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プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

菱川章

2016-09-10 21:16:54 | 日記
1965年

スタンドから「ウーン」といううなり声がおこった。それほど、七回の3ランは豪快な当たりだった。しかもこれがプロ入り初安打。ロッカーへもどってくると、江藤がポンと肩をたたいた。「あきら、あの感じを忘れずにつかんでおけ」すなおに何度もうなずく菱川には型破りの新人とキャンプの当時いわれたごうまんなふんい気はまったくない。この夜も試合前「気持ちよく投げてもらわなければいけませんからね」と先発予定の柿本の肩をもむサービスぶりだった。「内角寄りの低めのストレート。なんとかしてヒットを打ちたいと夢中で振った。そうしたら実にいい感じで当ったんです。これも試合前杉山さん(二軍監督)にいわれた注意をよく守ったためです」杉山二軍監督が与えたアドバイスとは「バックスイングのときバットがさがり気味になるから少しあげてみろ」だった。二、三か月前の菱川だったらこんな注意にも耳をかさず「フーン」とソッポを向いていただろう。試合後、西沢監督も「なんといってもここが落ちついてきたからね」と胸のあたりを押えた。「キャンプのときの言動と比べたら雲泥の差だ。それもボックスにはいってものおじしないで思い切って振るところがいい。ベンチにすわっているうちにみようみまねでレギュラー選手のいいところを吸収しているようだ。素質がある証拠だね」名古屋にいるときは連日午後三時から特訓を受け、二百本以上フルスイングをしているという。からだはこんがりとやけてよくしまり、日ごとにたくましさを加えているようだ。
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エディ・武井

2016-09-10 09:38:13 | 日記
1960年

「武井、オマエは攻守のヒーローだ」スタンドから声がかかったが武井は日本語を知らない。武井が九回をつとめたのは四月二十四日以来十日ぶり。鳴りもの入りで入団したが打てない武井のトレード・マークさえついた武井である。内角を徹底的につかれて武井の起用は日とともに少なくなっていった。しかしこの日の逆転打は武井のもっともニガ手の内角シュートだった。バットが折れて打球が左翼手山内の前にポトリと落ちるテキサスだった。大さわぎのベンチをよそにとぼとぼと一人でロッカーへ帰った武井は「ラッキーね」と一言いっただけ。武井は日本語がわからぬから無口なわけではない。二世選手だけのパーティーが東京で開かれるときも「隣の人から話しかけなければ彼はしゃべらない」(ビル西田の話)といったぐあい。だから試合に出られないようになっても通訳係スタンレー・橋本にもグチひとついわないという。「なに考えているかわからない人」と橋本はいうがこんな一面もある。「試合中捕手の交代があるとき、つぎの捕手の支度が終るまでだれよりも先にミットを持って投手の球を受けるのが武井です。ベンチのすみからあっという間にミットを持って出ていく。キャンプではいつも報道陣の中心だったのに、いまはだれ一人惚れる人のいない男ーそれだけにそういう武井の心づかいがいじらしいんです」(神谷マネの話)ベンチのすみから内角打ちをひそかに研究していたのかもしれない。「武井はこれで自信がついただろう」岩本監督は大声で報道陣にいっていたが、武井はそんな言葉も知らずにロッカーで相変わらずだまってみんあの喜びある姿をみていた。
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三平晴樹

