新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

「日本書紀」考察 天智天皇と天武天皇との謎 桃太郎

2021-10-06 18:29:41 | 新日本意外史 古代から現代まで


  「日本書紀」考察
 
 天智天皇と天武天皇との謎 


桃太郎伝説 御伽噺から見える日本史の真実 


先ず、「日本書紀」の編纂者は誰か不明である。そして書紀には「天皇家の祖先や祖神が、日本列島においては遅れて来た者達であり、神武(イワレヒコ)が大和盆地に侵入して」その地において新たに王朝(?)を建てたという立場をとっている。
神武の即位を辛酉の年においた識緯説の神武天皇の即位を辛酉の年において識緯説の辛酉革命論は、神武の大和侵入及び征服は前王朝(考古学的には「銅鐸国家」の顛覆)が前提となっている。
中国古代史を通読してみれば王朝の交替は明記されている。前王統に連なる者であるとか五世の孫であるとかの記述はない。その中国文化を範とした大和政権が、何故王朝交替を隠匿したのかの疑問がある。
日本にのみ固有のこの血統の継ぎはぎ現象の動機が不可解なのである。


次に、日本列島の三韓分有説については、それが事実であったなら『好太王碑』に倭の出自について、百済や新羅に対すると同様、「もと高句麗(扶余)から分かれた」との文字が当然あるべき筈である。
それを書いて不利な理由がない。もちろん明治十六年に中国東北部にある輯安の好太王碑を訪れ、その拓本(写し)を持ち帰った酒匂大尉が削除したというの説もある。


 白村江以降の唐占領説についても、唐側の史書にその旨の記載をしても唐にとって国威発揚になるし、宣伝により威信を高める効果ならば考えられるが、書いたことによるデメリットは無いのになぜ書かなかったかのか? 
血統信仰に関連するのが、奈良の百済政権は当時の日本と比べて文化的・技術的に先進国であり、貴種でもある自らの血統を、日本先住民に対して優位に立っているのになぜ匿さねばならなかったのか。


唐は倭国と日本国を何故に並記しているのか?西暦8世紀迄は、日本列島は唐によって二分されていたのではなかろうか?海洋渡来系先住民である八ッ族の額田王に関連するのでしょうか。
次の二点が大変明確に読み取れます。


①天智紀七年の条「是歳、沙門道行草薙剣を盗み新羅に逃ぐ。風雨にあひて、荒迷ひて帰る。
②天武紀朱鳥元年六月「……戊寅に、天皇の病を卜ふに、草薙剣が祟れり、即日、尾張国の熱田社に送り置く」と言う具合に、剣の有難さというか後に「三種の神器」となる尊さをとく。


また、景行紀のヤマトタケルの東国平定説話のエピソードの一つとして、草薙剣を神体とする熱田神宮の起源潭について、中村幸雄氏は『市民の古代研究』というパソフレッ卜に、前紀①、②の記事を考察している。
結論を言うと、草薙剣は天智の時に初めて近畿にもたらされた(もちろん唐側から見た倭国で盗まれた?)もので、この剣は、天智には祟らなかったけれど、天武には祟って天武は結局この病で死亡した。
熱田神宮に剣が合祀されたのはこの時だ、というものである。私はこれに加えて、何故尾張なのかという疑問を感じていたのですが、徳川時代の尾張がアマ族の国であったという説と関連するのだと思います。
何故なら徳川時代の尾張が海洋渡来先住民であるアマの民(アマ族)の国であったとという説と関連するからです。


上記は「日本書紀」と「古事記」を金科玉条とする歴史屋と一線を画し「日本書紀」の記述に疑問を呈した飛騨高山のK氏の一文である。
常識も思考力も失った歴史屋よりよほど勉強されている。先日ノーベル物理学賞受賞の真鍋淑朗氏も言われているように、「何故」「何故」という飽くなき疑問と「好奇心」こそ学問の基本だからである。


    「日本書紀」考察


ここから「日本書紀」に絞ってK氏の疑問点と合わせて考察をしてみたい。
さて、「日本書紀」では、落下傘もなしに天孫民族が降臨し、金色のトビをガイドに遠征し、大和地域を平定して、辛酉の世変りの年に、鉄剣で日本先住民を征服し、建国したとしているけれど、
今では歴史屋でも、さすがにこの説はとっていない。前王朝の銅鐸国家というのは、高麗系が建てた出雲王朝の事である。
武内宿弥の昔から、朝鮮半島人の勢力と中国本土より渡来勢力は、日本列島を舞台にして何度となく、代理戦争で仁義なき戦いをくり返していたのが実態。そして、そのたびに鉄砲玉として先住民で
ある吾々の先祖が、消耗品とし双方に使われ殺されてきた、使い棄ての歴史そのものなのである。


