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モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

お言葉通り

2020-12-18 06:36:52 | 新約聖書
「お言葉通り、この身になりますように」ルカ1:38

この思いは、「主の道」を歩むために欠くことのできない原則かもしれません。

主の御心が与えられるときに、
「どうして…」ルカ1:34
と戸惑ってしまうことはないでしょうか。

「マリヤはこれらのことをことごとく心に留めて、思い巡らしていた」ルカ2:19
その時には理解できなくとも、
「心に留めて、思い巡ら」すときに、理解が開かれることは多いようです。


クリスマスまで、あと一週間となりました。
クリスマスは、イエスの誕生の物語を思い起こす機会となります。
これからの一週間、イエスの誕生について書いてみようかなと考えています。
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2020-10-05 05:44:45 | 新約聖書
「死を味わわない者が…」マタイ16:28

このテーマは少し重すぎるので、スルーしようかとも考えたのですが…

なぜ人は死を恐れるのでしょか。
死が訪れるときの苦しみに加え、死の後に訪れる世界を知らないことで、
暗闇の中に投げ出されるような恐怖を想像するからかもしれません。

人はなぜ自殺するのでしょうか。
死の恐れよりも”この世で生きることへの恐れ”の方が勝るからではないのでしょうか。

人が死を恐れなくなれば、多くの人が”それこそ気軽に”死を選ぶようになるでしょう。
そうしてみると”死の恐れ”は必要なのかもしれません。

しかし死の恐れ以上に”この世で生きることの価値”を知ることは重要であり、必要です。
キリストの福音はそのことを教えており、
わたしたちはそのことを知ってほしいと望んでいます。
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十字架

2020-10-04 06:30:05 | 新約聖書
「わたしについて来たいと思うなら…自分の十字架を負うて…従ってきなさい」マタイ16:24

わたしにとっての「自分の十字架」は過去のあやまち、罪です。
そのことを思い起こすたびに、心は重くなり、痛みます。

ペテロは「イエスを知らない」と三度言いました。
パウロはキリストを信じる者に迫害を加えました。

彼らはその過去を忘れ、その重荷は消えて無くなったのでしょうか。
それとも彼らにとってその過去は”生涯の重い十字架”になったのでしょうか。

「自分の十字架」を取り去ってもらえるなら、もちろん喜びとなるでしょう。
しかし、その重荷は”キリストに頼る心”を確かなものにしてくれる”いかり”ともなります。

ペテロやパウロがその過去によって強められたことは容易に想像できます。
わたし自身も同様であると感じています。
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ヨナのしるし

2020-10-03 06:07:21 | 新約聖書
「ヨナのしるしの他には、何のしるしも与えられない」マタイ16:4 

ヨナに与えられたしるし(ヨナ書1~4)は奇跡的なものではありましたが、
ヨナ本人にしか分からないものでした。

それに対して、モーセの行った奇跡の多くは、
目に見える、誰もが神の奇跡と認めざるを得ないほどのものでした。

多くの人がモーセの奇跡(誰の目にも見える分かりやすいもの)を求めますが、
わたしたちに与えられる奇跡の多くは「ヨナのしるし」のように、
他の人には見えず、自分自身にしか認められない”霊的なもの”です。

例えば、ジョセフに天父と主が訪れたことは確かに偉大な奇跡ですが、
ジョセフの他に誰がそれを見たのか、誰が知ることができたのでしょうか。

何によって「それが真実である」と証できるのでしょうか。
その証をもたらすものは聖霊であって、
それも「ヨナのしるし」のように個人のみにもたらされるものです。
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時のしるし

2020-10-02 06:00:09 | 新約聖書
「時のしるしを見分けることができないのか」マタイ16:3

夕焼けを見ると「もうすぐ日が暮れて行く」とが分かります。
雨の降る前には湿気を含んだ独特の風が吹きます。

人が怒りを発するときは、表情が変化してきます。
神に従おうとするとき、サタンの誘惑が強まります。

常にそうとは限らないかも知れませんが、
わたしたちはそのような「しるし」を感じながら生活しています。
「時のしるしを見分ける」ことで、来るべきことへの備え、心構えをするのです。

さて、神の言葉が成就するときにそのような「時のしるし」はあるのでしょうか。
聖典の中には預言として数多の「しるし」が示されています。
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