ具合です。実際の国家権力は唐からの人々が握っていたのに、百済系の女帝を次々とたてていたのも、 憎まれ役を押しつける為の毒をもって毒を制す六韜三略の兵法そのものです。
 韓国史観は、日本列島が馬韓・辰韓・弁韓の三韓時代の支配が長かったので、高麗・新羅・百済とその国名が変ってからも、まず唐勢力はまっ先に自分らに帰順帰化した百済系を操って、 古代海人族の天の王朝系を奴隷としている彼らを互いに潰し合いさせていたのを伏せているのではありませんか。
 「土毛」とよぶ、地面に毛のごとくはえる農耕物と、海中よりの魚介、海藻や塩だけが国富であった時代ゆえ、黒潮で西南から漂着した海人族の奴隷の奪い合いが共に国益に通じていたのでしょう。  またそれゆえ12世紀たった今日でも、私共のような古代海人族の血をひく奴隷の末裔が、今もこの日本の総人口の六割五分をも占めているのでしょう。 韓国史観では、百済が今の南朝鮮半島に位置していた国であったせいか、「摂津国に百済部を設け、彼らは厚遇された」としまして、大阪市生野区に当るそこは後の平清盛の本拠地なりと、 さも平氏までが百済系みたいに拡大解釈をします。
 
平家は古平氏北条にしろ新平氏にしろ、西南よりの海流によっての漂流者である事は〈東大寺社寺雑事記〉に「僧にならぬ三条囲地者には古来よりの定法にて、平の姓を賜る」とある日本史が正しいのです。天武帝の頃に陸続と、大陸からの食いつめ者が入ってきたものの、彼らは日本列島では「貴種」とされていた。 それゆえ、中国のロボットみたいな恰好だった奈良王朝において、百済系の敬須那利を甲斐国司や、義慈六世の孫にあたる余敬福を陸奥国司に任命されましたのも、持統女帝や孝謙女帝の保護政策ではなく、 弁髪の当時のフィクサーが美女は御所においたが、男は邪魔者で不要ゆえ遠く派遣しただけのことです。
 
 また手柄をあげて百済系体制を護持しようと言うので、余敬福は陸奥で海人族の奴隷使役で黄金九百両をえて献上している。それを孝謙百済女帝は唐へ送り、 機嫌とりに仏教のため奈良東大寺建立の資金に、次々と採鉱した金をあてた。銅は武蔵で新羅人金上元が銅脈をみつけ、よって元明女帝は年号を慶雲から和銅に改元して、 日本列島を銅鐸時代にとしてゆくのですが、「李氏朝鮮」の記録では、「申宗三十七年大司憲申瑛」の申告では銀の造練精製は日本へ技術者を遣わした。つまり日本へ教えたとします。 それはそうでしょうが、正倉院御物にも、古代海人族がもたらした銀器が現にあるのです。
 
 黒潮渡来サラセン細工と韓国製とでは、同じ銀細工でも模様や柄が違います。一見すぐ判ります。  韓国の歴史ですから自国本位になるのは、やむをえない事ですが、日本ではそれに対比できうる歴史家や史料が皆無なので、一方的にこうしたものが邦訳されて押し付けられてきては堪りません。  もはや対応できるのは吾々の常識しかありません。しかし庶民の何割かは新羅や高麗系の向こうの騎馬民族の血をひく白山王朝の子孫ですからして、こうした向こうの歴史に対し、 直ぐ納得合点したがる人々も多いのはやむをえないかもしれません。とは言え、これこそ危険思想で、わが日本の国体を危うくするものかも知れないと不安に想うのは、杞憂であればよいと考えさせられます。
日韓宣言20年に寄せて
さて、韓国のこうした御都合主義歴史に迎合する日本人が多い訳だが、現在に目を向けてみよう。
 1998年10月8日の日韓共同宣言から20年を迎えた。 「未来志向の関係発展」をうたったこの宣言を機に、両国の交流は進み、人の往来は3倍以上に増えて昨年は945万人に上った。  一方で従軍慰安婦など歴史問題での溝はなお深く「真の和解」に至っていないのが現状である。
 北朝鮮の非核化を巡る米朝父渉が動きだしている。北東アジアの安定や日本人拉致問題の解決には、日韓の連携が欠かせない、というが果たしてそうなのか。 また日本の植民地時代に動員された元徴用工への補償問題が再燃されている。 さらに、日本政府は65年の日韓請求権協定で解決済みとし、韓国側も同じ認識だったが、文氏は昨年8月、個人請求権は消滅していないとの見解を明らかにした。 巨額の賠償が認められれば、日本企業への打撃は計り知れない。 こうして次々と韓国は「解決済み問題」を吹っ掛けてきて、この国は、まさに疫病神である。
 
「未来志向の関係構築」とは程遠い。 両国が、如何に冷え切った関係でも日本の立場を貫き、高みから見下ろす姿勢で日本は微動だにしてはならないし、実際問題として、少なくとも戦後の韓国との関係で、 日本の国益になったことなど、何一つないのだから。
 
 (注)この項を記述している最中に、韓国最高裁は(2018年10月30日)、元徴用工の個人請求権を認定した。これにより新日鉄など数十の会社の賠償額はいか程になるのか見当もつかない。  日本政府は国際司法裁判所への提訴も辞さないというが、先行きは全く不透明である
 
 

江戸の実相 中条流(堕胎)から見える日本の人口問題

2019-06-14 09:13:04 | 新日本意外史 古代から現代まで

 

中条帯刀が陣中外道(現代の外科で軍医にあたる)として太閤秀吉に随伴して有名だったのが、 泰平の世になり外科医の必要がなくなるにつれ、婦人科医をなす者が豊臣秀吉時代の彼の名をとって流派にした。 「やみの子は中条流でながしけり」と、堕胎専門に手術を施していたらしく江戸の川柳にも数多く残っている。