 従来の史観は、朝鮮の銅剣が中国本土よりの、鋼鉄製の鋭利な刃物のホコや青竜刀によって叩き折られて征服されたのを数度くらいにみている。
しかしこれは大きな間違いで、実態はあけくれ西暦六六三年の白村江の敗戦後のあとまで続いている。ずっと後になっての南北朝合戦にしても同じことである。
(南朝は朝鮮高麗系で、水軍として河野氏、土居氏、宋氏、対馬水軍、菊池氏にど。北朝は明国系の足利氏)




 新興明国の後押しをうけた足利方の北朝と、兵庫三の宮から湊川にかけての勢力で最後の戦いをしたのが南朝側である。が、当時は従来の高麗体制が崩れ「李氏朝鮮」に換わった時点だったのである。
だから朝鮮から日本列島への援助どころではなく、後楯として武器輸送ができず足利方が勝って勝敗が付いてしまった。
 が歴史屋さんたちの最大の誤りは、大東亜戦争中の軍部の誇大宣伝のごとく、日本列島に、昔から「日本帝国」のような壮厳で、かつ立派な国が、朝鮮半や中国大陸と、さも対峙し存在していたかのような、
夢というか幻を蜃気楼の如く妄想を抱きすぎていることである。
正直いって、昭和の至尊が、韓国全大統領に仰せられたごとく、我が国の建国は六世紀七世紀なのである。
以前の日本列島は、前方後円墳を今に残す地方豪族というのが、潮流で日本各地に渡ってきて住み着いていた。
彼らは武器などという物はなく、裸足で喰いつき合うような原始的な状態だった。だから苦も無く彼らを奴隷化して、地方別に小さな勢力を維持していた、纏まりのない、いわば無法地帯だった。
だから「豊葦原瑞穂の国」というのは「農耕もする海洋渡来の先住民は、太平洋岸の各地に住み着いて、彼らは後の平氏となる、赤を民族色とした部族で稲穂の地区。一方寒流で日本海を渡ってきた
遊牧民族が、馬に食わせる豊かな牧草が茂る葦の原っぱ」という意味なのである。
中国や朝鮮と比べて、日本は未開発途上国だったゆえ、散々苛められ、次々と彼らに君臨されて「奴隷」とされていた。庶子の民から生まれたから「庶民」とされ、これが「我々庶民の生活は・・・・」と今でも使われる。


  「任那の日本府」の間違い


 明治軍部は大陸進出の為中国人を「チャンコロ」とか「ヨボ」と戦意高揚のために学校教育で蔑称を与えた。
これはかって太古の時代日本先住民が差別され苛められた仕返しとみれば非難の対象にはなるまい。
かつては、「満州国」の名称で敗戦まで中国東北部にあった。その当時の入植した日本人は
 「相手は日系か、じゃ心配いらん」 「えっ朝鮮系か、用心せんといかん。彼奴らは油断ならん」
 「えっ満州系。そりゃ念を入れて掛らんと向うは頭がよく廻る、コスッカラクひどい目にあう」と現地の日本人は、五族協和の国というのに韓国系に用心し中国人は賢いと敬遠していたのである。


 威張っていたのは関東軍の連中だけで、現地の日本人は軍を背景にせねばかなわなかったのである。処が日本内地では、かつて苛酷に扱われ散々に苛め殺されたミジメたらしいことへの裏返しなのか、
日本歴史をロマン化し美化して偽造してゆくため、日韓合併後は堂々と朝鮮半島の新羅、百済、高句麗は日本へ貢進してたような嘘を書く。
半島三国が、それぞれに、「ムネとする城」の意味の胸蔵(ムネサシ)の今の東京都。「ムと主を現す城」の武蔵の今の埼玉県。「中核を意味するサネを上につけたサネサシ」の相模の今の神奈川県と、
関東だけでも三つ巴になって狭い日本列島の中で相争っていたのが実相。


