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弁護士・元ロースクール教授宮武嶺の社会派リベラルブログです。

安倍・高市「電波停止発言」を支持する者は、ヘイトスピーチ規制法・人権擁護法に反対する資格がない。

2016年03月07日 | 外国人の人権・人種差別反対・嫌中嫌韓反対

差別,侮辱,排除の言葉の暴力を,路上やネット上で撒き散らすヘイト・スピーチは,表現の自由として守られるべきなのか.深刻な被害は,既存の法や対抗の言説では防げない.悪質な差別の法規制は,すでに国際社会の共通了解だ.各国の経験を振り返り,共に生きる社会の構築へ向かうために.


ヘイトスピーチの定義(師岡康子著 「ヘイトスピーチとは何か」より)

ヘイトスピーチとは、広義では、人種、民族、国籍、性などの属性を有するマイノリティの集団もしくは個人に対し、その属性を理由とする差別的表現であり、その中核にある本質的な部分は、マイノリティに対する『差別、敵意又は暴力の煽動』(自由権規約二〇条)、『差別のあらゆる煽動』(人種差別撤廃条約四条本文)であり、表現による暴力、攻撃、迫害である。


 

 高市総務相が放送法4条に基づき、公平でない番組を放送したものに対する電波停止処分をすることを繰り返し明言し、安倍首相もこれを支持しています。

 放送内容に踏み込んだ放送法4条はもともと表現の自由に対する侵害の危険性が高く、違憲性の可能性が強いとされています。

 それを、合憲限定解釈と言って、せっかく立法府が作った法律だから、むげに違憲無効としないでおこうということで、これは倫理規定、努力義務にすぎず、公権力が放送内容の公正を放送局に義務付けるものではないのだと解釈するのが、憲法と放送法の通説になっています。

なぜ放送法4条は倫理規範なのか(どうして総務大臣の電波停止・業務停止は許されないのか)。

 

 つまり、放送法4条は電波法74条の違反したら電波停止にできる「法律」や、放送法176条の違反したら業務停止にできる「法律」に入らないのです。

 なぜなら、放送局は放送法4条では法的義務を課されておらず、法律違反という問題を生じないからです。

 この点、保守派が100万回、「法律」に書いてあるから法律違反なら電波停止にできると言い募っても、全く意味はありません。放送法や電波免許制度の上にあるのが憲法であり、憲法に違反するような解釈・運用をすれば、そちらが違憲無効なのですから。

安倍首相が答えられなかった「表現の自由の優越的地位」と、高市総務相の電波停止発言の関係。

表現の自由と第三者機関 (小学館101新書)
清水 英夫  (著)
小学館

表現の自由、言論の自由は尊重されなければならないが、一方で名誉毀損、人権侵害などメディアによる問題事例が後を絶たない。また、損害賠償額の高額化によるメディアの萎縮など、言論の自由が危ぶまれる状況に陥りつつある。長年、新聞、放送、出版、映画などの世界に関係してきた著者は、表現の自由を守り抜くためには、いまこそ第三者機関による公正な判断とメディアの透明性、説明責任が必要であることを訴える。

 

 

 さて、放送局に公平無私な放送を求め、それができないのなら電波停止にしろと求める保守派の人が、自分たちのヘイトスピーチに対する規制や、自分たちの人権侵害行為を規制する人権擁護法案に反対していることは、全く矛盾した行為です。

 私は差別的表現にも表現の自由はあるという日本の学界の多数説の立場に立っています。

 しかし、今検討されているこれらの規正法は、表現内容に着目して電波を停止させる=表現を一切させないようにする、というようなものではありません。

 せいぜい、法務省の法務局が勧告を出したり、勧告に繰り返し従わない団体の名前を公表したりする程度のことしか規制しません。

 今後はこういう団体に、国・地方公共団体の施設を使わせないという規定の検討もするでしょう。

 しかし、表現をさせないとか、罰則を加えるというようなことまでは検討されていません。

 それでも、ヘイトスピーチや人種差別の規制に反対する人たちは、それだけヘイトなことを言いたいんだということになります。ヘイトスピーチの定義があいまいだなどといいますが、これはきっちり定義されており、公正な放送よりよほど明確です。

 放送局には自由な放送を。そうでなければ自分たちの表現の自由も手放しなさい。

放送局の電波停止問題、政府が統一見解を発表。言えば言うほど余計に憲法違反になっている。

高市総務相が放送法4条違反の放送局の電波停止の可能性を明言。これで「行政指導」も取消訴訟の対象に。

 