2016-09-07 22:15:47 | 日記
1960年

「雨で二日間練習をしていなかったので、ちょっと力を入れると球が高目に浮き、外角の球がみんなはずれて困った。後半に入って内外角に球がよく散ったのがよかったのかもしれない」(三平投手の話)「スピードは回を追ってよく、四球が一つもなかったことでわかるようにコントロールが非常によかった。しかしいまの三平を論ずるとき、一番強調しなければならないのは完投するときのスタミナの配分がうまくなったこと。昨年はどのバッターにも同じように全力投球していたが、ことしは緩急順序をよく心得ている。六回関森、ボトラに連安打されたあと、内角攻めで小玉、斎田をかんたんに打ちとったあたり、長足の進歩といえる」(評論家・佐々木信也氏の話)キャンプからオープン戦にかけて西本監督、野口コーチがつきっきりでフォーム直しにかかっていた。ステップした右足のカカトに重心がかかっていたことが指摘され、また振りあげた左腕が、昨年は下へ下へとさがっていたことも注意された。スピードが増し、コントロールがついてきたのはこれらの点を注意してフォームを作りあげたためだという。昨年、契約のとき、三平は和田代表の前でこういった。「ヒジを痛めて一年間なにも働きらしい働きをしなかった。代表の思うとおりにしてください」頭を下げてそういった三平の素直さに、和田代表は「じゃあ、今シーズン一生懸命やったら・・・」となだめた一幕もあったほどだ。給料は下げられもせずあがりもしなかった。だがこの日5勝目。大毎ではいまやエース格だ。柳田につふ二人目の昇給は確実である。三平はおしゃれで有名。ちょっとした二枚目で「スタイル・ブックの男子専科から抜け出てきたような男」とは同僚のもっぱらのうわさ。軽音楽ファンでラテン音楽を語らせるとくろうとはだし。「音楽を聞いてビールでも飲んでいるときが一番幸福」というおとなしい一面もある。秋田商出身。二十二歳。
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近藤隆正

2016-09-07 21:32:53 | 日記
1960年

大分県津久見高出身、高校時代からカーブの切れがいいので注目されていた。昨夏の甲子園大会県予選で優勝したが、中九州代表決定戦では鎮西高(熊本)に打たれ5-0で敗れている。読売本社関係者の推薦で今春巨人入り。身長1㍍70、体重63㌔でプロ野球選手の中では小柄で、顔つきも青白く弱々しい感じだが、度胸がよく、多摩川の二軍ではもっぱらリリーフ役。コントロールがいいのでレギュラー・バッティング練習には近藤が投げるとほかの投手の場合よりたくさん打てるとなかなか評判がいい。前夜二線級投手が総くずれとなったため度胸と制球力とカーブをかわれてベンチにはいったばかり。右投右打、十八歳、背番号49。

近藤投手の話 「きょう登録したばかりなので、まさか投げられるとは思わなかった。二軍ではよくリリーフとして出たが、やはり後楽園ではふんい気が違う。それでも投げ出したら案外落ち着いてきた。バックが一球ごとに声をかけてくれたのもよかった。カーブとストレートを半分ずつ投げた」
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竹下光郎

2016-09-07 20:58:46 | 日記
1960年

「二回のホームランは内角高目、ボールかもしれん。六回のは真ん中の直球、とにかくいまはボールがよくみえる」左翼線上段に先制と、とどめの二本のホームランをたたき込んだ竹下はこう説明する。とくにこの日の二回のホーマーはプロ入り四年目の第一号ホーマーである。「今日は記念すべき日だ」とニコニコするのもムリはない。ことし大友、加倉井、十時、松下とともに巨人から移籍した。三十二年島根県大田高から巨人に入団。その巨人時代の三年間は藤尾、森らのカゲにかくれて第一線出場はおろかもっぱら二軍。だが当時二軍監督だった千葉監督はその将来性を大きく買っていた。いわば千葉監督の秘蔵っ子。昨年千葉監督が近鉄に移籍するとき大友、加倉井などとともにトレードを申込み断られており、二年ぶりに千葉監督の希望が実現したわけだ。「加藤が少し調子が悪いこともあるが、竹下の方がバッティングにうまさがある」というのが千葉監督の竹下起用の理由。そして八番から七番にあげられた十六日の対東映四回戦にも二安打を放つなど大いに気をはいている。漫才のB助に似ているところからニック・ネームはBチャン。そしていつも冗談をとばして笑わせ、いまでは近鉄の人気ものになっている。1㍍73、69・2㌔、右投右打、四年目。
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西山弘二