 従って現地解決はむりなので、朝鮮半島に「任那」とよぶ三国合同の協議会議所、今の38度線の南北管理会談所みたいなものを作った。
これを「任那の日本府」と歴史では言うが、これは三国の協力統治が目的のためだったものにすぎなかったのに、これをさも往古より巨大な日本国が存在していた如く学校歴史で教育されている。
だから先日もテレビ番組で櫻井よしこ氏が「あの時日本が朝鮮を助けたのです・・・」と話していた。
日本で最も注目される論客で、碩学の一人でもある櫻井氏でさえこうして間違いをしてしまうのだから、あとは悲しいかな推して知るべしである。
 ここの間違えは、植民地占領側の支配の「好太王碑」の文面に、「もと高句麗(扶余)から分かれた(人種)」などとは、未開発の野蛮人視していた倭人のことを書く筈などありえない。
                    
   白村江で勝ったのは「唐」


朝鮮半島の百済が唐に侵略され、母国滅亡の危機を救うため、日本に君臨していて、奈良朝の百済人が日本先住民をかき集め(二万三千~三万人説)本国救済に白村江へ送った。
しかし将校や指揮官は百済人だが、多くの日本先住民は当たり前の話だが百済に散々苛められてきて、真面目に戦うはずはない。それに武器も圧倒的に劣悪だった。
鎧袖一触敗戦となる。
勝った唐の将軍劉仁軌は部下の郭将軍に、降伏した百済人朴将軍以下将校共に道案内をさせ、日本に上陸し、倭国の御所を占領した。
この事実は西暦六六九年の唐の高宗総章二年に、倭の完全制圧に必要な兵員は要求通り送らず、僅か二千余人を冷ややかに形ばかりに派遣した事実。


これを日本では白村村の戦いというが、奈良王朝の人間は少なく、指揮官だけだから唐の軍勢に一敗地にまみれ、指揮官達は捕虜となった。
 そして百済を占領した唐軍は、唐の将軍鎮将劉仁軌は部下の郭将軍に降参した奈良王朝人たちを道先案内にして、日本へ進駐してきたのである。


この証拠が次の有名な歌である。


いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな


この歌を綺麗な桜の情景と誤解しているが、とんでもない間違いでその意味は。 これを現代語訳では


「いにしえの昔の、奈良の都の八重桜が、今日は九重の宮中で、 ひときわ美しく咲き誇っております」となっていて良く知られている。
だが果たしてそうだろうか?

このサクラの語源は古代百済語の「群がり」の意味なのである。
今は居なくなったが昭和35年頃までのヤクザの香具師たちの言葉で、客寄せの意味に 使われていた。
 香具師たちは大道で店を開き、衣服や万年筆など様々な品を売っていた。
「さあこれは値打ちもんだよ、実は○○工場が倒産して社員の給料が出ない、だから安く売りに出したんだよ。はい300円でいいよ」

 すると何人かが近寄ってきて「ほぉーこれは安いね、俺に3個おくれ」「そんじゃ俺も社員を助けるためだ、5個おくれ」 こうなると通りすがりの一般の客も集まってきて、我も我もと買っていく。
これを<タンカバイ>というが、この客寄せ用の云わばヤラセ役がサクラというのである。
現在でも各テレビ局の放映の際、スタジオに集められてデレクターの合図で笑ったり拍手したり、驚いたりする奥さん連中もサクラなのである。

 さて、その昔はサクラとは賤の者の集まりや集団で、つまり差別され虐げられていた 日本原住民達を指す。下総の佐倉といった地名も残る。
尚、ヤエとは女のことで、八重桜とは百済の女達をいう。これらを頭に入れてこの歌を読み解けばこうなる。

 朝鮮半島の百済人が奈良王朝を立てて日本に君臨していたが、本国の百済が大陸の強国唐に負け、
唐の勢力が奈良王朝に取って代わって奈良の御所に入ってきた際御所に居た百済の女達は、キムチの臭いか放屁の臭いか、とにかく唐の男たちには臭くて堪らなかった。
という意味。
桜の花なんか強烈な臭いなどしないし、綺麗な歌なら「かおる」というだろう。即ち戦勝唐勢力の百済を卑下した歌だと判る。




「魏志」には収録されている倭に対する記述を額面通り受け取ってはならないのである。
何故ならあれは書き手は魏の下っ端の役人で、稿料か褒美が欲しくて、見聞していもせず、ましてや実際に行ってもいない倭のことを、中国お得意の白髪三千丈式の誇大に書いたものである。
それでは実際の所は何処かと言えば、現在のベトナム沖の「海南島」でこれが「倭人伝」なのである。
それに書かれている倭が立派な国家なら、唐も占領しがいがあり、本腰を入れてもっと兵も送り、積極的に援助もしたろう。


