新令和日本史編纂所

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 論考 古事記 古事記は「骨事記」であり「乞食(こじき)」

2021-10-29 12:59:10 | 新日本意外史 古代から現代まで


     論考 古事記


古事記は「骨事記」であり「乞食(こじき)」



昭和十一年「竹内文書不敬事件」が起こった。
日本史の「根本史料」とされている「古事記」「日本書紀」と対立する「偽書」として徹底的に弾圧されたのがこれである。
(注・竹内文書)
竹内文書(たけうちもんじょ、たけのうちもんじょ、磯原文書、天津教文書ともいう)は、古代の文書を装ったとされる偽書。
神代文字で記された文書と、それを武烈天皇の勅命により武内宿禰の孫の平群真鳥が漢字とカタカナ交じり文に訳したとする写本群と、文字の刻まれた石、鉄剣など、一連の総称。天津教の聖典とされる。
原本が存在する立場からは、後述の裁判に提出されたのちに焼失したと主張される。


平群真鳥の子孫であるとされる竹内家に、養子に入ったと自称する竹内巨麿(たけうちきよまろが、1928年(昭和3年)3月29日に文書の存在を公開した。
昭和10年代以降加筆されたという説もある。写本の多くは戦前に焼失し失われているが、南朝系の古文献を再編したとされる写本もある。
当時竹内は皇祖皇太神宮天津教を興し、同宮の神職であった。元々の竹内文書は、彼の天津教と直接関係はないが、竹内文書の内容と、さらに新宗教天津教の教理が加えられたものが、同宗教団体の教典に位置づけられている。
書物だけではなく、神宝の類まで包括して「竹内文献(たけのうちぶんけん)」ということが多い。

昭和十一年、明治大学の総長だった鵜沢總名が「竹内文書不敬事件」で、竹内巨麿の特別弁護人をしていた。当時は神聖視されていた「日本書紀」と本居宣長の「古事記伝」との二つの相似性を、
「竹内文書」から発見し不敬にならぬよう立証する為、鵜澤はその作業をしていた。
だが竹内家の旧蔵書が、家宅捜査されて全部押収されていた中から、先生の教え子が検察畑の中にもいたので特別な便宜が得られた。
「一読後は、焼却処分の危険不良文書ゆえ、必らず返却すべきこと」との厳しい制約の朱書付箋付で、事実その後は逆押収され一切焚書されて今は、もはや一冊も残ってはいないものの中に、
足利末期に記されたらしい「こじき(乞食)」が在った。
 つまり、本居宣長が賀茂真淵より引きつぎ完成した今の「古事記伝」とは、まったく異質の、「コジキ」を、ガサ入れで竹内家より押収され廃棄処分にする前に二冊があったのである。
 「古来、宮中に『日本書紀』は有ったが、コジキは置かれていなかった」といわれる由縁が、その古いコジキには書かれていた。
この裏付けは、検察内部にも鵜澤総長の教え子がおり「こじき」は確かにあったと言っているのである。
「慶長四年乙亥卯月二十一日亮海刻版の『骨事記』及び「写本」で相当に紙魚に喰われていたが、足利末期らしい「こつじき(乞食)」の二つが在った」ということである。
今となってはこの「乞食」の内容を推理するしかないが、中国が日本列島に持ち込んで仏教を広めようとしたとき、難しい教義を教えたとて原住民は理解できない。
そこで手っ取り早く、視覚から入る極彩色の地獄図絵を見せて脅かした。即ち「仏教を信じる者は極楽へ行けるが、信じないものは地獄へ落ち赤鬼青鬼に虐待され血の池や針の山で苦しむのだ」と。
だから原住民たちを「隠忍(おに)」として同音の「鬼」と当て字をしてしまったものだろう。
「福は内、鬼は外」と一掴みの豆を戸外へ投げつけられ、それを拾って野良犬のようにコソコソと寄ってきて飢えを満たす憐れな隠忍どもを、体制側の豪いさまたちが原住民を蔑む記録だったろう。

この豪いさまの宣撫班の坊主たちは、墨染めの衣の袖まくりして、飢えた隠忍たちを集めては、「施餓鬼」と称して、薄い高粱がゆを一杯ずつ施しては仏など有難がらぬ先住民の群れを、
カユ一杯を餌に拝ませ、転向させては、いわゆる寺奴隷として使役にまわして世襲制の永代私有制にした。 
 「夷詠朗詠集」なる漢詩集がある。これは応仁の乱の前の豪い堂上公卿の詩だが、判りやすく意訳すれば、
「飢えはてて、朱き堂に餓死する屍や、これ夷也」」の一詩さえ残され伝わっている。今では、「稲荷」と当て字を換えさせられて豊作祈願とするが、農村にあるのは馬頭観音と道祖神だけであって、
朱い鳥居はみな町中にある。藤原の公卿が夷也とよんでいたものの同音換え字だろう。