江戸の風俗の一端を知るにはこうした川柳が最適で、当時の庶民の日常生活や風刺精神が良く解る。 ポルノチックなものも多いが、以下に何点か紹介しておく。
〇おろすこと、もっとも至極薬研堀
(薬研堀は薬研ばばあの名で知られた子下ろし専門の中条流女医者の多かったところでもあった)
〇罪なこと中条蔵をまた一つ 〇中条は むごったらしい 蔵を建て (中絶で子供を殺すたびに儲かって仕方がないので、あっという間に蔵が建ったという、当時如何に堕胎が多かったかが判る)
〇日を呑んで月を流すは恋の道
(日とは「朔日丸という避妊薬」で「月とは月経」の事。男女の恋愛も妊娠すればこの様だという啓蒙的物)
〇文左衛門一夜日本の始皇帝
( 江戸中期、材木の御用商人として財を成した紀伊国屋文左衛門は夜毎吉原を買い占め、花魁や女郎を総揚げして大門を閉めさせて豪遊したという、酒池肉林をやっかんだ)
〇大黒を和尚布袋にして困り
(大黒とは坊さんの妻の俗称で、仏教は妻帯禁止だったから、秘密の存在だった。しかし誤って妊娠させて、布袋さんのようにお腹が膨らんだ状態を揶揄した)
〇泣かずんば泣かせて見しょう女悦丸
(長命丸,女悦丸などの塗り薬は,蛤の貝殻を入れ物として売っていた。これは昭和30年代までも富山の薬などは、貝殻容器を用いていた。不感症の女に今でいう媚薬を塗って、 ヒーヒー言わせたいという、男の自慢と願望)
〇とっさんとかかさまと寝て何をする
(子供は余計なことを言ってるんじゃない。早く寝ろと、江戸庶民の狭くて小さな住まいのSEX事情の悲哀が透けて見える)
さて、月さらえ六神丸という有名な堕胎薬が在って江戸期はこうした堕胎薬や堕胎技術は沢山あったが、明治政府は「富国強兵殖産興業」政策で産業戦士や兵隊になる人間を増やしたかった。 だから、人口増産に邪魔になる堕胎薬や堕胎技術の書物は強制的に集め焚書した為、今ではこうした川柳などからしか当時の様子を窺うしかないのである。
日本は今や世界でも類のない少子高齢化の国になってしまった。キリスト教圏の国は堕胎を厳しく禁じているが、日本は合法の為、生まれる子より堕胎数の方が多いという。 政府は堕胎数の統計を、故意か怠慢か取っていないが、推計はあって、それによると出生児の倍はいるといわれる、痛恨の事態である。 人口を増やし、豊かな生活を維持するには、フランスやスゥエーデンのような大胆な人口増産政策か移民を受け入れるか、安心して子供を産んで育てられる社会環境政策を執らなければならない。 しかし安倍政権はどちらも行っていない。対処療法の「外国人労働者法」や「入管法改正案」を少し緩めただけの姑息な政策でお茶を濁している。 だから、あと三十年もすれば労働生産性も下がり、地域は消失し、国の借金を返す人が居なくなるのだから、国債デフォルトとハイパーインフレが起こるリスクが高まるだろう。 その結果国は衰退し、かっての繁栄の見る影もない東洋に浮かぶ貧しい島国に転落するだろう。 さらに悪いことに、いまや日本は低欲望社会の到来である。 「女との交際は疎ましい」「結婚は煩わしい、一人で自由でいたい」「セックスは面倒くさい」「結婚しても子供は欲しくない」「家も車も要らない」 「スマホさえあればいい」と、こんな覇気も元気もない若者が多くなった。
我々戦前生まれや、団塊の世代の若い頃は「女は欲しい」「金も権力も名誉も欲しい」「いい車にのって女にもていた」「いい服を着て、美味いものを食って、いい酒も飲みたい」 と、欲望の塊で、そのために我武者羅に仕事をして出世競争に勝ち抜いてきた。 日本を愛すること人後に落ちない私としては、こんな状況を見るにつけ、焦燥感に駆られる。 こうした、衰退期に入った日本を蘇らせる政策を前記したように、何一つ打ち出せない安倍政権だから、これからの個人も企業も、自分で考え、必死に生き残りを図らなければならないだろう。 とはいえ、国民として傍観者ではいられないので、政府に歴史から学んでいただくためにも以下を提案し、ヒントにしてもらいたい。
「加藤光泰に学ぶ日本の人口問題」 2018/5/18 https://blogs.yahoo.co.jp/a23121222/35049323.html
江戸時代の庶民の薬については、
 
2017/12/26 「良薬は口に苦しの語源」を読んでいただきたい。
 
 
 

敬語を使う不思議な日本人 占領軍最後の将軍マッカーサー 世直し(革命)の出来ない日本 庚申(こうしん)待ちとは何だったのか

2019-06-12 11:42:40 | 新日本意外史 古代から現代まで
敬語を使う不思議な日本人
隠されている「日本原住民史」
占領軍最後の将軍マッカーサー
世直し(革命)の出来ない日本
庚申(こうしん)待ちとは何だったのか
 
 
日本には尊敬語の一分類で、謙譲語がある。 これは尊敬語のいわば裏返しとなる形をしていてその眼目は、へりくだる意思を託する形の表現を、こちら側に使うことであちら側を立てる(高く置く)こととする。 例えば、あちら側での「おっしゃる」に対し、こちら側では「申し上げる」と使う。 世界の言語の中でも「まこと比類ない、日本語の難しさは、他国語には絶対にない敬語のせいである」と称されている。
 
アメリカにしろ何処でも、なんといっても白人と有色人の違いはすぐ一見して判別できるのに、他に比のないような日本列島では先住民族である現今の庶民も、 この列島に渡来してきた大陸人もみな同じ黄色人種だった。だから見分けがつかなかったのである。そこでうっかり話をしては後の咎めが怖ろしいと、 さも他意がないように可否を明確にせず無憲味な愛想笑いをしたり、後難を怖れて、叮寧な口をきいた昔の生活の知恵が、その習い性となってしまったのであるが、 はたして今となってはそれさえ知られてはいない。
日本では「本当の事をいえば身も蓋もない」と考えたがらないし、厭やなものは見たくなく判りたくないというのは人情として解る。
 