そうすれば、従九位下の朝散太夫の位階しかない郭あたりではなく、従四位の劉仁軌将軍位の豪いのが代わることになる。そうなっては、折角苦労して倭へ入った郭の手柄が上司にとられてしまう。
ここが問題で大事なところである。まず倭の日本列島が、見るべき資源もなく何の価値も認められぬゆえ、唐本国ではあまり気乗りせず放任し、占領など念頭に無かったのが真相だろう。
次に郭が本国へ凱旋して二階級ぐらい昇進したとしても、到底皇帝への御目見え格には程遠い。つまり戻ってもたいした立身出世は望めない。
ならば男は度胸と居直ってしまい、さながら唐の分国「倭独立国」のような立場をとった。


そして、劉仁軌将軍の部下や本国へ戻ってもウダツの上がらぬ同僚たちを招いた。また唐本国で前途のないアブレ者やナラズ者を、新建国のため金で集めて呼んだかも知れない。
当時の倭には、何の資源もなかったが、山金だけは東北や新潟にゴロゴロ在ったからである。




 日本歴史年表では「舒明二年八月五日に犬上御田鍬、薬師恵日を唐に遣わす」と、これが遣唐使の始まりなりとする。だが、それは唐の太宗の貞観四年で西暦六三〇年のことである。次は、
西暦六五三年五月十二日に吉土長丹、道厳らを第二回の「大唐遣唐使」として送る。
同年七月の遣唐使高田根麿の乗船が薩摩の曲竹島にて沈没したので、翌西暦六五四年二月には、高向玄理らを改めて遣唐使として送る。と、24年間に四回も唐へ船を出し、帰りに人材を迎えている。


 だから郭務ソウも新しく国をおこすぐらいの有能な人材は、どうにか当時の倭には、もう揃っていたのかも知れない。さて自村江の戦いのあった西暦六六三年の前の九年間には遣唐使の記録はまったくない。
戦後の六六五年九月二十三日だけ唐より近州司馬、馬上柱国、劉抬高がきて、潮流が唐へ流れる十二月に彼らが帰る際に、郭は何んの報告をさせるつもりか、弁口のうまい小錦守君大石らをつけて戻している。
これが功を奏したのか、、倭の地は野蛮な地にて、なんら利あらざる土地と吹きこませたせいか、白村江敗戦から実に60年後の西暦七一六年になって初めて、第五回目の遣唐使が、
八月廿日に多洽比懸守によって、郭将軍の死後らしく送られている。
 ということは半世紀の余にわたって、唐の方も倭の方も互いに知らぬふりで放っておかれたのであるから、「唐書」に「倭を唐が占領した」となっていないのが当然のことと言える。


 なにしろ当時の日本列島は半世紀以上もたって、久しぶりに遣唐使を送った8世紀にあっては、唐に滅ぼされて取って換わられた隋の時代に渡った人々が、日本書紀でいう「中ツ国」と称し今も中国地方と呼ばれる岡山に集団結束していて、
この一大勢力を、郭務ソウは、トウはトウの発音でも「桃」の字をあて、己れらはトウはトウでも「藤」の当て字をもってして、同じ中国人どうしでも張りあっていたのだから、唐側で倭と日本と二分したのも有りうる事である。
 唐の鑑真和尚来日のとき「桃輩(原)」として彼らを通訳に使ったのである。江戸期まで「隋隋ずっころばしゴマ味噌ズイ」の蔭口は童唄として残されている程である。
これは唐が隋を滅ぼしたことへの優越感と、馬鹿にした伝承童謡なのである。最後に、この考察を補強する意味で「桃太郎伝説」の真実を以下に記しておく。



