皇太子の役割とは [視膳問安]
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貞元の末、徳宗皇帝は老い、人事は停滞し姑息な政策が続いていた。
現状に飽き足らない少壮官僚達は皇太子[順宗]の周囲に集まり議論を重ねていた。
「特に宮市の件は深刻です、宦官どもの押し買いに民の不満は大きいのです」
「殿下、殿下から直接陛下に申し上げていただけませんか」
「そうだな、民の切実な願いだからな」と太子
「よろしくお願い致します、さすがは殿下だ」と若手官僚達が喜ぶ。
しかし待詔の王叔文だけはずっと沈黙していた。
やがて官僚達は下がっていった。
太子はいつもは多弁な叔文が黙っているのが気になっていた。
「おまえはこのことに反対なのか」
叔文は答えた
「宮市の件に異論があるのではございません」
「太子が陛下に建言されるのを危ぶんでいるのです」
「太子の地位は高貴ではありますが、なんの実権もございません」
「その役割は視膳問安に限られております」
「即位されるまでは御自重なされませ、誰が穴をほるかわからないのですから」
太子はハッと気が付いた。
「おまえだけが、私のことを考えてくれているのだな」
叔文に対する太子の信任はこれより重くなっていった。
*******背景*******
德宗皇帝はもともと狷介で好き嫌いがはげしかったが、奉天の役の後はその傾向が強くなり、
貞元中期以降は官僚人事も節度使人事も停滞し、宰相もことなかれ主義の者達だけが任用された。
当然その弊害は累積し、若手官僚は不満をつのらせていた。
貞元二十一年德宗が逝去すると、待望の順宗が即位し、王叔文・王伾・韋執誼など若手官僚達が新政治を始めようとしたが、その時順宗もまた重病であった。
唐朝の皇太子はあくまで次期皇帝候補でしかなく、全期を通じて政務に関与することはない影の存在であり、武宗皇帝以降はほとんど置かれなくなってしまった。
「視膳問安」とは「皇帝の健康を尋ねたり、食事の様子を確認したりする」こと。