しかし、日本史の真実を死ぬ前にそっと本当のところが知りたいと願う人や、昔からどうしても引っ掛る謎があると気にする人もいるにはいるのである。
今でも「史実」「史伝」などと免罪符のごとくしたり、恰好よく体裁ぶって権勢や金力に仰合し、金儲けの手段としてのみ利用されてきたのが歴史のありかたにされているが、 臭い物には蓋をではなく、人間には過去の具象として真実を見詰める勇気が必要なのである。 民俗学へ転向してしまった柳田国男が、まつろわぬ国ツ神の末裔を山人だとしたのに対して、大江健三郎は故郷の村で聞き知った事柄から、『同時代ゲーム』を、 日本原住民族が大陸勢力に、追われ排除された、国ツ神の子孫の側より書きあげそくれたのは有難い。
戦に負けて一度も抵抗しなかった国の不思議
さて、日本は大東亜戦争に負け、本土に進駐してきた最後の将軍がマッカーサー元帥である。 強大な権力で日本に君臨したが、次第に本国の云う事を聞かなくなったとして、彼は解任された。しかし米国民はこれを大いに非難した。何故なら彼は次期大統領候補として 人気が在った為、政治的陰謀だと見なした為である。 その当時のワシントンポスト紙に「マッカーサー統治中日本では、近代史上稀有な反乱が絶無だったのは、彼の統治が偉大であった功績でもなく、素晴らしかったと惜しまれるものではない。
 
 何故ならば彼が統治してきた者たちは、かって大陸勢力によって統治支配の歴史が長く、島国ゆえ他へ逃亡は不可能で、叛乱すれば殺掠されるしかない過酷な運命におかれ、 権力に対しては絶対服従の国民性を今に伝えているに過ぎぬからである」と大統領補佐官筋のコラムがあった。 これは、元帥解任の批難への反撥だったらしい。
そういえば、八路とよばれていた中国共産党軍の第一線に立って勇猛に攻めこんでくるのは捕虜になった旧日本軍だった事実があった。 さらに、かつて豊臣秀吉の大軍勢を悩ましたのも「降倭」と呼ばれた旧日本武者なりと伝わっている。全く可笑しなな国民性である。
 
 だから旧軍部は「戦陣訓」で、生きて捕虜となるな、自決すべしと苛酷な軍律を日本兵に強制したのである。 日本兵は実に勇敢に戦うが、捕虜になると将棋の駒みたいに取られると、今度は親方星条旗でも向うの意の儘に使われる。いや進んで協力して好い子になろうとしたがる兵が多い。
こう書くと、反発する方も多いと思うが、真珠湾攻撃の特殊潜航艇の酒巻少尉は、日本人捕虜の第一号になった。普通の軍隊では捕虜になると、 尋問を受けた場合には、自らの氏名、階級、生年月日及び識別番号等を答えなければならない(ジュネーブ条約第三条約第17条第1項)となっている。 しかし彼は、それをあろうことか、日本海軍の暗号までペラペラしゃべっている。このため米国は暗号を解読して、山本五十六大将を撃墜死させることができた。 このためまさか「お前のお陰で山本を殺すことができた」とは言わなかったろうが、後に捕虜なのにワインを一本与えたという裏話がある。
 
 日本では戦死したと思って「軍神」に祭り上げ、美談としているが、実際は将校でさえこんなものなのである。
日本には「民草」という言葉があるけれど、民は陽のあたる側で、草はそうではない日陰者なのである。 ロスアンゼルス公共図書館にあったR・ケーラーの「研究・日本人」には、「日本人は密告を恥とはせず、むしろ義務に置きかえ、誰にしろボスとなった者へは絶対従順」と、 強制移住収容地での同胞見聞記を読んで納得できた。
日本人の多くは、正嫡の民でないゆえ自分らのことを平気で、「われら庶民」というが、こうしたことに疑問を持ったため、 改めて自分なりに納得のゆく常識方式で歴史なるものを見直してゆくようになったのが、この労多くして何も報われない道に進んだ経緯である。
 
といって別に奇をてらう訳ではなく、有るがままに判断してゆくだけなのに、これまで誰も何故手掛けえなかったのかと首を傾げたくもなった。片っ端から調べてゆくと多くの先輩が、 木村鷹太郎は、やりかけて放棄、飯田忠彦は記紀だけに頼って成らず、柳田国男は折囗信夫との間柄を公表されると迷惑を及ぼすとし民俗学の新分野に転向した。 白柳秀湖は家族を慮って右翼評論家に転向して終った。
記紀の内容は借信しかねる
 が、先人が踏みこんで惑わされた迷路は、高天原に降臨したもうた方たちが、きわめて数多く先住民族は僅少でみな誅殺抹消され、残りは同化したとする思向であったらしい。 しかしマッカーサー進駐当初でも日本の人口は8千万とみて、その1%の80万だった。それゆえ弥生時代で石斧や竹槍しか持たぬ先住民族に対し、鉄剣鉄矛の方たちも、 やはりそれ位の割合の比例ではなかったかと想像できる。「世直し」というが、明治のご一新を迎えるまで後段の「庚申待ち」の項にあるごとく、江戸の庶民の町人たちは根気よく辛抱強く、 60年目に一度ずつ太陰暦では廻ってくる庚申の年を、繰り返し気長に寄り合い待ち続けていたのではどうも食い違いすぎる。
 