桃太郎伝説 御伽噺から見える日本史の真実 
 



 むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。
 おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へせんたくに行きました。
 おばあさんが川で洗濯をしていると、ドンブラコ、ドンブラコと、大きな桃が流れてきました。
「おや、これは良いおみやげになるわ」
 おばあさんは大きな桃をひろいあげて、家に持ち帰りました。
 そして、おじいさんとおばあさんが桃を食べようと桃を切ってみると、なんと、
中から元気の良い男の赤ちゃんが飛び出してきました。
「これはきっと、神さまがくださったにちがいない」
 子どものいなかったおじいさんとおばあさんは、大喜びです。
 桃から生まれた男の子を、おじいさんとおばあさんは桃太郎と名付けました。
 桃太郎はスクスク育って、やがて強い男の子になりました。
 そしてある日、桃太郎が言いました。
「ぼく、鬼ヶ島(おにがしま)へ行って、わるい鬼を退治します」
 そして、おばあさんにきび団子を作ってもらうと、鬼ヶ島へ出かけました。
 旅の途中で、イヌに出会いました。
「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」
「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」
「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。おともしますよ」
 イヌはきび団子をもらい、桃太郎のおともになりました。
 そして、こんどはサルに出会いました。
「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」
「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」
「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。おともしますよ」
 そしてこんどは、キジに出会いました。
「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」
「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」
「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。おともしますよ」
 こうして、イヌ、サル、キジの仲間を手に入れた桃太郎は、ついに鬼ヶ島へやってきました。



 鬼ヶ島では、鬼たちが近くの村からぬすんだ宝物やごちそうをならべて、酒盛りの真っ最中です。
「みんな、ぬかるなよ。それ、かかれ!」
 イヌは鬼のおしりにかみつき、サルは鬼のせなかをひっかき、キジはくちばしで鬼の目をつつきました。
 そして桃太郎も、刀をふり回して大あばれです。
 とうとう鬼の親分が、
「まいったぁ、まいったぁ。こうさんだ、助けてくれぇ」
と、手をついてあやまりました。
 桃太郎とイヌとサルとキジは、鬼から取り上げた宝物をくるまにつんで、元気よく家に帰りました。
 おじいさんとおばあさんは、桃太郎の無事な姿を見て大喜びです。
 そして三人は、宝物のおかげでしあわせにくらしましたとさ。お終い。
 
これが、一般的な物語の筋書きである。

桃太郎は善で、悪いやつは鬼と言うことになっている。
だがこれは善玉と悪玉が完全に逆になっている。
 
 さて、ここからこの面妖な昔話を解剖すると、日本で「中ッ国」と呼ばれるのは現在の中国地方の岡山。
中国大陸で隋を滅ぼした唐が朝鮮半島の百済も滅ぼした。

 この当時の日本は百済人が立てた奈良王朝時代である。百済人たちは「朝鮮半島本国の一大事」とばかりに、
二万七千とも三万人とも言われる日本原住民をかり集め、派遣軍を半島へ送り込んだが白村江の戦いで大敗する。
これは学校でも教えている有名な史実である。
が、此処からが日本史では隠されているが、真実は以下のようになったのである。


 勢いに乗って唐の軍勢は、九州から本州へと進軍した。
そして唐を「籐」と替字し「藤原氏」と称した。この時代を平安時代という。そして当時から「ズイズイズッコロバシゴマ味噌ズイ」と
今も童歌に残るように、日本にも唐が滅ぼした隋の人間は沢山来ていたので、彼らには同じトウでも「桃」の字を充てて区別していた。
(昔の日本は四季のはっきりとした、公害も無く、まして岡山地方は美しく住みやすく、黄塵の吹き荒れる大陸人にとってはこの世のパラダイスとも写ったろう。だからこれを「桃源郷」という)

 だから占領軍である桃(唐)から生まれた桃太郎は凛々しい貴公子で、偉い様なのである。
当時のことゆえ、吉備で獲れたキビを与えたとも考えられるが、おそらくはコウリャンだったろう。

新羅系の猿(サルリ、サルメ)、高麗の犬(コマイヌ)、百済の偵察を意味する雉、キージーに食料を配給して、
隠忍(オニ、鬼)と呼ばれていた、我ら御先祖の日本原住民(唐体制に従わぬ民)を討伐し、彼らが生産していた穀物や干魚、荒塩などを、宝物として略奪してきた、という話なのである。
こうした真実を教えないで、幼児時代から一般庶民の洗脳教育に童話の絵本が広まってる。
原住民の内でも、どんな体制にも従わず、河川、海浜や山奥に家族と一緒に逃げ回っていたサンカ族は、この国には多くいて、
サンカが特に多く住むと言う東海地方は太平洋戦争後、昭和30年代でも大人は、桃太郎の絵本などは絶対自分の子供に見せないし「わしらの頭に、角が生えているか・・・・・」と、本当の意味は判っていたらしい。


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