2016-09-06 21:07:43 | 日記
1960年

一回二死四球の二走者を置いて打った西山の右翼3点本塁打が大きくきいた。ずんぐりした体を前にかがめ西山はテレくさそうにベースをまわった。それもムリはなかった。「打ったのは真ん中らしい。直球かな。プロにはいってから初めての本塁打だからね。ウエスタン・リーグでも打ったことがないのに、どんなかっこうで走っていいか・・・。三塁からホームまで走る間の長いこと・・・」と試合後もほんとうにテレくさそうである。三回には三遊間安打、五回にも中越二塁打ときれいに打ちわけてこの夜は4打数3安打。どれもこれも真っシンに当ったものだった。この西山は最近10試合に三割以上の打率。中大から期待の大型捕手とさわがれて入団したもののあらいバッティングがわざわいし、また守っても盗塁をみすみすさせるなど期待はずれだった西山にやっと芽が出てきたのだ。その打撃開眼の理由を西山はこういう。「六月の終わりに藤村さん(評論家)にちょっときいた。そしたらもう少し前でたたくようにといわれた。ウエスタン・リーグのときにも西鉄の中西さんにいろいろグリップのことを教わった。人によってバッティングの観は違うとはいうが、どんなことでも研究することはマイナスじゃないからね。全部とり入れたわけじゃないが、一つ一つ自分に合うものを注意してやってみた」その研究熱心な効果が現れてきたようである。「プロでの試合というものがやっとつかめかけたような気がする」ひところは報道陣どころか同僚の顔もまともに見られずおどおどしていた西山だったが、最近はすっかり明るい表情で冗談をとばすようになった。「最近の打率がいいって?さあ率は全然気にしない方だから。そんなことよりもレギュラーの位置を逃がさないようにやるのが精いっぱいだ」一日の国鉄戦からはじめて五番を打って、これで二試合目だが、白石監督は「どうやら本ものらしい。よほどのことがないかぎりこのまま打たす」と目を細めていた。
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安藤治久

2016-09-06 20:14:50 | 日記
1960年

南海を完封した安藤は汗ひとつかかずにベンチに帰ってきた。「こんな試合でぼくに用事があるんですか。こんなに打ってくれたらだれだって勝てますよ」安藤はびっくりしたような顔でこういった。「四安打しか打たれなかったって?そりゃ、ぼくがよかったんじゃありません。南海さんが力を抜いたからでしょう」こういって安藤は汗も出ていない顔をゴシゴシとタオルでこすった。ちょっとテレたのだろう。そんな安藤に伊勢川コーチがニヤニヤしながら「いいピッチングだったよ」と声をかけた。「そうでしたかね。いくら一方的に勝っても、完封勝ちはやはりうれしいですね」やっと安藤はうれしそうな顔をした。「シュートとカーブがうまくきまっていた。四回に無死二塁というのがあったけど、八点差だったでしょう。なんともありませんでした」同僚がのんびりしているのに安藤はいそいで帰り支度。「下宿のおじさんがすごく厳格なんですよ。門限は十一時。遅れるとしかられるから・・・」とさかんに時計を気にする。十時をちょっとすぎたところである。安藤の下宿先は鳴尾警察の署長さんの家である。だから夜など一杯飲むということはないし、試合が終わると真っすぐに下宿に帰る。「安藤さん、車がきたそうですよ」受付からの連絡をきいた安藤は大きなボストンバッグをぶらさげると一気に階段をおりた。
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有町昌昭

2016-09-05 22:22:56 | 日記
1955年

今シーズンのカードで三度延長にもつれ込んだのが全部十一回で西鉄の勝ちとなっている。毎日にとってこのニガ手の延長に初の勝星をたたき出したのは新鋭有町昌昭遊撃手の二百五十球目、三十三㌔半の白バットだった。有町は九回から岡田に代わって出場したので彼として初の打席。しかもその前に島田の右前安打が出ながら二塁からルイス(四球出塁)が本塁に刺されていた「打席にはいるときは足がふるえてどうしようもなかったです」と童顔をほころばすプロ二年生である。だがカウント1-1で川崎から大津に代わったときはこれはとむらむらと野心がわいたそうだ。「川崎さんのチェンジ・オブ・ペースよりは大津さんの力で勝負して来る方が打ちやすいような気がした。その前の1-0でヒット・ランのサインが出ていた。つぎの球が外角はるかにはずれて手が出なかった。あのときはしまったと思ったが捕手の永利さんがおよび腰でとったので二塁に投球出来なかったのでツイていたんです」とけんそんする。「大津からファウルを一つねばった2-1後の四球目、カーブを予測していたがカーブではいって来るコースから曲がらずに真直ぐ来たので夢中で振った。あるいはウエストの投げそこないかもしれない」(有町選手談)そうだ。小倉高出身、五尺四寸、十七貫、右投右打、二十歳。
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秋本祐作・田中守