 

現在の人権擁護法案では法務局が担当することになっていますが、法務省も、刑務所や検察庁が人権侵害をすることがしょっちゅうあるので、本当は内閣府管轄の独立行政委員会を別に作ることが望ましいです。

それにしても、政府の厳しく批判をするとすぐにヘイトスピーチだという人がいるのですが、上の定義からは全く当てはまらないことがわかります。

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参考記事

 

自由って何だ? SEALDsとの対話(3) ヘイトスピーチは社会の害悪 声を上げよう

投稿日: 2016年03月05日 12時21分 JST 更新: 2016年03月05日 12時27分 JST

「民主主義をつくる」は、
巻頭論文
②「自由って何だ? SEALDsとの対話」 1 2 3(本記事)
③五百旗頭真・熊本県立大理事長インタビュー

の三つで構成しています。

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語り合う齋藤純一さん(左から2人目)とSEALDsのメンバー

◆SEALDsからの出席者 千葉泰真(ちば・やすまさ)/元山仁士郎(もとやま・じんしろう)/今村幸子(いまむら・さちこ)/是恒香琳(これつね・かりん)/安部さくら(あべ・さくら)/大高 優歩(おおたか・ゆうほ)山本雅昭(やまもと・まさあき) 

◆齋藤純一/早稲田大学政経学部教授(政治理論・政治思想史専攻) 

◆司会 松本一弥/朝日新聞WEBRONZA編集長(末尾に参加者の略歴を掲載)
 
 

 

「自分と違う意見に出会うのは大事だけど......」


松本 前回は、「他者との交わりの中にこそ自由があるのではないか」という話が出ました。その中で、他者の話に耳を傾けることの大切さも指摘されましたね。

是恒 他者の意見を聞くって、むずかしいことです。齋藤先生の著書「自由」にフィルタリングの話が出ていましたが、フィルタリングという単語で、どうしても私が思い出してしまうのはSEALDsのツイッターで最近起きていた争いのことです。

SEALDsの公式ツイッターアカウントは、フィルタリングをかけているんですね。要は「一斉ブロック」なんですけど。フィルタリングをかけることで、嫌がらせアカウントを排除できるんです。でも、フィルタリングをかけること自体に対して、いろんな方向の人たちから、「排他的だ」という批判がありました。

松本 少し長くなりますが、齋藤さんの「自由」から該当箇所を紹介しておきましょう。(以下、引用)

「今日広汎に看取されるのは、他者から自らを引き離し、他者との交渉それ自体をできるだけ回避しようとする、そのような態度である。他者との交渉の回避を助長している条件として重要なのは、現代の情報テクノロジーのもとでは、そもそも他者に出会わなくても済むような環境を構築することが容易になっているということである」 

「自らの欲しない情報を前もって排除する行動は、しばしば『フィルタリング』と呼ばれる。それは、膨大な情報が自らに与える負荷を軽減しようとする点では合理的な行動であり、関心のいたずらな拡散を避け、自らが対応できる問題をある範囲に絞り込むという点では倫理にもとづく行動であるとすら言うこともできる。しかし、他面では、そのように予(あらかじ)めなされる自己排除の行動は、自らの欲しない情報に人びとが受動的に接する機会を減少させ、自らとは境遇や生き方を異にする他者に接する回路を自ら閉ざしていく効果をもつ」 

「たしかに他者との出会いは、つねに悦(よろこ)ばしいものとは限らず、自らの生に負荷をかけるものでもある。私たちは、他者のおかれている状況を眼にすることによって、彼/彼女たちがかかえている困難とそこから(潜在的には自らに向けて)発せられている必要や要求に曝(さら)されるし、自らとは相反する価値や利害をもつ他者に接することになるだろう」 

「そうした否定的な経験の可能性を『フィルタリング』を用いて予防的に締めだしうるとすれば、それは、たしかに他者の『余計な』干渉に曝されずに済むという点で、自らの自由にとっては非常に有益なことであるように思われるかもしれない。しかしながら、そうしたいわば自己隔離のもとで享受されうる『自由』には大きな損失がともなっている」(引用ここまで)
 
 

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是恒香琳さん(右)と千葉泰真さん

千葉 あのフィルタリング機能には少し問題があって。すごくヘイトなことをつぶやいているユーザーだけをブロックするんじゃなくて、そのユーザーをフォローしている人もブロックされちゃう。だから、まったくブロックする必要のない人もブロックされてしまうということがあるんです。

僕たちとしては、建設的な反対意見ならちゃんと議論したいんですが、やっぱり現実問題として、無限って言っていいほど寄せられてくる誹謗中傷のメッセージに対してどう対処したらいいかとまどっていて。僕たちも人間だから。ひどい誹謗中傷は見たくないですからね。

松本 誹謗中傷の数はすごく多いですか?

