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2308 福井県立歴史博物館「鬼柴田」勝家の実像

福井

福井県立歴史博物館

特別展「鬼柴田」勝家の実像 ~武勇と統治に長けた忠義の臣~
期間:7月29日(土)~9月3日(日)

青井戸茶碗 銘 柴田
釉は淡い枇杷色を呈しているが、一部で青味が表れ、ところどころに釉が飛んで青白い流れとなっている青井戸茶碗の優品。
外箱蓋裏に「「柴田修理従信長公拝領」内箱蓋裏に「柴田修理所持青山家臣朝比奈氏伝来」とあり。
幕末には大坂の千種屋平瀬家に入り、明治36年に藤田家、昭和9年に根津嘉一郎の有するところとなった。
柴田勝家書状(溝口家文書)
(天正十年)六月十日付、溝口勝吉、秀友宛。本能寺の変より8日後の書状で、3日に越中魚津城を落城させた勝家だったが、6日に変の報を受け9日に居城・北庄城へ戻っていた。
高浜城主・溝口秀勝は当時、丹羽長秀らと共に四国攻めの為大坂に駐留しており、勝家は高浜城留守居の勝吉・秀友を通じて大坂の丹羽長秀等と連絡を取ろうとしていたようだ。
内容は「丹羽長秀が大坂で津田信澄を殺害したのは適切でした、明智光秀は近江に居ると聞きます。諸方面が連携して、急ぎ討ち果たすべきです」とある。
津田信澄は織田信長の弟・信勝(信行)の嫡男。明智光秀の娘婿であった為変が起こると織田信孝・丹羽長秀らに光秀との共謀を疑われ、駐屯していた大坂城千貫櫓を攻撃され丹羽家家臣・上田重安(宗箇)によって討ち取られた。柴田勝家は、長秀らによる津田信澄殺害を肯定する事によって連携を強化しようとの思惑があったのだろう。
刀 銘 濃州関住兼見
刃長75.0cm、 天文22年(1553)8月吉日美濃の関住・兼見の作。
新発田藩溝口家に仕えた溝口半左衛門家に伝来した刀。
溝口半左衛門は新発田初代藩主・溝口秀勝の兄弟であった勝吉を祖とする。
勝吉は本能寺の変の時に若狭高浜城の留守居で、その後柴田勝家に仕え賤ヶ岳の戦いで戦死。子の長吉は秀勝に養育され、後に新発田藩家老になっている。

その他柴田勝家所用と伝わる太刀「号 袖切丸]や金幣馬印、柴田勝家・お市の方座像などを拝見。
柴田勝家の菩提寺・西光寺所蔵で久々に拝見できました。

その他常設展示では

脇指 銘 康継弟下坂 正保三年十二月吉日
など拝見できました。
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