2016-09-05 21:58:29 | 日記
1961年

勝った秋本は「ナイス・ピッチング」と自分でいいながら田中(守)人見に握手を求めた。「南海にはオレが投げんと勝てんのや」阪急で一番ずぶとい根性の持ち主らしい言葉だ。「ブルペンでスピードボールにのびがなかったし、一回にポンといかれたからな。これはいかんとあとはスピードを抜いた。よかったのはシュート、内角をついてからスライダーを外角に投げたんだ。スロー・カーブ?カウントをかせぐだけだがみんなうまく泳いでくれたよ」変化球ばかり投げた秋本の右手人差し指には大きな血マメができていた。南海にはオレやというものの南海に勝ったのは一昨年六月九日の対十回戦、2-0で完封して以来だ。「タケ(人見のこと)の本塁打もきいたけど、四回の田中さんの一発はうれしかったね」その田中(守)は小柄な秋本の横で大きなからだを小さくしている。というのは四回満塁で打ったのが今シーズンはじめてのタイムリーだったからだ。「本塁打が一本あるからな。これで打点4、おはずかしい次第ですよ。打ったのはカーブだったと思う。コース?真ん中だろうよ。とにかくタイムリーが1本もなかったんだからね。なんとかしてでもと思っていたのがあんな大それたことになって」大下コーチは「技術的にいう必要はない。田中はていねいに打ち出せば絶対三割打者になれる」とキャンプ中にいっていたことがある。三割打者にはほど遠いが「ことしは力をいれずミート打法に切りかえた。一球一球が勝負のつもりで気合いをいれているんだ。昨年まではあのカーブが打てなかった」2-1からの低目のボールを前で合わせただけ。大下コーチは「あれでいいんだ、あれでいいんだ、忘れるな」と何度もいっていた。
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五井孝蔵

2016-09-05 21:26:35 | 日記
1955年

さきに近鉄の任意引退選手となった五井孝蔵投手(28)=立大出身=は十二日日本コロムビアに入社した。同選手は昨年暮ごろから阪急、ユニオンズへの移籍交渉が行われていたが、プロは性格にあわないとノンプロ入りを希望、日本石油、トキコ、コロムビアなど十数チームの中からコロムビアを選んだもの。

五井選手談「好きな野球が出来るプロに期待をもって入ったが、五年間やってみてやはりプロは肌にあわなかった。その意味でユニオンズの浜崎さんから好意ある話があったがおことわりした。いままでの派手なプロと違ってこれからは苦しいだろうが、倉庫番をしてでも茨の道を切り開きたい。ノンプロに入ったからにはそこで一生をおくる覚悟で、現場などを見た結果、世間には知られていない地道な仕事のあるコロムビアを選んだ。選手としてはいま一度プレートで花を咲かせたい」
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山本久夫