是恒 多いですね。蛆(うじ)まみれの死体画像とか、ひどいセクハラ画像とか、悪意しかない合成画像などが送られてきます。あとは、中身のない暴言も少なくない。たとえば「カスカスカスカス」「頭がおかしい、おかしい」みたいな感じ。ツイッター社に報告しても、新しいアカウントを作って延々と繰り返す。ほかの意見も見られなくなってきて、困っちゃったんです。それで、迷惑メール機能みたいな感じで、導入しました。

違う意見に出会うことは、とても大事です。でも、違う意見と出会うって、どういうことなのかなと。中身のない暴言や誹謗中傷なども、はたして「違う意見との出会い」になり得るのか。

齋藤 それはならないでしょうね。

是恒 本当は、そういう嫌がらせを送ってくる人こそ、こちらと出会いたくなくて、排除しようとしているのだと思います。要は、他者の声を抹殺したい人たちが、抹殺するためにやっているんだと思うんです。フィルタリングに関しても、そんなフィルタリングはやめろという署名活動をやっている人たちがいます。その人たちには、私たちが対話を排除しているように見えている。

でも実際は、死体画像や誹謗中傷がいやというほど送られてきて、こちらもやむにやまれずブロックしている側面もあるわけで。もっと繊細に見てほしいんです。でも、それがなかなか伝わらないのが、日本社会の現状です。

ヘイトスピーチは社会全体を悪くする


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齋藤純一さん

齋藤 たぶん、日本社会の問題だけじゃないと思いますけどね。ヘイトスピーチというのは、二つネガティブな面がある。憎悪を投げつける側の者が、自分は表現の自由を享受しているんだけども、相手の表現の自由を奪っているというのが一つ。奪われたほうは本当に傷つくし、表現することに対して臆病になっていく。自分が享受している条件を、相手には否定してしまうわけですから、相互作用もないわけですね。

もう一つは、みすず書房から出ている「ヘイト・スピーチという危害」(ジェレミー・ウォルドロン著)という本に書かれているんですけど、危害や憎悪を与えた相手だけじゃなくて、ヘイトスピーチは社会全体も悪くする。いつなんどき攻撃にさらされるかわからないということになれば、社会全体が安心できない、非常にビクついた関係だけの空間になっていくわけですね。

攻撃されている個人だけが被害を受けるだけでなく、安心してコミュニケーションができるという社会的な公共財産をも同時に壊している。関係を作りだすのではなくて、むしろ関係を閉ざしていくわけですから。

だいたいヘイトスピーチというのは、権力関係の中の発話なんです。要するに、もともと劣位にいる人を、上位の人が「おまえは、劣位にいる人間なんだぞ。ここにいなくてもいいんだぞ、出て行ってもいいんだぞ」と、脅しているわけです。ヘイトスピーチは、そういう権力関係を再生産していくんです。だから、防衛して当然だと思いますよ。いちいち応答しても関係を取り結べませんから。

表現の自由とヘイトスピーチの関係


元山 ヘイトスピーチに対しては法規制のようなものが必要だという議論があるじゃないですか。そのとき、いつも問題になるのが、表現の自由に抵触するんではないかという点。でもいったい、表現の自由っていうのをどのように考えたらいいのかなと思って。

たしかに、何でもいえるというのは、ものすごく表現の自由が擁護されている感じもするんですけど、一方でヘイトスピーチ、さっき齋藤先生がおっしゃったような、他者の発言の自由を阻害する表現だった場合、社会全体をダメにするっていうことになりますよね。そうしたものを法規制することは、はたして表現の自由を規制することになるのか。

表現の自由について、齋藤先生はよく「複数性」という言葉を使われると思うんですけど、表現の自由はその複数性を擁護するためのものと考えたときに、ヘイトスピーチは複数性を減らしていく。だから、表現の自由のもとで、ヘイトスピーチはダメだという議論も成り立つのかなと思っています。

