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程元振
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京兆の三原の出身です。
若くして宦官となり、內侍省に勤務していました。
內射生使、飛龍廄副使に進み、李輔國の配下でした。
寶應元年建巳月、肅宗皇帝が重病となり、張皇后と輔國が実権をめぐって対立しました。張皇后は輔國を除こうとし、皇太子と結ぼうとして失敗し、趙王係を擁して内廷を制圧しようとしました。それを知った元振は、輔國と共に先制攻撃を加えて、皇后・趙王を殺し皇太子[代宗]を擁立しました。
功績によって左/右監門衛將軍[唐史における左右は極めていい加減です。]となりました。
輔國は増長し、代宗皇帝を傀儡にしようとしました。
寶應元年六月、代宗皇帝の憤懣を知った元振は輔國の軍權・宰相職を奪い、名誉職に祭り上げて内廷から追い出しました。元振が判元帥行軍司馬として軍權を握ります。
寶應元年七月、鎮軍大將軍、保定郡開國公を与えられます。
寶應元年八月、副元帥郭子儀が河東の軍乱を平定し入朝しますが、元振は讒言して副元帥を解任し、軍權を奪います。
寶應元年九月、驃騎大將軍兼内侍監に進みます。進封邠國公。
従わない肅宗山陵使左僕射裴冕を讒言して逐います。
寶應元年十月、雍王适[後の德宗]を天下兵馬元帥として、諸道軍と回紇を率いさせ史朝義を討たせます。代宗は郭子儀を副元帥にするつもりですが、元振と魚朝恩は子儀を警戒し、蕃族出身の僕固懷恩を任命します。
寶應二年正月、山東節度使來瑱を讒言して殺します。軍人達は元振の悪辣さを嫌い、警戒し始めます。
寶應二年六月、同華節度使李懷讓が元振の讒言のため自殺します。
廣德元年九月、吐蕃が侵入してきますが、元振は報告しません。
廣德元年十月
吐蕃が京師近郊まで入寇して来たとき、始めて代宗は知り、脅えて京師を棄てて華州へ奔ります。
後始末は郭子儀にさせますが、子儀は兵力がありません。
吐蕃は二十餘萬で京師を陥して掠奪します。
廣德元年十一月
今までの陰険な元振の政策を憎んで、河南李光弼等の諸将は来援しません。
郭子儀は雑軍を集めて、吐蕃が放棄した京師を回復しました。
さすがに博士柳伉は群臣と共に元振を弾劾し解任を迫ります。
実際は元振が臆病で定見の無い代宗皇帝の政策を代行していただけですが、臣下としてはそうは言えません。すべて元振の責任にするのです。
代宗は自分の責任とわかっているので、元振を厳罰にすることなどできず、解任して郷里を戻します。
廣德元年十二月
不満な元振は京師が回復されたことを知ると、女装して潜入し再任用を求めます。
廣德二年正月
さすがに代宗も処罰するしかなく、一旦溱州へ流しますが、目覚めは悪いので江陵で隠居させます。
元振派の宰相劉晏と、反元振派の李峴も宦官達に憎まれ解任されます。
程元振
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京兆の三原の出身です。
若くして宦官となり、內侍省に勤務していました。
內射生使、飛龍廄副使に進み、李輔國の配下でした。
寶應元年建巳月、肅宗皇帝が重病となり、張皇后と輔國が実権をめぐって対立しました。張皇后は輔國を除こうとし、皇太子と結ぼうとして失敗し、趙王係を擁して内廷を制圧しようとしました。それを知った元振は、輔國と共に先制攻撃を加えて、皇后・趙王を殺し皇太子[代宗]を擁立しました。
功績によって左/右監門衛將軍[唐史における左右は極めていい加減です。]となりました。
輔國は増長し、代宗皇帝を傀儡にしようとしました。
寶應元年六月、代宗皇帝の憤懣を知った元振は輔國の軍權・宰相職を奪い、名誉職に祭り上げて内廷から追い出しました。元振が判元帥行軍司馬として軍權を握ります。
寶應元年七月、鎮軍大將軍、保定郡開國公を与えられます。
寶應元年八月、副元帥郭子儀が河東の軍乱を平定し入朝しますが、元振は讒言して副元帥を解任し、軍權を奪います。
寶應元年九月、驃騎大將軍兼内侍監に進みます。進封邠國公。
従わない肅宗山陵使左僕射裴冕を讒言して逐います。
寶應元年十月、雍王适[後の德宗]を天下兵馬元帥として、諸道軍と回紇を率いさせ史朝義を討たせます。代宗は郭子儀を副元帥にするつもりですが、元振と魚朝恩は子儀を警戒し、蕃族出身の僕固懷恩を任命します。
寶應二年正月、山東節度使來瑱を讒言して殺します。軍人達は元振の悪辣さを嫌い、警戒し始めます。
寶應二年六月、同華節度使李懷讓が元振の讒言のため自殺します。
廣德元年九月、吐蕃が侵入してきますが、元振は報告しません。
廣德元年十月
吐蕃が京師近郊まで入寇して来たとき、始めて代宗は知り、脅えて京師を棄てて華州へ奔ります。
後始末は郭子儀にさせますが、子儀は兵力がありません。
吐蕃は二十餘萬で京師を陥して掠奪します。
廣德元年十一月
今までの陰険な元振の政策を憎んで、河南李光弼等の諸将は来援しません。
郭子儀は雑軍を集めて、吐蕃が放棄した京師を回復しました。
さすがに博士柳伉は群臣と共に元振を弾劾し解任を迫ります。
実際は元振が臆病で定見の無い代宗皇帝の政策を代行していただけですが、臣下としてはそうは言えません。すべて元振の責任にするのです。
代宗は自分の責任とわかっているので、元振を厳罰にすることなどできず、解任して郷里を戻します。
廣德元年十二月
不満な元振は京師が回復されたことを知ると、女装して潜入し再任用を求めます。
廣德二年正月
さすがに代宗も処罰するしかなく、一旦溱州へ流しますが、目覚めは悪いので江陵で隠居させます。
元振派の宰相劉晏と、反元振派の李峴も宦官達に憎まれ解任されます。
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