 それと自村江の戦いの5年後の天智8年に「大唐、郭務棕ら二千余人を我に送る」の一章でも誤られるが、4年前の天智3年5月17日には、唐の朝散太夫郭将軍らは既にもう来ているのである。 自村江の戦いで日本軍を破っているのゆえ、さぞ勝ち誇って入城式をしたと思うのが常識である。 なのに日本史では「表函と献物とを進む」と記されている。 今も昔も外地で敗戦した兵が、許されてみな直ぐ戻ってくる訳はない。当時の百済人の奈良王朝は、男共は皆戦地へ出かけて空っぽだった筈である。 この「彼我」が、どうも逆転らしいのは、その年の2月9日に冠位二十六階制度が発布され、大陸人の弁髪に真似せんとして、髮を仲ばし始めは見苦しいゆえ、本来は戸外で被る帽子を室内でと変るのでも判り得る。
今の学校歴史が出来た明治22年は中国大陸進出の矢先ゆえ、「チャンコロなにするものぞ」と意気軒高の風潮が強く、 その当時の中国大陸の日本への影響や関連を一切排除してしまった。だから、そこで記紀の辻つまが合わなくなるのである。その癖、やがて日露戦争後の南満州鉄道時代からは、正倉院御物の硝子器までが鴨緑江経由で、天山山脈越えに、遥々と地球を横断するみたいな陸路を通ってきた、 とするような過ちをおかして憚らぬ。そしてシルクロードが何時ごろできたかの解明もなされていない。
 スメラをシューメールと今では故意に呼ぶが、ペルシャ湾からなら50万トンの大油送船でも、海流に乗れば、僅か20日で日本へくる現実を考えず無視しようとしている。 夏場の南西の風で日本に来るのと、冬場の北西の風とでは、燃費が三割も違うという事実は海運界では有名で、 風と海流の向きは一緒だから、これはそれほど海から来るのは、今考えるほど困難ではなかったという証拠でもある。
 
 
しかし歴史家が真実を伝えないのは日本だけではないらしい。ピカソの有名な壁画で知られる「ゲルニカ」の住民皆殺しにしてもそうである。  つまり歴史は権力や権勢が作ってしまうものだから、間違っていて当然であるとトインビーもいう。 「真実をのべるとは愚かしき」とパスカルも不滅の名言を残している。しかしヨーロッパならスペイン史家がごまかしても、ピレネー山脈越しにフランスで暴き、 ピカソが堂々と動かぬ証拠に壁に描いて虐殺の事実を暴いている。
 しかし日本ではそうした期待はもてない。私のような愚か者が庶民の一人の挽歌として綴るのみなのである。  非力で解明しえなかったが、〈旧事紀>と神話の対照によって、上古を歴史の中で把握しようとすれば日本国としての成立は淡海国しかないと考えている。
 
 
そして、あくまで仮説だが大和朝廷の次とされる飛鳥王朝が、所謂天の王朝ではなかったかと思えてならない。かつて蒋介石が重慶で日本に対して徹底抗戦を叫んだ時、 孔子孟子の春秋の時代が紀元前600年なのに遅れじと、軍部は紀元は2600年と遡らせて学校唱歌まで作ったものである。  そうした経緯を覚えているから迷いもするのだが、大陸に比して当時の日本はは開発途上国だったゆえ、飛鳥王朝と大和朝が、順序が逆にされているのではないかと思える。 耶馬台国であったとする説を唱える人もいるが、尾張の一の江から、琵琶湖の淡海国になっていったと見るしかないのである。それは16世紀の信長の進発コースにきわめて似ているが、 庚申待ちの拝火宗徒が信長のために進んで協力し、天下統一のその路線を敷いたのである。 徳川家康は騎馬系だから同族の猿女部族の語り部を利用し、先住系ついで拝火宗の地盤までつかんで己が時代を築きあげた。
 
 (猿女たちは反仏教の東方瑠璃光如、薬師神将十二人の一人の生まれ変わりが家康だと宣伝し、彼こそが新しい世を作ってくれる「光」なのだと全国を遊説して回った) 
さて資本家や地主の為にと購入した奴隷が勝手に死んでは労働力の損失だとし、牧師が神の御召しがあるまでは勝手な真似はしてはならぬと成めたのが、死ぬにも死ねない悲しさを歌って今では「黒人霊歌」として残っている。 が、古代ローマ帝国は、「市民」は元老院へゆき理由さえ明白にのべれば、牛や馬の動物にはない人問だけの特権として、苦くない毒人参人りのジュースが支給され、 それで身辺整理をすませてゆっくり永眠する事ができた。
 
そしてこの日本国は、昭和、平成、令和と続いたが世直し(維新)は出来ず高齢化、少子化で人口減少に歯止めはかからず、年金も事実上破綻で、膨大な国の借金で今や日本丸は泥船状態。 我ら日本原住民の末裔たちは生活苦に喘ぎローマのように自殺も出来ない「生殺し」状態である。大前研一氏はこの状態を「ゆでガエル国家」と称したが、正に正鵠を得ている。 先日もテレビで、世界的な投資家のジム・ロジャース氏が、日本への助言を求められ「日本から何処かの国へ移住すべきだ」と言っていた。大変な慧眼である。 だから暗いこの国の将来を案じつつ、この一文を書いている。
庚申待ちとは何だったのか?
先ず現在の定説を判りやすく解説してみましょう。
「コの申告」つまり庶民よりの密告より始まる。江戸期になり五戸ずつが集まって相談し、道教でこれをコウシン待ちとよび、おかみへ忠誠を誓う為の密訴の情報交換。 毎月五の日に集まる際に順ぐりに猿田彦や帝釈天、青面金剛を祀ったから、申つまりサルの日と江戸中期から変わり、その中に庶民金融のため頼母子講無尽がもたれるようにもなった。
これが現在の定説だが、実際は全く違う。そんな町民達の集りでは絶対になかったのである。その証拠に、 承和7年(840)2月陸奥守の良峰木連、前鎮守将軍匝瑳未守らへの勅の記録にあるのは、
「今月十八日の奏上には援兵二千人を出したとある。しかし奥州の者らは口々に庚申待ちと喚きあって騒然たる有様である。潰出の徒輩を押さえることが出来ぬと申すが、 これは六十年前の庚申の年には伊治砦麻呂が叛乱し、同類を指揮し清見潟まで何万と押しよせてきた宝亀十一年に当る。
 
