切り捨て [宋申錫と文宗皇帝]
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太和五年二月、神策都虞候豆盧著は左神策軍中尉王守澄[宦官]に、宰相宋申錫が文宗皇帝の弟漳王湊を奉じ、即位させようとしていると告発した。
実は文宗が宋申錫と謀議して、宦官達の勢力を削り、特に王守澄を除こうとしたことへの先制攻撃であった。謀議は京兆尹王璠が守澄に寝返ったことからバレていたのだ。
宦官達は謀臣鄭注の案に従い、直接文宗は攻撃せずに、申錫の罪として作り上げたのだ。
守澄はなにもかも知った上で「我々があなたを立てたように、申錫は漳王を立てようとしているのです」と詰め寄ると。
若い文宗はたちまち動揺し「朕はなにも知らぬ、申錫はなにを考えているのか」としらをきった。
守澄はただちに神策軍を派遣し申錫一族を誅殺してしまおうとした。
ところが右軍の幹部飛龍使馬存亮は「他の宰相と協議もしないでは」と同調しなかった。
召された宰相牛僧孺達は逡巡していたが、ろくに証拠のない告発には懐疑的であった。
崔玄亮など諌官達は冤罪を訴え、情勢が不利になってきた守澄達は、申錫の解任と配流
で手を打つことに変更した。
申錫は文宗に裏切られ、解任され流されてやがて死んだ。
*******背景*******
陋劣な敬宗皇帝が遊び仲間に殺されたあと、愚行に辟易した王守澄達幹部宦官は、まともな皇帝を求めて真面目な江王[穆宗次男、敬宗の異母弟]を擁立した。
即位した文宗が真面目に政務をとると、宦官達の横暴が気に入らなかった。
そこで信任する翰林学士宋申錫を宰相とし、宦官を抑えようとした。
ところが申錫が仲間と思っていた京兆尹王璠が守澄と通じていた。
守澄は文宗の忘恩を怒ったが、直接皇帝を攻撃することは憚った。
鄭注の提案により、「俺達はお前以外でも擁立できるのだぞ」と脅しをかける意味から、賢明と言われていた漳王[穆宗の六子.文宗の弟]を持ち出してきた。
文宗は申錫の謀叛などは信じていなかったが、自分達の謀議が宦官達に漏れているのを知って脅え、すべての責任を申錫に押しつけることにした。
宦官達も派閥があり、守澄達は神策軍でも左軍に属しています。馬存亮など非主流の右軍は殺害に同調しなかったわけです。
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