唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

大順二年~景福元年 西暦891~2年

2020-08-25 10:00:43 | Weblog
大順二年 西暦891年
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正月庚申,孔緯、張濬罷。
敗戦の責により緯、濬は失脚し、朱全忠の勢力下に逃れました。

正月、羅弘信軍于内黄。丙辰,朱全忠擊之。
全忠は、克用討伐に協力しなかった魏博を討って従えます。

二月乙巳,赦陳敬瑄。丁未,詔王建罷兵,不受命。
すっかり気落ちした唐朝は負担の多い西川討伐を罷めましたが、もう一歩という所まで追い詰めていた建は従わず攻撃を続けました。

七月,李克用陷雲州,防御使赫連鐸奔於退渾。
克用軍は相変わらず強く吐谷渾の鐸を逐い、河東を統一しました。

八月庚子,王建陷成都,執劍南西川節度使陳敬瑄,自稱留後。
建は敬瑄・田令孜を降し[後に殺します]西川節度使として自立しました。

十月、観軍容使楊復恭奔興元。
昭宗は復恭の専権を憎んで排除しようとします。復恭は従わず昭宗側の軍[復恭を裏切った連中ですが]と戦いますが敗れて興元[養子の守亮が節度使です]へ奔ります。

十月壬午,朱全忠陷宿州。十一月曹州將郭銖叛附。辛未,陷壽州。
全忠は東部へ勢力を拡張していきます。


景福元年 西暦892年
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正月丙寅,大赦,改元。

正月、鳳翔李茂貞、靜難王行瑜、鎮國韓建等五節度使上言。
ようは山西の楊復恭・守亮を討ちたいということです。唐朝は茂貞の勢力拡大を懼れて躊躇します。

六月戊寅,楊行密陷揚州。
行密は孫儒を殺し、淮南を平定します。

六月己巳,鳳翔隴右節度使李茂貞陷鳳州,感義軍節度使滿存奔於興元,遂陷興、洋二州。
八月壬申,寇興元,楊守亮、滿存奔於閬州。
唐朝の許可なく、茂貞・行瑜は山西を討って滅ぼします。復恭・守亮は閬州に逃亡します。

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