モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

実証

2020-05-06 21:48:07 | 教義と聖約
「わたしの言葉はこれまでに実証されたように、その時にも実証される」教義と聖約5:20

実証された神の言葉には何があるでしょうか。
キリストを信じる人であれば聖典の中からその例を挙げるのでしょうが、
主を信じない人はそのような証に関心はなく、信じることもないようです。
自分には関係のないことであり、どうでもいい話… ということなのかも知れません。

「その時に実証される」という言葉の”その時”とはいつでしょうか。
ある人にとっては福音と出会った時、またある人にとっては認めざるを得ない事態が生じた時、
或いは聖典に預言された災いがこの地に及ぶ時、それとも最後の時でしょうか。
それを選ぶのは自分自身です。

「彼らのための猶予の日がこの世的にも霊的にも過ぎ去ってしまった」モルモン2:15
滅んでしまった古代の民にとって「主の言葉が実証された」のは自身の滅びによってでした。



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懲らしめ

2020-05-06 14:15:35 | 教義と聖約
「悔い改めなければ折々に…懲らしめが与えられ」教義と聖約5:19

子どもが過ちを犯したなら親は懲らしめとして罰を与えます。
そのときに子どもが「自分がどのような過ちを犯したのか」を理解できなければ、
子どもは過ちを改めることができず、その懲らしめに意味はありません。

同様に神が人に対して懲らしめを与えるときに、人がその過ちを理解して、
自分に罪があることを認めなければ、その懲らしめは単なる災いになってしまいます。

子どもが過ちを犯したとき、親は子どもへの愛の故に懲らしめを与えます。
その懲らしめによって悔い改めてほしいと願うのです。

子どもは自分の過ちを知り、納得できたときに自分の行いを改めようとします。
そして親の愛を知ります。
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気分次第

2020-05-06 11:09:15 | 今日の一言
まったく同じ事が
やりたいことなら”楽しい”になり
やりたくないなら”面倒くさい”になる



その違いは気分だけなのですが、
その”気分”が本当にややこしくて面倒くさいのです。
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水と霊

2020-05-06 09:45:57 | 教義と聖約
「わたし…を信じる者…はわたしから生まれる、すなわち水と霊から生まれる」教義と聖約5:16

バプテスマとは過去の自分を捨て去り、新たな人として生まれ変わることを意味します。
水のバプテスマは人によって施され、
霊のバプテスマは人の手によらず、神(聖霊)から直接施されます。
その故に「”聖霊による”火のバプテスマ」と呼ばれます。

確認の儀式のことを”火のバプテスマ”と呼ぶことがありますが、
それは”聖霊による”ものではなく、人の手によって施されるものです。

そこでは「聖霊を与える」ではなく「聖霊を受けなさい」と命じられます。
その”聖霊を受ける”ことこそが「聖霊による火のバプテスマ」です。
実際に聖霊を受けた人でなければ、その真の意味を理解することはできないのかも知れません。

キリストを信じて従う者は、人の手によらず、神から直接下されるバプテスマを受け、
真の意味で”神から生まれる”ことができます。

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信じる者

2020-05-06 06:52:30 | 教義と聖約
「誰でもわたしの言葉を信じる者に…わたしの御霊の現われを与えよう」教義と聖約5:16

キリストの言葉を信じる人は生活をその教えに沿ったものに改めようとします。
福音を信じると言いながら生活を改める努力をしないとしたら、
ここでいうところの”信じる者”には当てはまらないかも知れません。

「御言葉を行う人になりなさい…ただ聞くだけの者となってはいけない」ヤコブ1:22
”ただ聞くだけの者”とはどのような人でしょうか。
「聞くだけで行わない人は…そこから立ち去ると、その途端に…忘れてしまう」ヤコブ1:23~

”信じる者”となるためには「忘れない努力」が必要です。
主を信じる者は主の言葉を常に心に思い、その教えに従って行動しようと努めます。
そして御霊は信仰のある(信じて行う)人に注がれます。
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