齋藤 それは、うんと大きい問題です。以前、「現れの消去、憎悪表現とフィルタリング」(「表現の〈リミット〉」所収、ナカニシヤ出版)という原稿を書いたのですが、そのなかでも、ヘイトスピーチのひとつの問題は、自分が獲得している条件を、相手には否定するという点にあると書いています。

自分は表現の自由を行使して憎悪表現までしているのに、それを相手が行うことに対しては否定するわけです。これは理不尽ですよね。傷ついた人は本当にしゃべれなくなってしまう。萎縮効果どころではなくて、沈黙させてしまうんです。この点は批判されるべきですね。

松本 「複数性」については注釈が必要ですね。齋藤さんの「自由」から短く紹介しておきましょう。

「アーレントが、複数性(プルーラリティ)を人間の根底的な条件としてとらえたとき、彼女は、たんに価値の多元性一般を擁護したわけではない。彼女のいう複数性は、一人ひとりが他の誰ともー過去・現在・未来の誰ともー異なる、唯一(ユニーク)の存在である、ということを含意する。彼女が強調するのは、一人ひとりがこの世に誕生するたびに、一つひとつの新しい『世界』が私たちの共有する世界(『共通世界』)にもたらされるということである」
 
 

 

「聞く」ことはむずかしい


齋藤 「複数性」についてですが、以前に「他者の声を聞くことが民主主義だ」という話が出ましたよね。しかし、そもそも「聞く」という行為はほんとうにむずかしいことです。自分に利害関係がない場合はとくにむずかしいと思います。

例えば、沖縄の問題。沖縄の基地問題などについては、おそらく10万回以上耳にしているはずなのに、他県の人たちにとっては、自分に関わる問題として受け止められないということがずっと続いている。アイリス・マリオン・ヤングというアメリカの政治哲学者が「100万回いってもわからない」と発言していますが、やっぱりそういうことなんだと思うんです。

ヤングは、集団代表ということを述べています。つまり、少数者に議席を与えて発言させるということです。少数者による批判に対して、アカウンタビリティー(説明責任)をとらせるわけですね。

アカウンタビリティーというのは、一通りの説明を与えることではなく、自分でこの法案を通します、ということの正当化理由を提起する。それについて議論が喚起されて、理由を挙げた異論が返ってくる。その異論に対して、理由を挙げて答えていくというのがアカウンタビリティーなんです。

結局、少数者というのは数の力がない、お金の力もない。となると、何が交渉力になるのかというと、やっぱり、なぜ反対するのかという「理由」しか交渉力がない。だけど、理由だけでは太刀打ちできないから、まわりの人が応答したりメディアが取り上げたりして、声を拡張するなかでしか闘えないわけですよね。

表現の自由に対してはやはりできるだけ寛容でなければならない、規制を加えてはいけないと思います。それがベースなんだけど、ヘイトスピーチのような声に対しては、ちょっとキツイというか、uncivil(不作法)な方法をとることも時にはありえる。相手との関係を壊そうとするようなヘイト的な発言に対してこちらが消耗戦でずっと闘うということはムリだと思います。

マイノリティーの言葉を引き出すサポートが必要


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是恒香琳さん(左)と今村幸子さん

元山 一方で、齋藤先生が「公共性」(岩波書店)に書かれていたように、そういったマイノリティーの人たちが、どの程度うまく自分たちの置かれている現状を言葉にできるかという問題もあるように思えます。たとえば、その現状を議会で問題として俎上(そじょう)にのせるときにうまくいくかどうかは、現状ではかなりむずかしい。つまりマジョリティの人たちと手を組んだりすることが必要になるように思うんです。

でもそういうときに、マジョリティーの人たちはマジョリティーの人たちで、彼らの利害関係にかかわることを、ある種、代表することが求められる。このことについて、さっきのお話、たとえばSEALDsは誰を代表しているか、していないのかにも関わるかなと思ったんですけど。その点はどう考えればいいでしょうか。

齋藤 どう考えればいいでしょうね。実際にいちばん問題に直面していて、そうした資源がない人々、社会関係資本もなければ、孤立している、それこそアーレントの言葉でいえば「フェアラッセンハイト」(見捨てられた状態の孤立)、あらゆる関係の中から遠ざかってしまっているところに置かれている人々が、どうやって自分の意見なり観点を代表ルートに乗せていけるか。

それは独力ではもちろんむずかしいわけですよね。自分で言葉を獲得して、というとかっこいいけども。それは周りの人のアクセスがあって、その人の言葉を少しずつ引き出していくという長いプロセスが必要なんだと思います。