そのまた丁度六十年前の養老四年には、 按察使上毛野広人が異類どもの乱に取りかこまれ官兵も皆殺しにあっている。更にその六十年前の斉明六年には、阿倍比羅夫が遠征したものの武力では戦いあたわず、 やむなく御馳走政策をとって引きあげてきただけである。つまり六十年ごとに廻ってくる庚申の年こそ、自分らには待ちのぞんできた巻き返しの年であると、異類共は、 前から待ち望んでいたのを注意すべし」と、明確にされているのである。
だから江戸期になっていても、口伝えのユーカラみたいに庶民達は60年ごとに廻ってくる大陰暦の庚申の年を、指折り算えて親から子へ、子から孫へと申し送って待ちわびていたのである。 それゆえ「異類」の呼称が町人、職人と変わっても相変らず、指折り算えては、「庚申待ち」をしていたのが本当のところである。 つまり表むきはサルの日と変えたり、無尽の集りと、おかみの目をごまかしつつも、今度の60年目は駄目でも次の60年目はと待望し、ついに成し遂げたのが明治維新なのである。 源氏の末裔の庶民が現代でも、蘇民には将来きっと福が来ると「蘇民将来ササ持って来い」とお祭りにして、御礼を配っているのと同じことである。
 
 
 

江戸時代剣術試合はなかった 剣術試合の始め剣術試合はなぜ起こったのか 藤田東湖の影響

2019-06-11 09:59:46 | 新日本意外史 古代から現代まで
江戸時代剣術試合はなかった
剣術試合の始め
剣術試合はなぜ起こったのか
藤田東湖の影響
 
 
 
「剣術」といえば、双方が向き合い互いに木刀や竹刀をもって、叩き合いをする試合が、昔からあったように誤られているが、そんなことはない。 幕末に頼山陽のごとく、その子の頼美樹三郎が勤皇の志士として獄死したため、その余栄をもって明治時代には、絶大な信用を博してしまった。 このことを利用して、通俗史家が、「本朝編年史」を焼き直しした「日本政記」や、講談本本的内容で親しみやすく面白いからと、多くの人に広まった「日本外史」のごとき、 通俗史的読物の類が多く残され、後世を誤らせている。が、その一方では、安政二年十月二日の江戸大地震で圧死した藤田東湖のように、本当の事を書き残しおいてくれ、そのため 後世に益しているものもある。その東湖著の「回天詩史」によれば、
藤田東湖の「回天詩史」と「常陸帯」
 「試合剣術と袮して、双方向きあって木剣や竹刀で、お面お小手をやり出したのは、幕末の文政二年(1819)からの事で、水戸へ戸が崎熊太郎が乗りこんできて、 撃剣なるものを門人相手に披露したときには、水戸の侍たちは物議騒然として、これを罵りかつ嘲った」というのである。
 そしてまた、水戸で試合剣術が初めて行なわれたのは、江戸上屋敷にいた杉山子方が、その子の子元を岡田十松の撃剣館へ入門させたのが初めてで、藤田東湖が十四歳で習いだしたのが、 その文政二年だとある。つまり、水戸の武士というと、この四十五年後には天狗党の旗上げをしているため、昔から、剣術が盛んだったようにも思われがちだが、実際はこの後、 戸が畸熊太郎が五十俵で改めて招かれ、それから流行しだしたのであり、それが筑波山の旗上げへとなっていったものらしい。
 
さて藤田東湖はまたその著の「常陸帯」の中で、水戸へ試合剣術が持ちこまれてきたときに、
なぜ水戸家中の侍たちが、こぞってこれを嘲笑し非難したがという点に関して、身体髪膚これをみな父母に受く。あえて傷つけざるが孝行の始めなりとも教えられていたが、武士というものは殿さまより、丸抱えにして扶持を頂いているのゆえ、 自分の身体は自分のものであって、自分のものではないと考えるのが士道であった。だから戸ガ綺熊太郎やその門弟のような、主君持ちでない百姓上がりの非武士ならば、 殴り合い、叩き合いなどで怪我をしても、差し支えはないだろうが、なみの者つまりご扶持を賜わっている身分の者がそんな馬鹿げた真似ができるものかというので、戸が崎たちは、 撃剣を教えにきたが追い返されたのである。これは水戸だけが頑迷であったのではなく、どこの家中でも試合剣術などは、弓槍と違って卑しめられ、もって士道に悖るものとして、始めは排撃されたのである」と士道のあり方においてこれを説明している。
武士の刀は「公刀」
 しかし、ここに抜け落ちている事がある。藤田東湖にすれば、そんな事は判り切っているから書かずもがなのことと説明しなかったのだろう。  が、今日では無責任な講談や大衆小説に、歴史の方が引きずられてしまっているから、有耶無耶どころか、まるっきり誤り伝えられている。というのは、かつて豊臣秀吉が朝鮮征伐の前に国内の治安維持強化のため、「刀狩り」を断行し庶民の帯刀を禁止した時点から、 武士の刀というものは、「公刀」の扱いになったのである。
 
つまり扶持を貰っている主君を防衛する目的で、刀は公務として差す事になったのである。  これは岩波文庫にもはいっている大道寺友山の「武道初心集」の中にも、「刀というはすぐ折れたり曲がったりして使い物にならぬから、なるべく戦場には持って出るな。 どうしても用いたくば差し控えを家来や馬の口取りに帯びさせろ。そして家来は若党や小者にささせてゆくべきである」と言い、家来はみな移動刀架けであるというのが出ている。
 映画や芝居では毆さまの佩刀は背後の小姓が捧げもっようになっているが、実際は家来全部の帯びている刀が、もしものときの毆さまのスペア刀になるのである。そこで、「刀は武士の魂」というのは何も精神的な話ではなく、刀をさしている者はいつ何時でもそれを毆に渡せるよう心がけておらねばならぬのだから、 それについての心構えを言ったものであり、また武士は、刀をさしているからして扶持が頂け食してゆけるのだから、そうしたところで刀は武士の糧といった意味合いにもなる。
 
