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モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

聖霊

2020-08-06 06:09:05 | 新約聖書
「聖霊に対して言い逆らう者は…赦されることはない」マタイ12:32

聖霊の働きや役割がすべて分かっているわけではありませんが、
聖霊の役割を理解すればこの聖句の意味が分かると思います。

聖霊は人が主の御心に従うための導きを与えます。
その導きに従うなら(誤解は別として)、主の教えと赦しを受け入れることになります。

罪の赦しは聖霊を通して与えられると教えられています。
それを否定するなら、どこから罪の赦しを受けることができるのでしょうか。

「人の子に対して言い逆らう者は赦される」マタイ12:32
誤解していたパウロや息子アルマの例を見れば、その言葉の通りかもしれません。

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安息日

2020-08-05 06:34:15 | 新約聖書
「人の子は安息日の主である」マタイ12:8

平日はどうしても”この世のことに追われ、それらの事に没頭する”時間が多くなります。
つまり”この世のことが生活の主(メイン)”になりがちです。

安息日には”この世の思いから離れ、福音に心を向ける”ことができます。
つまり”霊的なこと、福音、イエス・キリストを主(メイン)”にすることができる時間です。

主に近づきたいと望む人にとって安息日はこの世のことから離れ、
心と思いを主に向けることのできる一日となります。

それを喜ぶなら心を主の方向から逸らせてしまうものを避けることでしょう。
安息日に”してはならないこと”ではなく、”したいこと”を求めるようになります。

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憐れみ

2020-08-04 06:15:25 | 新約聖書
「わたしが好むのは憐れみであって、生贄ではない」マタイ12:7

「哀れみ」とは”相手の気持ちや身の上を察して気の毒に思い、心を痛めること”です。
哀れみの感情に行動が加わるとき、それは「憐れみ」に変わります。

”気の毒に”と思っている間は「哀れみ」であって、
”可愛そうと思って声をかけてあげたり、慰めてあげる”ときに「憐れみ」なるのだそうです。

微妙な違いですが、相手にとっては大きな違いかもしれません。
聖典には「憐れみ」という言葉が多く出てきますので、主は行動を求めているのでしょう。

気の毒に思っても何もできないと感じたり、
手を差し伸べることをためらってしまうこともあります。

そのような時、祈ることによって「哀れみ」は「憐れみ」に変わるものでしょうか。
祈りを信じる人にとって祈りとは”力のある行動”です。
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くびき

2020-08-03 06:11:03 | 新約聖書
「わたしのくびきを負うてわたしに学びなさい」マタイ11:29

「くびき」は耕運作業などをするときに
牛や馬を正しい方向に進めさせるために頸に付ける器具だそうです。

”主のくびき”とは主の戒めであり、わたしたちが"正しい方に進むための助け"をしてくれます。
主に従いたいと望む人にとって、それは大きな助けであり、喜びをもたらすものですが、
望まない人にとっては”自由を束縛するものであり、苦しみさえもたらす”かも知れません。

福音を信じない人から「この教会の戒めは厳しい」と聞くことがあります。
そのような人には戒めに感謝している教会員を見ると不思議に思えることでしょう。

「そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられる」マタイ11:29
この事を感じているなら「どうすれば”もっとよく戒めに従う”ことができるのか」と考えます。

そのような人にとって戒めは主の愛であり、喜び、望みです。
「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」マタイ11:30
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2020-08-01 06:33:10 | 新約聖書
「知恵の正しいことは、その働きが証明する」マタイ11:19

福音から学ぶのは良いことですが、
その教えは自分の生活をどのように改善してくれるのでしょうか。

わたしたちは時々、教えを学ぶことで満足してしまうことがあります。
正しい知恵を得たとしても、それが行動として表れないなら何の役に立つのでしょうか。

福音の教義に付いて論じ合うことは楽しいものですが、
それが生活に変化をもたらさないとすれば、その価値はどこにあるのでしょうか。

ある人は「善いことを学んでいるのだから、行動も改善されているはずだ」と言います。
では具体的に、どのような働きに、生活のどこにそれは表れているのでしょうか。

「証がない」と感じているなら、知識として学んだことが働きに表れていないということでしょう。
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