実際に、従軍慰安婦の人たちが、カミングアウトして語り出すためには、かなり時間をかけたサポートが必要だったわけで、ここで語っても大丈夫、ここでは安心して語ることができるという空間を作っていったわけです。

それはひとつの公共圏だと思うんですけど、予備的な公共圏というか。それがないと、実際にマイノリティーの観点が代表されるとか、その言葉に耳が傾けられるチャンスが作られるかというと、それはなかなかむずかしい。やっぱり周囲から働きかけてバックアップするというか、マイノリティーの人たちの声に耳を傾けられる空間を作っていかないといけない。

ヘイトスピーチはマイノリティーの言論を封鎖する


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安部さくらさん(左)と大高優歩さん

安部 私もヘイトスピーチのデモの現場に行ったことがあるんですけど、心がめっちゃ疲れました。自分がヘイトスピーチの対象になっていなかったとしても、すごく嫌な気持ちになる。社会を悪くするっていうのは、本当にその通りだなと思いました。

だから、ヘイトスピーチの現場を見て、それに触れたときに、マイノリティーの人がかわいそうだから声をあげるとか、そういうことじゃなくて、自分がいやだから、こんな社会が許されているのがイヤだから声をあげるんです。一個人としてこの状況が許されないと思う人が増えてほしいし、これおかしいだろって言える人が増えないとダメだなって思うんですよね。

齋藤 そうですね。

大高 僕も何度か、ヘイトスピーチのデモに参加したことがあって。

是恒 カウンター側(ヘイトスピーチに反対・対抗する側)だよね?

大高 もちろん、カウンターで(笑)。もちろん、もちろん!

一同 (爆笑)

大高 ヘイトスピーチはやっぱり暴力に近いわけですよ。そういったものは弱者を追いつめている。弱者を、より弱者にしてしまう原因だと思うんですよ。なぜ弱者の意見を求めているかというと、その人たちの意見が正しいこともあるからですよね。もちろん、マイノリティーだから正しいわけではないし、マジョリティーが正しいこともあるだろうし。

ただ、マイノリティーの意見を引き出すのは、すごく努力をしないと、なかなか拾いづらい。そうした声を拾おうと努力していても、ヘイトスピーチのような暴力が存在すると、とたんにふりだしに戻ってしまう。今までの努力が水の泡になってしまうような気がするんです。

ヘイトスピーチを規制したり、撲滅したりすることが言論の自由に反しているという人もいるけど、じゃあ彼らは、マイノリティーの言論の自由を侵害していないのか、といったら侵害している、というふうに感じます。

齋藤 さっきの話と関係するんですけど、アメリカはたしかに自由を重んじる側面もあって、クー・クラックス・クラン(白人至上主義団体)な表現の自由すら認めている。ある意味、原理主義的な表現の自由ですけどね。一方でドイツなどは、ご存じのように表現の自由に対して規制をかけています。

私も、表現の自由に規制をかけていいと思うんだけども、京都で行われた在特会に対する判決(注)を見ていると、結局、これは許されない表現、これは人格権を傷つける表現、これはちがう、といのが司法の判断にゆだねられることになるんですね。

(注):京都朝鮮第一初級学校(現・京都朝鮮初級学校)を運営する京都朝鮮学園が「在日特権を許さない市民の会」(在特会)と会員ら9人を相手取り、学校周辺での街宣活動の禁止や計3千万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が2013年10月、京都地裁であった。

裁判長は、街宣活動について「著しく侮辱的、差別的で人種差別に該当し、名誉を毀損(きそん)する」として計1226万円の賠償を命じた。また、同学校の移転後の新校舎付近で、新たな街宣活動を差し止める異例の判断も示した。

これに対し、在特会と会員らは大阪高裁に控訴したが、大阪高裁は2014年7月、在特会側の控訴を棄却し、一審・京都地裁判決を維持した。また、最高裁第三小法廷は14年12月、在特会側の上告を退け、大阪高裁判決が確定した。

齋藤 アメリカのフェミニストでジュディス・バトラーという人がいるんですが、彼女は司法判断ではなくて、もっと政治的に戦っていく必要があると言っています。これは憎悪的な表現だ、暴力的な表現だと思ったら、そういう表現をする人たちに対して「これは、おかしい」と発言していく。

そういう政治的な闘いで同時に対応していかないと、司法判断だけに頼ると、検閲権を強めることになってしまう。それはやっぱり、長期的に見ると、社会の萎縮効果を生みます。こういうことを言うと人格権を否定することになってしまうかな、みたいなね。それで、あまり不作法なことは言えなくなってくるんです。そういう状況は、よろしくない、と。