 つまり進駐軍によって追われ、奴とならねば食する物がえられず、餓鬼となって、ひたすらに食を乞う者らを夷と蔑んだ体制側の豪いさんが「食乞い」の者らを「乞食」となし、
痩せさらばえて肋骨も透けてみえる隠忍どもを「骨事記」となしたものだろう。
なにしろ藤王朝に代った天武天皇の命令で、稗田阿礼が暗唱したものを、太安万侶が和銅五年一月に完成なしたとされてはいる。
この稗田とは、非や卑の当て替え字で、阿礼のアの発音は海洋渡来民族系の独得の名なのである。彼が喋舌ったことを、四っの騎馬民族系の末孫オオノヤスマロが、
天武天皇御即位の六七三年より三十九年後に完成されたとするのも可笑しい。
これだと、まるで阿礼の暗記していたのを太安万侶が、口述筆記したごとく誤られているが、それなら39年もの歳月が掛る訳はない。惧らく八母音を言語としていた海洋渡来系民族の説話なので、
それを日本海語のシラギかコマ語に変え、それを則天文字つまり漢字に又も書き直したから、40年近くも要したのだろう。
 といって、本居宣長の「古事記伝」みたいな今みる内容だったと、前述したように全く異質なのである。
 壬申の乱によって体制を握られた天武天皇が、被征服民どもの餓鬼ぶりを蔑けるために、海洋渡来系の阿礼に泣言をいわせ、それに騎馬民族系の四ツの者らの飢えてる餓鬼噺もつけたしての、
「勝利者の記録」を、被征服民族への嘲笑記として書かれたものでしかない、とみるべきではなかろうか。
それゆえ「日本書紀」のごとく御所には置かれていなかったというのが真実の処だろう。


賀茂真淵が伊勢松坂へ来たとき、その門人となった本居宣長は、従来の「コジキ」の内容を一変させ、当時としては斬新な「新興国学」をたてるため「鈴屋門流」とよぶ弟子たちに、
「旧事本紀」その他のものを底本として、さも「日本書紀」に対抗しうるようなものを、天明六年から文政五年にかけて刊行し、明治維新当初の「神祇省」設立の基礎を作ったようだ。
      
といって宣長は、神がかりみたいに賀茂真淵の言いなりに、何も判らずに新しきに走った訳ではなく、昔の伝承コジキの冊子も手元には持っていたようである。
その裏付けとしては、「賎者考」を宣長の死後、その跡目を継いだ稲葉陳隆の子であった本居太平も書いている。これは、
三一書房刊「近世庶民資料集大成」の第十三巻にも、被征服民族の実体を明らかにしている。だから「古事記伝」は労作とは認めるが研究資料として扱ってはならないのである。

なお「日本書紀」の現在のものは「畏れ多くも後西天皇が侍臣に命じて書き写せしめ給いし、渋表紙の巻子本五十巻にて、天地に墨界を施し一行十数字に書せられたり。外題なし。『京都御所東山御文庫』と申しあげ、
特に御聴許を得て許され、この貴重なる御本を拝観するを得たるは無上の光栄とする所なり」
 と、皇国史観の黒板勝美が、「凡例」として謹書しているが、この後西さまこそ「京雀」に書かれてある通り、二十七歳の若さで徳川勢力によって、今でいえば「伊達綱宗との共同謀反容疑」をかけられ、
京所司代牧野備後守貞通のため、鳥篭をかぶせたような竹矢来の茅屋に生涯いれられていた御方さまであらせられるのである。


侍臣に命じてではなく恐れ多くも御宸筆であって、「徳川は、今では王と自称し千代田城を朝廷など僭称しているが……本当の体制は御所の方であるが正しいのだ」と、
貞享二年二月二十二日に鳥篭を冠せられたような茅屋で御宝算四十九歳にて崩御遊ばされるまで、通算二十二年間の幽閉のお暮しに憤られて書かれたのが、今の日本書紀そのものなのである。
勤王の志の厚かった水戸光圀が、筆硯用紙に、防寒の道衣を差入れた咎めで、徳川綱吉によって罰せられ、江戸から唐丸篭で水戸の西山荘まで運ばれ、生涯幽閉された。
 つまり今の日本書紀は、皇国史観歴史が、まかり通った時代から、唯一の国史のごとく扱われがちだが、後西さまは歴史家ではない。御所の所領はあくまで三万石の田舎大名並みでも、
御所こそが、天武さまからの連綿たる真の王であるとの、ご憤激のあまりに、宮中に散逸している古文書資料を密かに持ちこませ、お悼しくも水戸光圀が道衣を差入れするまでは、
震えて寒さに堪えつつ、五十巻もの著述を二十余年お続けられた反徳川文書なるがゆえに、外題つまりタイトルは無しである。
 昭和六十年に、徳川オカミの権勢をしめすために、まったく言いがかりの容疑で雀小屋へ押しこめられて、窮死なされた後西さま崩御三百年祭が、宮中ではしめやかにおこなわれた。
「華族は皇室の藩屏なり」と仰せられた明治大帝の御勅旨があり、その華族会長が戦前までは”旧徳川公爵家"だったから、徳川体制が大不敬な不祥事をなしたことは、一般には知らすべからずで伏せられていた。
だが、それにしても、黒板勝美の知能智識の低さは呆れざるをえぬものがある。
畏れ多いことだが、子供は「つづり方」に、面白かった事や愉しかったことを書く。しかし大のオトナは口惜しさや恨みつらみで書くものである。おいたわしいし申し訳けないきわみであるが、
雀小屋へ押しこめられた後西さまは、光圀の指図で京屋敷より差入れの用紙に、宮中に残っていた古文により怨念をこめて「後西さま日本書紀」をおかき遊ばれたのである。
「皇国史観歴史屋黒板勝美」は、藤原勧学院派グループが、桓武天皇のオンモン書紀にとって換るべきものとして、高千穂の峯へ降臨してきた天孫民族とは吾らトウ(藤原)なのだ、
 としたのが判らず、「藤原鎌足の伜の不比等の作」といった愚にもつかぬ仮説を鵜呑みにしての六国史作成ゆえ、日本の歴史屋に外国人御雇え教師のアドルフーリースが歴史学博士を許さなかったのはむべなるかなである。
だから日本は先進国で唯一「歴史学博士」の居ない不可思議な国なのである。



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