さて、武士の帯びる刀が、公刀であるという性質から、(殿の命令がなくては私に抜刀してはならぬ)という不文律が、ここに生まれてくる。 江戸時代に私闘が厳しく処罰されたのは、公刀を気ままに、私用に抜き放ってはいかぬからで、
「仇討免許状」という、大衆小説やそれを基にした映画の内容が流布されているが、007の「殺しのライセンス」じゃあるまいし、あれは嘘である。 本当は、殿様が出した「抜刀許可証」なので、内容は「この者が貴領地において、抜刀するのは〇〇の許可があってのもので、よしなに取り計らいたい」 という免許証だったのである。
 
また、「殿から何々の銘刀を拝領」というのも、万一のときにはこれを差し控えに用いるからお前に預けるという意味であって、刀を与えるという物質的な褒美ではない。 これから側近くに仕えさせてやるという恩恵の沙汰なのである。そこで、そうした刀を渡された者は、貰った物なら質へ入れても売ってもよいはずなのに、 あくまで大切に保管していたのである。つまり、鯉口三寸抜いたらお家は断絶、身は切腹というのは、大名といえども将軍家の家来で、刀架けの立場だったから、それへの罰則だったし、 その大名もやはり、己が家来へ課していた私用抜刀禁止の武家社会の法律であった。
 
そこで武士たる者は刀はさしているが、百姓上がりの剣術使いのごとく、やたらに抜けはしなかったし、また、絶対に許しがなくては斬り合いなど出来ぬというタブーかあるのにかかわらず、 「試合剣術」を持ちこんできたからして、不届きであると戸ガ綺熊太郎たちは、最初は水戸から追放されてしまったのである。
 では、何ゆえに、それがほどなく解禁というか、幕末の撃剣ブームになったかといえば、天保十一年清国では阿片戦争か起き、 「あの大国の清が白人国家に負けた」という情報に幕府は危機感を覚えたからである。だから、その二年後公儀より各藩へ海防の厳命が通達されたが、 硝石の解禁は出なかったことによる。
 
つまり、日本では鉄砲が舶来するとすぐ精巧な和製銃も作られたか、黒色火薬の七十五パーセントを占める大切な硝石を採掘できる鉱山がなく、 従って鉄砲に必要な火薬はもっぱら外国からの輸入に頼っていた。 だから、徳川家が鎖国の令を出したのも、切支丹禁止のためというのは表向きの政治的発表であって、硝石を他の大名が入手して天下を覆すなどということのできぬよう治安維持の必要上から、 幕府だけが長埼出島において独占輸入していたのである。
 
天保八年の大塩平八郎の蹶起は、徳川家が大坂方面の貯蔵硝石庫の鍵を、出先機関である大坂町奉行所天満与力に与えていたから、彼は職掌柄火薬を自由に使い、乱を起こすこともできたのである。 さて、この乱にこりたためか、列強が頻繁に日本に開国を迫る時節、徳川家は海防布令は出したものの、硝石の方は放出しなかった。 そこで各大名家は、大東亜戦末期のアッツ島やサイパンで玉砕した日本軍の司令官のように、「鉄砲はあっても弾薬がなくては射てず、役に立たない。かくなる上は、 斬りこみ隊でゆくしか他あるまい」となって、このため、みな大名家は、藩内に俄作りの道場や訓練所を作って、ここに初めて、試合剣術とか撃剣といったものが、公認されだし、流行しだしたのである。
 
 
つまり上士というか家柄の高い武士は、藤田東湖が書き残したように、きわめて保守的で、(やたら刀を抜き斬り合うのは士道に反する)という抜きがたい昔からの伝統精神があって、急場の戦力には間に合わないので、足軽クラスや郷士の若者などといった連中を集めて、速成で稽古をさせたのである。
 
そこで、こうなると、それまでは農家の百姓の二男三男に、草相撲ならぬ草剣術を教えていた連中が、今こそわか世の春とばかり、「出世したい者は当道場へきて入学金を払え」と、 募集広告するため生まれたのが、天保版「本朝武芸小伝」の類であるが、権威をもたせるために、「当流は由緒正しく、戦国時代の何某から始まったものである」式の箔をつけて誇張した。 新選組の近藤勇や土方歳三たちも、草深い日野から、「天然理心流」を由緒ある古武道だと宣伝して、江戸へ出られのもこの訳である。
 
 そしてこういった類は今でいえば、「各種学校入学手引き」のような木版刷りのものゆえ、明治になっても多く残っていた。ところが明治九年の公刀佩用禁止令がでていらい、剣術はすたれてしまい、わずかに見世物としてしか使用されなくなったのに、 山田次郎吉あたりが発憤して、「権威あるものとして復活させるため」にはと、 やむをえず「撃剣叢談」あたりを信頼できるものとして、さも戦国時代から剣豪がいたように世に伝えた。
 
これが名著といわれる大正十四年刊の「日本剣道史」なのである。そこで上泉村生まれの上泉伊勢守信綱も、後に戸沢山城守白雲斎あたりと共に、「立川文庫」の立役者にされてしまったのである。 こうした訳で、剣豪や剣術ファンには申し訳ないが、現実は厳しくそんなに面白おかしくはないのである。
現在日本中に剣道所があり、柔道と双璧を成す日本武道である。この剣道は姿勢もよくなるし、反射神経も鍛えられ、体にはよい運動である。 だから、こうした歴史の真実を頭に入れて励んで頂きたいものである。
 
 

新撰組初代局長 芹沢鴨

2019-06-11 09:10:50 | 新日本意外史 古代から現代まで
 本名、木村継次。水戸藩那珂湊芹沢村郷士出身。  幕末水戸藩へ、京所司代酒井若狭守を飛び越えて直接水戸京屋敷へ攘夷の宣旨が下された。
 よって直ぐさま秘かに水戸のお城へもたらされた。  が、これを察知した江戸の大公儀から、順当でないからと返却を命じられ、 その為水戸城は大騒動になった。そして家中では攘夷を叫ぶ激党とそれに反対する鎮党の反目が、日増しに昴まり刃を交えるような事も起き出した。   当時、近習役を勤め「返却など、もっての他である」と強硬派の一人だった斉藤留三は、この坩堝に巻き込まれていた。
  従って「用心の為」といった目的で、撃剣のできる者を召抱えることとなった。    継次は兄が私学校文武館で師範役をしていたので、そこで稽古役をしていたのだが「士分に取立てるゆえ、然るべき者を」と、その那珂湊芹沢村二百石の知行所を 持つ斉藤から、館の方へ推挙の依頼があり、出来れば兄の木村三穂之助をとの申し出だったが、「手前の代わりに弟の木村継次を」と身代わりに推され、  奉公していたのである。若党と言えば聞こえは良いが用心棒である。
 