法の力以前に、市民の力で変える


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是恒香琳さん(右)と千葉泰真さん

是恒 ヘイトスピーチに関しては、私の自由の問題じゃないし、どうでもいいやって思っちゃっている人は多いと思います。

あと、マイノリティーの方々の代弁という問題。いわゆるカウンターっていうのは、代弁者というより、目の前で行われている暴力に対して、「暴力はダメでしょ」っていうあたり前の反応を示すということなのかなって。べつに誰かの代弁者なんじゃなくて、目の前で誰かを殴っている人がいるから。ある意味、ヘイトスピーチは言葉で相手を殴っているんですよね、そういう暴力行為に対して、「この社会では許されませんよ」と声を上げる。そういうことなのかなと思っているんです。

誰かの代弁者として問題を引き受けたというよりは、代弁ではなくて自分自身の自由のため、というか。自分が突然、そういう理不尽な暴力をふるわれたら嫌だから。たとえば、「女なんだから、だまっていろ」というヘイトスピーチを自分が受けたとするじゃないですか。それをやられたらいやだから、そういう暴力はとにかくやめましょうという、ごく単純なこと。

初期の段階で、カウンターに対して「私たちのことなんてわかってないくせになんだ」という批判があった。たしかにあなたの代弁者にはなれない。でも、あなた自身のことがわかっているとかわかっていないとか、そういうことでもない。これは私自身の問題なんだ、と。今では、そういうカウンターの立場が伝わり始めていると思うんですけど、いまだに伝わってない人には、伝わっていないのかもしれません。

松本 みなさんは弁護士の師岡康子さんが書かれた『ヘイトスピーチとは何か』(岩波新書)という本を読みましたか? 師岡さんはこう書かれています。

「ヘイトスピーチとは差別であり、まず、そして何より考えるべきは、差別によりもたらされるマイノリティ被害者の自死を選ぶほどの苦しみをどう止めるかということではないだろうか。未だ多くの議論が差別の実態を離れた机上の空論になりがちである現状に対しては、要点がずれていると言わざるをえない」 

「筆者も表現の自由は、歴史的にも現在も、差別のない社会を作るために極めて重要であると考えている。しかし、そもそも人権は、すべての人が人間として平等であることを前提としている。自由は、平等がなく、特定の人にだけ認められている場合には、人権ではなく特権である」
 
 

また、私は憲法学者の奥平康弘さんがお亡くなりになる前にインタビューをしたのですが(月刊「Journalism」2013年11月号、朝日新聞社)、その中で奥平さんは、国家権力が出てきて規制をすることに対して否定はしないんだけど、その前に市民社会がやるべきことがあるんじゃないか、と。そこに賭けないでどうするんですかという意見でした。(以下は一部を引用)

松本「『今の状態を打開するためにも、何らかの対応策が必要だ』という指摘をよく聞きますが」 

奥平「ただ、ではどうしたいいのかという問題ですが、便利な言葉で、それ自体が多義的な言葉ではあるけれども、やはり『文化力』の問題が問われる段階なのではないかと僕は思います。つまり、僕たち市民の側に任されている問題であり、市民が取り組むべき課題だということです。(中略)

ここでいう『文化』の中には、権力にかかわる法律のありようや、法適用のありようというものも当然入らざるを得ないわけで、およそ国家が前面に出てくるのはおかしいとか、彼らの行動を抑制してはならないということではありません。国家が、あるいは地方公共団体が、端的にいうと警察が出る幕というのは、将来的にはないことはないかもしれないという気はします。彼らを見れば、その行動は何らかの形で抑制されるべきではないかと僕も考えてはいるのですが、ただ法的規制に頼る前に、やれることがまだあるのではないでしょうか」(引用ここまで)
 
 

松本 つまり、広い意味での「文化力」で踏ん張ることなく、法規制で一気に取り締まっていく、というのは別の意味で危ういのではないかという問題意識であり、危機意識ですね。

権力を持たない者の言論を守る


元山 SEALDsと在特会が並べられて報じられたことがあるんです、新聞記事で。SEALDsがやっていることも、もちろん表現の自由だということで、恩恵を享受してやっていることだから、僕らはべつに、安保法制に賛成だという人の言論の自由を奪おうとは思わない。やはり、対話をしていくべきだ、というのはSEALDsのウェブサイトに掲載しているステイトメントにも書いてあります。

表現の自由を自分たちも享受しているんだから、他者にも認めるということは延長線上にあることだと思うんですよね。だからヘイトスピーチに対しては、SEALDsのメンバーの中にも、カウンターとして参加している子も多くいますし、その問題に関してはすごく関心があるんですよね。SEALDsとして、ヘイトスピーチがどうってことを訴えてはいないんですけど。

是恒 ツイッターで、時々、「おまえらがやっていることは安倍首相に対するヘイトスピーチじゃないか」っていうのを見かけるんですよ。

齋藤 どういうこと?