2016-09-05 21:07:58 | 日記
1961年

頭のうしろに小さなハゲがある。八回ボックスに立ったとき、それをひどくヤジられた。「なんという人ですかねえ。杉下さんとならんで見てた人ですよ」緊張した試合のなかでヤジった相手の顔をちゃんと覚えている。相当な心臓だ。プロへはいるとき両親たちは「オマエみたいなおとなしいものにプロの選手はつとまらん」と、とめたが、一面「いったんこうと思い込んだらなかなかかえん方です」という勝ち気なところもある。八回の安打はイン・コース高目のストレートだったそうだ。「いま右ワキ腹のスジを痛めていてコンディションはよくないんです。ツイていたんです。あの安打だってバットの根っこにあたったヤツで・・・」まだ方言が抜けない。山口県徳山出身、実家はそこで三十人ほどの職工を使って造船業をやっている。五人兄弟の末っ子。からだが小さいので野球をはじめてから手首をきたえ続けた。プロへはいっても手首の運動をしたり、マスコット・バットで素振りをしたりしていた。いまは筋肉を痛めたのでやっていないが、キャンプ、オープン戦中は毎晩バットの素振りをかかさなかった。水原監督お気に入りのルーキーで稲垣、松岡、武井の先輩をぬいて遊撃を守ったり、二塁へまわったりしている。「毎日めんくらってばかりいて・・・」と頭をかく。同じように小柄な内野手だった佐々木信也氏は「野球のセンスがある。足、肩がいいうえに頭がいい。きっといい内野手になりますよ」とタイコ判を押している。
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中川隆

2016-09-05 20:15:49 | 日記
1961年

1㍍75、65㌔の体はきゃしゃな方だ。中川は昭和二十九年プロ入りすると「力で対抗してもかなわない」からすぐ変化球の研究に没頭した。1年目のシーズンが終わると郷里の滋賀県彦根市へ帰り、高校生を相手にピッチングにうち込んだ。それも回転がはっきりわかるように自分であみ出したスミで色分けしたボールを使っていた。そのおかげで中川はフォークボールをマスターした。フォークボールを投げる投手は当時は中日の杉下(現大毎)と彼くらいだった。2年目は18勝11敗で防御率第一位(2・08)投手になった。その後は鳴かずとばずでファンからも忘れられようとしていた中川だった。ところがこの夜の中川は「リバイバル・ゲームだからね。たまにはやらなきゃ」とカラカラと笑うほどのでき。8年目のベテランでありながらまるで新人のように慎重なプレートさばきで、九回若生にバトン・タッチしたものの杉下が「打者に転向しろよ」とひやかすくらい打撃にもハリをみせた。「打ったのは高目の球かな。本塁打はあとにも先にもこれがはじめて・・・。投手はあまり打つものじゃないからね。投げる方はカーブがよかった。しかし審判はまん中へはいったカーブをとってくれないからいやになったよ。あれじゃ十人を相手に野球をやっているのと同じだ」と主審不信論(?)をトウトウと語る。中川はこれで3勝目、調子のよいころのピッチングに近づいてきたようだ。田中コーチは「いいですよ。ショート・リリーフならいちばん安定していますね。スライダーぎみの速いカーブがとくにいいですね」とやたら中川をほめていた。
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張本勲・金山勝巳

2016-09-05 19:52:35 | 日記
1960年

南海に逆転勝ちした東映ベンチはナインの笑い声でいっぱいだ。その中でも岩本監督のハリのある大声がはずんでいた。「張本の四安打がうれしかったな。金山もいい出来だった」と相好をくずす。その打の殊勲者張本が岩本監督に負けず劣らず大声でうれしそうに語る。「六回の二塁打?遠目のカーブやった。内角へは投げないとわかってたから、はじめから外角を予想していた。あとのヒットは忘れてしもうた」この日四安打、これでベスト・テンの二位にのし上がった。「実はゆうべ松木さんから注意されたんです。南海は下手投げの投手が多いからワキを少しかためて打つようにと。それを注意した」というのがこの日の大当たりの原因だという。「ベスト・テンのトップまでもうちょっとやな。いっちょがんばったろうか」と、相かわらず二年生とは思われぬ向こう気の強いところをみせ「そやけど、本塁打の出えへんのがくやしいな。きょうなんかええ風が吹いていたのにな・・・。ヒット四本打てたのはうれしいけど、本塁打が出えへんのがくやしいよ。あれはどんな負け試合でもいい気持ちやもんだ」というのを、先輩の山本(八)がおどろいた顔できいていた。一方金山はあいそのいい張本とは正反対「あまりよくなかったです」とダッグアウトのすみで静かに立ち話。「でもスライダーがいいところできいたと思う。一番つらかったのは八回の野村に打たれたとき。終盤だし、左の長谷川がバッターに出たからね。山本(八)は内角の速い球のサインをだしたけど、疲れてきたときだから自信がなかった。結局シュートを投げて打たれたけど・・。まあ寺田君が内角のシュートに手を出してうれたんで助かった」胸をはってナインの後を追う張本にくらべ、金山は「まだやっと三勝ですからね。大きなことはいえませんや」と、まるで失策をしたような態度で引きあげていった。
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原田亨

