唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

大順元年 西暦890年

2020-08-24 10:00:55 | Weblog
大順元年 西暦890年
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正月戊子,大赦,改元「大順」

西川ではこの歳、王建が簡.資.嘉.戎.雅.卭.蜀州を陥していきます。

五月,張濬為河東行營都招討宣慰使,京兆尹孫揆副之。
幽州盧龍軍節度使李匡威為北面招討使,雲州防御使赫連鐸副之;
朱全忠為南面招討使,王鎔為東面招討使,以討李克用。
河東李克用は、義武王處存と結びどんどん河北へ進出していきます。宣武朱全忠は河北三鎭の要請を受けて、唐朝[宰相孔緯・張濬]に克用を討つことを提議します。宦官楊復恭は気乗りしませんが、昭宗皇帝は唐朝の権威回復を夢見て克用征討に取りかかりました。河北三鎭・全忠・邠寧王行瑜・華州韓建、鄜坊・夏綏などの雑軍、そして弱体な禁軍が出動します。

五月壬寅,昭義軍將安居受殺其節度使李克恭,河東將安知建以邢、洺、滋三州叛附于全忠。
初動はうまく行きました。克用麾下の昭義軍[潞.邢.洺.磁州]で乱が起きて全忠が占領しました。

七月戊申,李克用執昭義軍節度使孫揆。
ところが克用將李存孝は昭義に赴任しようとした孫揆軍を奇襲して撃破し、揆を捕らえて殺しました。

九月,李克用陷潞州。
閏月,李克用陷邢、洺、滋三州。
克用將李存孝は潞州を攻め、全忠軍を撃破し全失地を奪還しました。

十月、李克用軍は陰地に張濬軍を大破し、雑軍は崩壊しました。濬は晉州城に包囲され追い詰められましたが、克用は唐朝と徹底的に対立することを避けて、濬の逃亡を許しました。

十一月丁卯,李匡威陷蔚州。
克用包囲網といっても河北三鎭は成徳王鎔は貴族化、魏博羅弘信は牙軍の傀儡で、唯一戦力があるのは幽州李匡威だけでした。

十二月、李克用陷晉州。
対克用戦は唐朝の完敗で終わりました。全忠は東部で朱瑄・朱瑾と戦っているため全力は注げず、河北三鎭は威力なく、唐朝は単なる雑軍で、張濬等の時代錯誤による失敗で、完全に権威を喪失しました。

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