 しかし、勅諚を返却するのに反対な斉藤留三は切腹して、憤死してしまった。  遅れて駆けつけた継次は驚いたが、 城の大手門も裏手も、鎮党の目付に塞がれているため、軽輩の継次なら城外へ 出られようと、水戸の執政大場一真斎に使いを頼まれた。   この時、後年有名になる「尽忠報国」の四文字を柄に刻んだ鉄扇を渡される。  これは斉藤留三が国を憂える赤誠を鑿に託した物で、これが大場に渡り、愛用して いたものである。
 これを身の証として持って、長岡の宿場へ早馬で使いに出た。  と言うのは、この宿場の旅籠には、   ◎内を整え外夷の侮りを受けぬようにとの、畏き御諚を賜った水戸が、いくら井伊大老の恫喝を受けたからとて、返却はならぬ。 ◎御為ごかしに江戸へ勅諚を差し出そうとする鎮党の腰抜けは君側の奸だ。
◎この長岡を押さえておけば、江戸へ勅諚を奉戴しょうとする者達を通らせないため、断固防衛する。      と、こうした考えの若者が集まっていたからである。  しかし、大場の書面の中身とは、  「御三家の水戸が大公儀に逆らってはまずいと、鎮党の意見が勝ち、執政大場は 城内にて謹慎の沙汰が出た。よって長岡の宿場に頓集している者達を総召捕りの ため、徒目付国友忠之介率いる役人が向かうので解散せよ」 というものだった。
 
 
この後、 幹部の関鉄之助らが来て、「同じ家中で斬り合いなど軽挙妄動は慎もう。実は もう勅諚は別の者の手で江戸小石川の上屋敷に移されている」となった。   これでは居残っていても無駄だからと、皆長岡から引き上げてしまた。  この時、継次は別棟で酒でも呑んで寝過ごしたか、逃げ遅れてしまったらしい。  そして召捕りに来た国友忠之介に見つかり、彼を斬り倒してしまった。  継次が徒目付国友忠之介を長岡で殺したのは二月五日。
 その五日後江戸へ逃げてきたが行く当てが無く、そこで神田駿河台の旗本 鵜殿甚左衛門邸へ転がり込んだ。鵜殿は水戸の支藩宍戸一万石松平大炊頭の伯父に 当たるから、安政の大獄の時水戸派と目され駿河町奉行の職を追われ、今では 小普請入りとなっていた。
継次が此処に来たという訳は、同郷の平山五郎に匿って貰うためでる。
 
  しかし、何日かする内、鵜殿に見つかり、水戸の様子を知悉していたので、「木村の弟というは、長岡でお徒目付を斬り殺した男で、行方を探索されている男だろう、もし、此処に居ると判れば、小石川の水戸屋敷から討っ手が掛かろうが」と、平山は注意された。    そこで此処にも居れなくなり、前の郡奉行金子孫次郎が出府していて、そこに長岡屯集の残党が集まって居るので、その隠宅に移る事になった。    この金子孫次郎というのは、奥祐筆から郡奉行になった二百石取りの身分で、 亡くなった前主人斉藤留三より格式が高い人と聞かされ、気後れしたか、平山から 渡された金で酒を飲み、女を買って寝過ごしてしまつた。  慌てて翌朝駆けつけたが、この一党の「桜田門の変」に間に合わずだった。
 継次にしてみれば、大老襲撃の事など聞いていなかったし、自分は寝過ごして 翌朝駆けつけただけである。
 だから事件を聞いてびっくり仰天。  他に行く当てもないから、又鵜殿邸に平山を頼って逃げ込んできた。  処が、井伊大老のため、駿河町奉行の職から追われ、恨み骨髄に徹していた鵜殿は すっかり歓んでしまい、「良くやった。其の方こそ水戸人の華だ」となった。    とんでもない誤解だが、鵜殿としても継次が関係ないのを知らぬ訳はなく、 有り体は「政治的利用」の何物でもないだろう。            
 
 芹沢、水戸の為に京へ行く  
そうこうする内、ある日鵜殿に呼ばれ、  「京へ行ってくれ。わしが浪人奉行として伴っていく浪人組に加わって上洛する のだ」と、藪から棒に言われた。  「明朝早立ちだ。公儀からは山岡鉄太郎や松岡萬がつく。その方は水戸のために行くのだ」と命令された。    文久三年二月八日。木曽路を経て、半月掛かりで京へ上がった浪士隊は、壬生村の 新徳寺、更祥寺、地蔵寺の三寺を宿舎に割り当てられた。しかし寺の宿坊では 不便だろうと「八木源之丞持家」というのに鵜殿の命令で継次だけ移された。  この頃は「これまで通りではまずい」と鵜殿が継次の村の名を姓に、その村に 多い野鴨から名をとって、芹沢鴨と改名されていた。
 芹沢が水戸京屋敷に行くと、「錦山」の号を持つ儒者上がりの新見錦や、鵜殿家 に居た平山五郎、平間重助といった水戸人がもう集まっていて、桜田門義挙唯一の生き残りとしての足下の知名度は高い。ひとつ今後は浪士組の頭株となり、常陸の国に忠を尽くして報いて貰いたい」  京屋敷取締役山口徳之進に言われた。
 