今村 ヘイトスピーチの意味を正しく認識していない人がいて、批判は全部、ヘイトスピーチだと思っている人がいるんですよね。差別を扇動したり、差別意識によってできた表現がいわゆるヘイトスピーチなんですけどね。安倍首相に対して、「この政策、よくないですよ」とかいうのは、べつになんの差別でもないじゃないですか。でも、ヘイトスピーチに対する認識のズレや乱用が、問題をややこしくしていると思います。

元山 それこそ、「忘却の穴」にSEALDsがやっていることを落とし込めようということなんじゃないかなと思いますけど。SEALDsのスピーチもヘイトだということで、ぜんぶ一緒にして。

齋藤 さきほども話したように、弱い側もある程度、不作法にやらないといけない時だってあるわけですね。一緒に対話しましょうとやっても、相手がすでに権力を持っていて、こちらのいうことに耳を傾ける用意はない、対話のテーブルにのってくれるわけではない時のように。

場合によっては、相手、つまり権力者を辱めるような言葉をいったってやむをえないわけで。権力関係のなかで、相手がどういう立場にあるか。それがやっぱり重要なんじゃないでしょうか。

今村 権力関係、という話でいうと、表現の自由は、たとえば政府が上だとして、市民が下だったとしたら、政府から検閲などで封じ込められやすいから、市民の政治に対する批判といった表現の自由は、本当に慎重に守られるべきだということになった。

だから、ヘイトスピーチをしている人たちが表現の自由だからいいだろう、いいだろうというのは、権力関係でとらえていうと、強い立場の人が弱い立場の人に対していっている形になっているので、表現の自由というものが生まれてきた歴史的な意味からもおかしいのかな、と思う。

自由をどこまで認めるか


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齋藤純一さんの「自由」を手に持ちながら議論する

是恒 抗議行動に、毛沢東の写真を掲げる人が来たことがあって。私、「やめてください」と言ったことがあるんです。

齋藤 それはなんでやめさせたの?

是恒 そこなんです。なんで「看板を下げてください」って私はいったのか。そのことをずっと考えていたんです。

今、現時点での答えというのは、そこに「悪意を感じた」からです。私たちがみんなでいっしょうけんめい〝場〟をつくって声を表そうとしているときに、毛沢東の看板を掲げている人は、あきらかにその表現というものを貶(おとし)めて台無しにしようとしていると思いました。だからあのとき、やめてくださいって言ったのかな、と。

そのころ、ネット空間では「SEALDsは中国の手先」「反日工作員」というデマが盛り上がっていた。本気にしている人もいました。だから、その人も、「デモで毛沢東の写真を掲げているやつがいる。やっぱり工作員だ」と自作自演をしようとしていると思ったんです。

国会前の空間を作るのって大変なんですよ。社会に声を届けるためには、その下準備が必要で、準備にすごい時間がかかっている。みんなが大汗かきながら、トラメガ(拡声機)を運んでいって、場をつくって、っていうその一連の準備段階を経て、はじめてやっと社会に自分たちの声を響かせることができるんです。

松本 具体的にはどんな準備をするんですか?

是恒 具体的には、まず警察や他の団体とのやりとりがあったり。当日はレンタカーに、みんなでヨイショヨイショとトラメガや看板を運んでいって。これが大変なんです。まだ暑かったし。もちろん、看板も作らなきゃいけない。トラメガも10個くらい電池が必要なんですけど、電池がすぐに切れちゃうから、始まる前に一個、一個、確認するんですよ。声が入るかどうか、入らなければ電池を交換するんです。その作業って、すごく時間がかかるんですよね。そういう作業をして、場を作って、はじめて声が響き始める。そういうところに対して......

元山 タダ乗りして......

