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董秀
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前歴出自はすべて不明です。
廣德元年十二月頃
宰相元載は、内侍董秀や主書卓英倩と結び、代宗皇帝の気持ちに把握迎合し、実権を握っていました。
大暦元年頃
隴右行軍司馬陳少游は桂管觀察使となりましたが喜ばず、知樞密董秀に巨額の贈賄を申し出ました。
【
少游は秀が帰宅したのを見計らって夜間に訪問し、いきなり言いました。
「七郎殿=秀の御家族は何人おられ、毎月費用はどのくらいかかりますかな」
秀「帝の信任を得たのはよいけれど、頼ってくる親族も増えて費用がかかって困るのだ。物価も高くなる一方だし、月に錢千餘貫を超えてしまいやりくりが大変だわ」と嘆いた。
少游「正規の給与では数日分にしかなりませんね。あなたのような地位にある方が、やりくりに悩まれて苦労されるのは問題です。あちこちからかき集めるのも面倒でしょうしね。私がすべてお世話しましょう。年に錢五萬貫もあれば足りるでしょう。今ここに大半の錢はありますのでお渡しします。あとは赴任しだい追送しますよ。これで錢の心配はなくなりますよ」と返した。
秀は望外の贈賄の申し出に大いに喜び、少游と友となりました。
少游はさらに言う「公と親しくなれて嬉しいことです。ただ桂管が炎瘴の地であり、またお会いできないかもということだけが残念です」
秀はあわてて言う「あなたのような優秀な方が、桂管のような遠隔地にいくことはない。数日まってくれればなにか良い方策がありますよ」
少游は宰相元載の子仲武にも贈賄していました。
秀と載が運動し,數日後に富裕な宣州刺史宣歙池都團練觀察使に、数年後に越州刺史浙東觀察使に赴任することになりました
】
大暦四年/六年九月、兼檢校國子監董秀は內常侍に昇進しました。
大歷七年、秀は冠軍大將軍.左衛將軍知內侍省事.封魏國公となります。
大暦十二年三月、代宗皇帝は宰相元載の専権ががまんできなくなり、誅殺します。そしてその一党と子弟及主書卓英倩等をも殺し、内廷での共謀者として左衛將軍知内侍省事秀をも誅しました。
次は 程元振です
董秀
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前歴出自はすべて不明です。
廣德元年十二月頃
宰相元載は、内侍董秀や主書卓英倩と結び、代宗皇帝の気持ちに把握迎合し、実権を握っていました。
大暦元年頃
隴右行軍司馬陳少游は桂管觀察使となりましたが喜ばず、知樞密董秀に巨額の贈賄を申し出ました。
【
少游は秀が帰宅したのを見計らって夜間に訪問し、いきなり言いました。
「七郎殿=秀の御家族は何人おられ、毎月費用はどのくらいかかりますかな」
秀「帝の信任を得たのはよいけれど、頼ってくる親族も増えて費用がかかって困るのだ。物価も高くなる一方だし、月に錢千餘貫を超えてしまいやりくりが大変だわ」と嘆いた。
少游「正規の給与では数日分にしかなりませんね。あなたのような地位にある方が、やりくりに悩まれて苦労されるのは問題です。あちこちからかき集めるのも面倒でしょうしね。私がすべてお世話しましょう。年に錢五萬貫もあれば足りるでしょう。今ここに大半の錢はありますのでお渡しします。あとは赴任しだい追送しますよ。これで錢の心配はなくなりますよ」と返した。
秀は望外の贈賄の申し出に大いに喜び、少游と友となりました。
少游はさらに言う「公と親しくなれて嬉しいことです。ただ桂管が炎瘴の地であり、またお会いできないかもということだけが残念です」
秀はあわてて言う「あなたのような優秀な方が、桂管のような遠隔地にいくことはない。数日まってくれればなにか良い方策がありますよ」
少游は宰相元載の子仲武にも贈賄していました。
秀と載が運動し,數日後に富裕な宣州刺史宣歙池都團練觀察使に、数年後に越州刺史浙東觀察使に赴任することになりました
】
大暦四年/六年九月、兼檢校國子監董秀は內常侍に昇進しました。
大歷七年、秀は冠軍大將軍.左衛將軍知內侍省事.封魏國公となります。
大暦十二年三月、代宗皇帝は宰相元載の専権ががまんできなくなり、誅殺します。そしてその一党と子弟及主書卓英倩等をも殺し、内廷での共謀者として左衛將軍知内侍省事秀をも誅しました。
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