手前ごとき郷士あがりの軽輩者が・・・・」と固辞したが、  「水戸にあっては家名により上士下士の差別ははっきり付けられているが京へくれば別個な話し。此処は姓や苗字でなくその人間自体の値打ちが全てを決める 土地柄。戸ヶ崎熊太郎流の剣をよくされる貴方が、先ず水戸人の頭分となり、 ついで浪人組三百も手足のごとく使いこなし、そっくり水戸の別働隊に仕上げる 事こそ、常陸御領内に生を受けし者の、常陸国へ尽くすが御奉公」と、 山口からこんこんと言い聞かされた。     さて、水戸屋敷から戻ると壬生はえらい騒ぎになっていた。  清川八郎一味が独断で勤皇の志を御所へ上奏したのを、京所司代が知り、浪人組 をすぐさま江戸へ引き上げさせようと画策しているというのである。  これには鵜殿も激昂し、  「水戸人以外もこの際は一人でも多く糾合して、せっかく伴ってきた者を散らさ んようにせい」と命令された。
 そこで芹沢は、文武館で兄三穂之介の門弟だった平間重助を呼び、  「牛込二十騎町の天然理心流は、八王子千人同心の捕物用棒術が岡田十松流から変わったもので、わが神道無念流とは同じ流れだ。だから六番隊の近藤勇、土方 歳三といった連中に、気兼ねはいらんから移って来るように云ってこい」と、 鵜殿の言い付け通り残留者の確保にかかった。      新撰組の誕生  
  文久三年三月二十五日、水戸斉昭の跡を継いだ慶篤は御所より、  「上洛中の将軍家茂に代わって関東支配」の勅諚を賜り東下りした。  が、世嗣の左衛門佐は京へ残され、大場一真斎、山口徳之進がこれを守った。   芹沢は水戸人八名に、近藤勇らを加えた十六名をどうにか百を越す別働隊に 仕立て上げた。「新選組」と隊名も決まり、隊規も作った。       浅黄袖口白縁とりだんだら染めの揃いの羽織も、大丸呉服店から染め上がってきた。  こうなると、入隊志願の若者も増え、芹沢は大いに多忙だった。  遊び好きの新見錦に、息抜きに島原や祇園に誘われたが、酒は付き合ったが女遊びはぴたりと止めた。芹沢の心境としては、  (わしらが使っている水戸屋敷からの下賜金は、常陸三十五万石の民百姓の汗みずく の金、それで女など抱けよう筈はない)と心を鬼にしたのだろう。      だから水戸派の若者も近藤一派の連中も、  「さすが芹沢さんは桜田門生き残り。誠の志士とはああした御方であろう」 評判が良く、黒谷の守護職会津屋敷でも「芹沢のような身持ちの良い者ならば」 極めて受けが良く、やがて家老田中土佐から、
「昼は仙洞御所前、夜は禁裡御所南門」と御所警備を命じられ、芹沢はすっかり張りきって昼夜を問わず詰めきっていた。  ところが八月十八日、政変が起こった。
 薩摩や中川宮の手によって長州兵が堺町御門の警備を解かれた上追放となり、三条中納言以下七卿を奉じて都落ちをした。そこで、これまで長州と仲の良かった水戸へも、弾圧の手がのびてた。  機を見るに敏な大場一真斎は、直ぐさま若殿を守って京を脱出し、山口も江戸へ 引き上げてしまった。
 
この結果、新選組の水戸人は当惑した。  水戸屋敷からの資金が断たれ、黒谷の会津屋敷からの、表向きの御用金だけでは、 今や二百を越えた新選組を賄ってゆけなかったからである。  芹沢としても、この政変にはどうしょうもなく、儒者上がりの新見を信用して 相談した。が、新見とて格別の当てがある筈もない。
  そこで「切り取り強盗、武士の慣い。ひとつやりますか」となった。   この夜から、新見黙認のもとに水戸派の連中の荒稼ぎが始まったが、芹沢は昼夜 御所の門外に立ち、尽忠報国の鉄扇を握って指揮をとっていたから、それらのこと は迂闊にも知らなかった。しかし土方歳三はその一切を調べていた。  この当時の会津の意向は、水戸人が主流を占める新選組では安心出来ない。 もし彼らを一掃出来るなら、近藤勇一派に全てを一任してもいい、というものであった。
土方歳三、水戸一派を粛清する
 
そしてすでに水戸派追い落としの為の支度金が土方歳三に渡されていた。  近藤としては、八木屋敷へ引き取られてから、芹沢に呑ませて貰い、奢って貰った恩もあり、何より近藤は芹沢の真面目な人柄や、御所に尽くす勤皇精神に感化されてもいたので、彼を殺すことには反対だった。
  しかし土方は水戸派一掃を強引に実行したのである。    その夜、土方の奢りという事で、芹沢鴨、平山五郎、平間重助らは馴染みの芸妓を 連れて宿舎に戻ってきた。しかし芹沢は初心を貫いて酒を呑むだけで戻り、 菱屋の後家の梅と別棟で寝んだ。
  だから、頃合いを計って忍び込んだ土方歳三と沖田総司に、すっかり前後不覚に 眠りこけていた芹沢は、滅多やたらに突きまくられて死んだ。同じ頃、原田左之助と山南敬助の二人が、一番隊宿舎で芸妓と寝ていた平山五郎 をなますのように斬り刻んで殺した。   【補記】  この時、平間重助だけは素早く縁下へ逃げ込み、土方らの引揚げた後、芹沢の髪毛と尽忠報国の鉄扇を形見に持ち出し、那珂湊の文武館へ逃げた。  そして翌元治元年六月、  「水戸天狗党」の乱が起きると、平間はその鉄扇を竹竿に付けて常州野州を転戦 した。そこで芹沢鴨がまだ生きていて、天狗党に加わったものと間違われてしまっ たのか、今となると「天狗党くずれ芹沢鴨」と年代が逆に誤って書かれた本もある。
 又、芹沢と一緒に殺された梅なる女は、菱屋の主人が脱藩浪人の押し込みに襲われ 殺された後、また何度も狙ってくるのを怖がって匿ってくれと来たのを、芹沢が 八木屋敷に置いていた後家さんである。
今となっては推測するしかないが、二人は互いに好きあっていたのかも知れない。  維新という大きな時代の流れの中で翻弄され、殺されて逝った二人は哀れである。合掌。