不条理み○きー

当面、きまぐれ一言法師です

「911」

2006年09月11日 23時58分53秒 | Life

 その日、僕らは会議室の片隅にある会議のモニターとして設置されているテレビに、無理矢理、銅線をねじ曲げたインチキなアンテナを付けて、そこに映し出される映像を食い入るように見ていた。

 電波状態によって、目まぐるしく変化する粗い画像が、何故かその時は、よりリアルさを強調しているようにも見えた。

 実際、その場にいた半数が、これから1~2週以内に、仕事のために欧州に飛ぶ予定になっていた。
 それ故に、その未曾有の惨劇の舞台が、例えアメリカであっても、一体、何故そんなことが起こったのか判らないままの僕たちにとっては、すぐそこにある恐怖に思えたのである。

 しかし、会社の対応は冷静だった。
 一旦、業務関係の海外渡航が全面禁止されたものの、翌日には、それはアメリカ限定の処置となり、他の国へは「業務上の必要性がある場合」渡航が許可された。

 もちろん、僕らの漠とした不安感は「業務上の必要性」に優先されることはなかった。

 だが、出かけた先の欧州で、僕らは「軍隊を持つ国」の危機管理を目の当たりにした。
 地下鉄の各駅には、警察とペアで軍人が警備をしていた。
 そして、その手には、黒光りするサブ・マシンガンがしっかりと握られていた。
 もちろん、そこには、実弾が込められているのだ。
 そう思っただけで、僕はその「武器」から発せられる言いしれぬ威圧感と死の匂いにゾッとした。

「武器」というのは、恐ろしいものだ、という当たり前のことを心底実感した瞬間でもあった。


 後に、その惨事は計画された「テロ」であることが判明した。
 そして、アメリカをはじめとした世界が選択した手段は、ある意味「報復」である。
 そうして、「暴力」対「暴力」が繰り返されることになった。


 そして、それから5年経った今、それが正しい選択だったのか、という問いかけが始まった。
 だが、では、具体的にどうすればよいのか、という答えが出ているわけではない。
 何かしら、別の手段がないかという模索が始まったのである。
 今日、放送されていた特番を見て、ふと思い出したのは、スタンリー・キューブリックの「2001年 宇宙の旅」のワンシーンだった。
 キューブリックは、この、猿が棍棒を振りかざすシーンを持って「進化」の瞬間を描き出した。
 だが、今の我々は、紛争に関して、果たしてそこから少しでも進化したのだろうか?
 そう言う想いが、ふと頭の中に浮かんだのである。

 繰り返すが、まだ、答えは出ていない。
 しかし、次の進化は、我々がその手にした棍棒を、捨て去るときなのではないだろうか?

 ふと、そんなことを考えたりしたのである。

 911をはじめとした、テロおよび全ての紛争の犠牲者に。
 合掌。

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