goo blog サービス終了のお知らせ 

モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

聖なる者

2020-07-20 06:11:18 | 旧約聖書
「あなたがたは自らを聖別し、聖なる者とならなければならない」レビ20:7

「神の宮は聖なるものであり、そしてあなたがたはその宮なのだから」1コリント3:17
”自分の内に聖霊が宿る”ことを望むのであれば、自らを聖く保つ必要があります。

「自らを聖別」するために主は聖餐を用意しました。
聖餐は”自らが聖いことを神に証明する”ためにあります。

「主の御名を受け、主を常に忘れず、その戒めを守る」ことで、
わたしたちは自らを聖別することができます。
それが主に認められたときに「主の御霊を受けられる」というのが聖餐の約束です。

「主の御名を受け、主を常に忘れず、その戒めを守る」ことの意味を理解しないままに、
”聖餐を取る”という形だけで満足しているとしたら心配です。
コメント

証人

2020-05-30 06:11:28 | 旧約聖書
「人が証人に立ち…知っていることを言わない…ならば…その咎を負わなければならない」レビ5:1

神の証人になるとは”神について知っていることを証する”ことです。
神について知っていること、聖霊から受けた証を隠そうとするなら、それは罪になるようです。

わたしたちはバプテスマを受けるときに”神の証人になる”と聖約しました。
それは”福音と主の業を証するという誓い”であり、その聖約は生涯続きます。

バプテスマを受けるときにはその意味を理解していなかったかもしれません。
しかし福音を学び、聖約への理解が深まる毎に決心するように求められます。

聖餐を受ける度に”誓約を更新する”のはそのためであり、聖約は常に進化します。
バプテスマのときではなく、今その聖約を交わすことを求められています。
コメント

悔い改め

2020-05-29 06:13:52 | 旧約聖書
「もし人が誤って罪を犯し、主の戒めに背いて、してはならないこと…をした時は」レビ4:1

わたしは自分の罪を感じたとき、つい言い訳をしてしまうことがよくあります。
”犯した罪そのものよりも言い訳の方に悔い改めを必要とする”くらいです。

それは”行動よりも心に問題がある”ことを示しています。
わたしの中にある”生まれながらの人”をコントロールできていないのです。

”生まれながらの人”とはわたしの場合は”感情”です。
自分の感情を抑えることができなくて、過ちを犯してしまうのです。

気付かずに誤って犯してしまった罪であるなら、気付いたときに悔い改めることができます。
気付いていながら自制できずに犯してしまう罪は悔い改めが難しいようです。

さて、どちらの罪がより重いでしょうか。
頭の痛い問題です。
コメント

常に

2020-05-28 06:07:33 | 旧約聖書
「彼らの旅路において常にそうであった」出エジプト40:38

主の業にはいつも一定のパターンがあるようです。
悔い改めるときにいつもそのことを感じます。

悔い改めるとき、まず最初に罪に”気付く”ことから始まります。
次に罪を”認める”ことですが、いつもそこで苦しみます。

一時的には認めても、心の中でその思いが薄れてしまうなら元に戻ってしまいます。
わたしにとって”罪を心に刻む”ことには常に苦しみが伴います。

キリストの手足に釘跡が刻まれるには”大きな苦しみ”という代償が伴いました。
その苦しみは主自身の罪のためではなく、わたしたちの罪のためでした。

そのことが心に刻まれている間は主に従うことができます。
同様に、罪が心に刻まれている間は悔い改めという旅路を歩むことができます。
コメント

命じられた通り

2020-05-27 08:48:12 | 旧約聖書
「主がモーセに命じられた通りである」出エジプト39:1

野球の練習で行うノックは守備範囲のギリギリの所にボールを打つのがベストなのだそうです。
守備練習をする人が「ボールが遠すぎて無理」と感じると
心のどこかで諦めが生じて全力を出し切ることができないと聞きました。

主の命じられることに対して「無理」と感じることがあります。
主は必ず”その人にできること”を与え、それを成し遂げるための助けも与えます。

それを信じて頑張ろうとするのですが、頭ではそのように考えようとしても、
「無理」と感じると心を尽くすことが難しくなります。

そのせいだと思うのですが、何度も挫折を味わって来ました。
”主に命じられた通り”に行えば祝福と喜びがあると信じているつもりなのですが、
主の命じることはいつも”楽ではない”ようです。

「主の訓練を軽んじてはいけない、主に責められるとき弱り果ててはならない」へブル12:5
コメント