新令和日本史編纂所

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武田信玄の旗印、四つ目菱の由来 山口組の菱の代紋は日本を制覇した。

2019-07-15 20:39:38 | 新日本意外史 古代から現代まで
武田信玄の旗印、四つ目菱の由来
 
 
山口組の菱の代紋は日本を制覇した。だが武田信玄の四ッ目菱は戦国時代にその名を轟かせたものである

 
天文九年五月。
武田信玄(本名武田太郎晴信)の父武田信虎は、板垣駿河守信方に討手大将を命じ、「佐久郡をわがものにせい」と命じた。
これにより、臼田とか入沢といった砦のような小城は武田の軍勢に戦わずして降参した。
これに味をしめた信虎は、その翌年の五月には、佐久郡の先の埴科郡へ兵を入れることとなった。
しかし今度は前と違って、そう手軽には行かなかった。何故なら海野棟綱の支族の真田幸隆というのが、なかなかの策士で巧に兵を用いて抵抗したからである。
この幸隆には四人の男子があり、後、晴信の代になると武田の旗本となって仕え、その内の三男真田昌幸の倅が、後に有名な真田幸村になるのだが、この時の真田勢も強かった。

昨年の佐久攻めの例で、たやすく討伐できると考えて、あまり糧食を持っていかなかった。ためにすっかり食料不足になり、今回はひとまず軍をまとめ引き上げることとなった。しかし、引き上げに乗じて真田の軍が追い縋ってこられると厄介なので、殿軍を誰にさせるかということになった。
武田信虎はその殿軍をこの時二十歳の実子の太郎晴信に命じたのである。ここに武田軍は陣払いをして小諸街道から平沢へ出、そこから甲斐の国の長沢へ引き上げることとなった。この時の晴信の軍勢は大井党を主にして百名足らずで、食料としては、そばを湯でゆがいだ「そばがき」で飢えを満たしていたのだが、それさえも不足してきた。
この時足軽組頭の山本勘助(講談やテレビでは軍師となっているが実像は足軽組頭)が菱の殻から取り出した菱の実を兵に食させて、この急場を凌いだ。
これは勘助が、菱の実を俵やカマスに入れたものを大量に馬の背に積んで持ってきていたものである。
(当時甲斐の野山には沼が多く、固い棘で覆われているが、たぎった熱湯に素早く入れて、荒莚に並べ、外穀を平べったくするよう切れ目を入れ、中の果肉を取り出すと栄養価のある戦場食にもなる。なにしろ昭和の戦前までは露店で、子供の菓子代わりに売っていた位だからすこぶる美味しい。現在忍者が鉄資源のないこの国なのに、大量に鉄製の「撒きビシ」なるものを投げる場面があるが、あれは与太話で、実際は差別され、隠れ住んでいた日本原住民がその囲い地から
脱出する際、追っ手をまくのに撒き散らしたものが、菱の殻なのである。だから忍者とは、迫害に隠れ耐え忍ぶ者という意味。黒装束で屋根から屋根へ飛び跳ねる者などは、これ講談や劇画の話で実際は居なかった。)
そして、退却途中の晴信勢が、左右が見上げるような断崖の一本道へ来ると、菱の外殻を通路一帯に撒き散らした。
追ってきた真田勢は、まず馬が棹立ちになる。当時の馬は蹄鉄など無く、藁沓(わらぐつ)しかはいていなかったから、固い四つめ菱を踏み抜いて進めない。
びっくりして尾を振りたてて、逆戻りに奔馬の有様になる。
人間も、この当時は藁で編んだ草鞋(わらじぐつ)や裸足の者が多いから、てんでに足裏に棘を刺し前に進めない。
このため、武田太郎晴信の一行は無事に府中へ引き上げることが出た。
これが評判となり、追いすがる真田勢を振り切り、一兵も損ぜず戻ってきたと、
「太郎の若殿さまは、大殿の信虎さまにも劣らぬ戦巧者である」すっかり家臣の賞賛の的になった。
これはつまり、富士川峡谷の駿府から甲斐への河内路を、山本勘助の発案で太郎晴信の命令として、真田勢を防いだということである。
この後、父の信虎を追放して、晴れて甲斐守護の位に就いた武田晴信は、正式に山本勘助を足軽頭に任命し、五十名の組子をつけてやった。
そして、ここに甲斐の四つ目菱を旗印にすることになる。その後戦のたびに見る者が怖気をふるう「武田の四つ目菱」の誕生となった。
 後、信玄は本願寺門跡の妹を妻に貰い、仏教勢力とも手を握って、権大僧正の位も貰い、その説教僧を近隣諸国に派遣し「甲斐のごんそじょ鬼より怖い、どどっと来たって人を斬る」と大いに宣伝し恐怖を与えた。
この唄が江戸時代になると、やくざの武井村のども安が人斬りとして怖れられたので「武井のども安鬼より怖い、どどっとどもれば人を斬る」と転化された。


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