是恒 タダ乗りっていうか......。その人に、「おまえたちは自由を認めてないのか。こちらだって表現の自由があるんだ」って、その場でいわれたんです。そのときは、一瞬、「そうだよな、悪意のあるなしは別として、毛沢東の看板を掲げたいといっているのに、やめてくださいといっていいのかな。うーん、どうしよう」と悩んだんです。最近は、彼がやろうとしていたことは、人の声をかき消そうとする行為だったからだと思っているんですが。齋藤先生のご意見をうかがいたいです。

齋藤 是恒さんの話の通りなのかなと思う一方で、SEALDsは、問題の投げかけや、問題について考える機会を自ら封じないというならば、マオイスト(毛沢東主義者)でもないのに毛沢東の写真を掲げることで、デモをしているSEALDsを中国人のように見せようとしたんだろうけど、仮に、そういう映像が流れたとして、人々はどういうふうに判断するか、見届けてみるのもありだったかもしれない。

まあ、現場にいると、いろいろ準備をして、ようやくここまでこぎ着けたのに、それを空振りさせようとしているのは許せない、というのはよくわかるんだけども。

(撮影:吉永考宏)

 

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6 コメント

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何でもあり…という事ではない! (リベラ・メ(本物の))
2016-03-07 16:46:07
政府与党の発言や態度自体が、国民に対するヘイト!
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Unknown (ラッキー)
2016-03-07 18:36:57
【日本国憲法第21条】
1. 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2. 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

憲法違反でしょう。
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  (AS)
2016-03-07 21:22:00
“不寛容にまで寛容である必要はない。寛容であるべきは寛容に対してのみ”という言葉を最近知りました。
レイシストやヘイトスピーチを、維持擁護されるべき思想・良心・言論・表現の自由の範疇に含めてはいけない。
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Unknown (大阪在住)
2016-03-08 00:04:15
「氏ね、頃せ」等と個人に対して発すれば刑法に触れるような言葉を公の場でわめき散らすデモやそういうことを行う団体に対して、権力が表現の自由を制限する事は間違いではないと思います。
それと同じで公共の電波を使って上記の様な主張を一方的に流す放送局があるなら停波もやむを得ないでしょう。
この手の話はイデオロギーで是非を判断したがる人達が多いように思いますが、左右どちら側であっても公共の場でのそれにはある程度の制限があっても問題ないと思います。
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Unknown (大阪在住)
2016-03-08 00:06:19
二重投稿になっていれば途中送信のものを削除願います。

申し訳ありませんでした。
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Unknown (とら猫イーチ)
2016-03-09 10:15:09
 米国では、KKKの支持を拒否しなかったことで、大問題になっているトランプ氏ですが、英国では、入国拒否署名が多数に上り、議会で審議されました。 結果は、入国拒否には至りませんでしたが、「ビジネス大使」を解任され、「名誉学位」まで剥奪されました。

 「【12月10日 AFP】英スコットランド(Scotland)自治政府は9日、2016年米大統領選挙の共和党指名候補争いで首位を走る不動産王ドナルド・トランプ(Donald Trump)氏(69)を「ビジネス大使」から解任すると発表した。英国では、トランプ氏がイスラム教徒の米国入国を「完全に」禁止すべきだと提案したことに反発が広がっており、スコットランドの大学は同氏の名誉学位をはく奪。同氏の英国入国禁止措置を求める署名は、35万8000人を超えた。」

英国でトランプ氏に猛反発、入国禁止求める署名に約36万人 AFP 2015年12月10日 11:51 発信地:ロンドン/英国
http://www.afpbb.com/articles/-/3069734

 ところが、この国では、KKKどころか、ネオナチスと同等の団体や構成員に支持されている人物が首相にまでなっています。

 一体、外国人にどう云えば理解して貰えるのでしょうか。

 大阪でも、彼等のデモは、見かけますし、偶々、外国人と同行していて、あれは何?等と訊かれれば、説明が必要になります。 

 そもそも、ネオナチス並みの団体が公の場で集会をしたり、デモをしたり出来ることが、欧米の人には理解不能ですので、説明には、困ります。 

 まして、彼等の主張等は、理解を超えることで、私も、説明を省きます。 あまりにも、国辱もので、彼等の存在を許していること自体が、国全体の恥のように思われるからです。

 自分の面前で、憲法に依り保障された人権が踏み躙られる現実を観ながら沈黙を強いられることは我慢が為りません。 

 彼等のヘイトスピーチのみではなくて、彼等の存在と彼等の団体そのものを規制することが必要で、それは、憲法の人権規定も許すもの、と信じています。 

  
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