2016-09-04 21:22:11 | 日記
1960年

試合が終わって報道陣にかこまれた原田ははずかしそうだった。ムリもない。プロ入りしてから新聞記者が原田のまわりに集まったのははじめてのことだ。三年前、関大から中日入りしたときはボーナス・プレーヤー。関大では巨人へいった難波が三塁、原田が遊撃を守り大型三遊間としてさわがれたものだった。だがプロのユニホームを着てからはさっぱり。守備も打撃もパッとしないまま二軍へ落ちた。昨年はシーズンはじめから投手に転向。球が速いからというのが表面の理由だが、どのポジションも使い道がないというのが真相のようだ。「もう野球なんかやめようかと思いましたよ」帰りのバスの中で原田は笑いながらいった。「ふだん使ったことのない筋肉を使うせいか、ピッチャーになりたてのときは体中が痛くてね。もういやになりましたよ」体がゆれているのはバスの振動のせいばかりではなさそうだ。この日杉下監督は大矢根を先発に考えていた。ところが小雨まじりの悪天候。大矢根は「きょうはかんべんして下さい」といったそうだ。そこで原田が急きょ先発した。杉下監督から登板をいわれたとき原田は「ギョッとした」という。五回まで六安打。手放しでほめられるピッチングではなかったものの、無得点におさえた。そしてオープン戦とはいえ、一軍相手にプロ入り初の勝利投手となった。「カーブがいつもはいいんですが、きょうはかたくなったんでしょうか。うまくいきませんでした。しかしきょうのように寒い日にレギュラーの投手が投げると肩をこわすでしょう。だから一回でも長くもたせてやろうと思ったんです」原因は寒かったばかりに登板のチャンスをつかみ、力投した。「これでいくらか自信がついたような気がします」バスの中でくばられたリンゴを原田はだれよりもうまそうにほおばった。
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金山勝巳

2016-09-04 20:15:20 | 日記
1960年

金山はいつもおだやかな表情をしている。六、七回満塁のピンチを招いたときはさすがに真剣な表情になったが、それ以外のときは終始ニコニコしながら投げていた。
ー一年ぶりの完投勝利で・・・「エー、そうですね。なにしろクタクタです」顔には大ツブの汗がふき出しているし、ユニホームはぐしょぐしょ。座ってゲームをみているだけで汗がじっとり出てくるくらいだから、完投したら汗の量は大へんなものだろう。金山をとりかこむ報道陣をかきわけて土橋が近づいてきた。「こういう人の体にさわっておけばオレも勝てるようになるかもしれん。ナイス・ピッチング」土橋が立ちさると保井監督代理が声をかける。「きょうは三日分くらいのピッチングだったな」金山は以前ニコニコ。
-今夜のピッチングで一番よかった点は
「コントロールがよかったことです。最後までフラフラでしたが・・・」
ー一番苦しかったのは?
「七回の一死満塁のときです」
ーそうするとあのころが一番疲れていた?
「いや、疲れていたのは一回からですよ。きのうほうるはずだったんですけど、雨だったでしょう。きょうはゲームの前にうんと走ったりノックしてもらったりしたから最初からフラフラ・・・」フラフラでも大毎をシャットアウトできたんだから大したもんだ。
ー大毎打線から受けた感じは?
「いつもほどはこわく感じませんでしたね。なにかバットの振りがにぶかったみたいですよ。外角にボールになるスライダーをずい分カラ振りしてくれたし・・・。大毎さんもばてているんでしょうね」
最後までおだやかにしゃべっていた金山、ベンチのすみにおいてある冷たいお茶を茶ワンで二杯飲みほし、塩をひとつまみ口にほうり込むとかけ足で引きあげていった。
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