goo blog サービス終了のお知らせ 

プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

原田亨

2016-09-04 21:22:11 | 日記
1960年

試合が終わって報道陣にかこまれた原田ははずかしそうだった。ムリもない。プロ入りしてから新聞記者が原田のまわりに集まったのははじめてのことだ。三年前、関大から中日入りしたときはボーナス・プレーヤー。関大では巨人へいった難波が三塁、原田が遊撃を守り大型三遊間としてさわがれたものだった。だがプロのユニホームを着てからはさっぱり。守備も打撃もパッとしないまま二軍へ落ちた。昨年はシーズンはじめから投手に転向。球が速いからというのが表面の理由だが、どのポジションも使い道がないというのが真相のようだ。「もう野球なんかやめようかと思いましたよ」帰りのバスの中で原田は笑いながらいった。「ふだん使ったことのない筋肉を使うせいか、ピッチャーになりたてのときは体中が痛くてね。もういやになりましたよ」体がゆれているのはバスの振動のせいばかりではなさそうだ。この日杉下監督は大矢根を先発に考えていた。ところが小雨まじりの悪天候。大矢根は「きょうはかんべんして下さい」といったそうだ。そこで原田が急きょ先発した。杉下監督から登板をいわれたとき原田は「ギョッとした」という。五回まで六安打。手放しでほめられるピッチングではなかったものの、無得点におさえた。そしてオープン戦とはいえ、一軍相手にプロ入り初の勝利投手となった。「カーブがいつもはいいんですが、きょうはかたくなったんでしょうか。うまくいきませんでした。しかしきょうのように寒い日にレギュラーの投手が投げると肩をこわすでしょう。だから一回でも長くもたせてやろうと思ったんです」原因は寒かったばかりに登板のチャンスをつかみ、力投した。「これでいくらか自信がついたような気がします」バスの中でくばられたリンゴを原田はだれよりもうまそうにほおばった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金山勝巳

2016-09-04 20:15:20 | 日記
1960年

金山はいつもおだやかな表情をしている。六、七回満塁のピンチを招いたときはさすがに真剣な表情になったが、それ以外のときは終始ニコニコしながら投げていた。
ー一年ぶりの完投勝利で・・・「エー、そうですね。なにしろクタクタです」顔には大ツブの汗がふき出しているし、ユニホームはぐしょぐしょ。座ってゲームをみているだけで汗がじっとり出てくるくらいだから、完投したら汗の量は大へんなものだろう。金山をとりかこむ報道陣をかきわけて土橋が近づいてきた。「こういう人の体にさわっておけばオレも勝てるようになるかもしれん。ナイス・ピッチング」土橋が立ちさると保井監督代理が声をかける。「きょうは三日分くらいのピッチングだったな」金山は以前ニコニコ。
-今夜のピッチングで一番よかった点は
「コントロールがよかったことです。最後までフラフラでしたが・・・」
ー一番苦しかったのは?
「七回の一死満塁のときです」
ーそうするとあのころが一番疲れていた?
「いや、疲れていたのは一回からですよ。きのうほうるはずだったんですけど、雨だったでしょう。きょうはゲームの前にうんと走ったりノックしてもらったりしたから最初からフラフラ・・・」フラフラでも大毎をシャットアウトできたんだから大したもんだ。
ー大毎打線から受けた感じは?
「いつもほどはこわく感じませんでしたね。なにかバットの振りがにぶかったみたいですよ。外角にボールになるスライダーをずい分カラ振りしてくれたし・・・。大毎さんもばてているんでしょうね」
最後までおだやかにしゃべっていた金山、ベンチのすみにおいてある冷たいお茶を茶ワンで二杯飲みほし、塩をひとつまみ口にほうり込むとかけ足で引きあげていった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

峰国安

2016-09-04 19:18:28 | 日記
1960年

三原監督期待の峰がプロ入り初勝利を記録した。六回内野の乱れから二点を許し、宮本のリリーフを受けたが、許した安打は四本。ピッチングの内容は蒼々たるものだった。秋山の負傷で手うすになった大洋投手陣にとって峰の成長はたのもしいかぎりだ。すぐロッカーに引きあげた峰は差し入れのゴモク飯をばくつきながら「スライダーがよかったからもったのですよ、エヘヘ・・・」といかにもぼくとつな青年。話は三保キャンプのときだ。胸のブ厚い、いかにもドロくさい選手が外野でボール拾いをしていた。「あの55番はだれだ」三原監督が峰のタフさをみのがすわけがない。その胴まわりは1㍍10はあろう。それ以来三原監督はつきっきりで峰を指導した。「投げれば投げるほど調子が出る」という峰はキャンプからオープン戦とメキメキと腕をあげ、オープン戦でも半数に近い十三試合に出て防御率一点台とみごと合格。登板予定日でもハナ歌まじりでゆう然と口笛をふいているクソ度胸の持ち主である。五分がりの頭、顔はニキビなどでゴツゴツしている。そんな峰の魅力はなんといっても強じんな足腰だ。五日の対国鉄一回戦でも三原監督は八点とられても五回まで峰を代えなかった。「みんなバックが足をひっぱったのだ。峰の責任は一点もないんだ。どんどん投げさせてナイターがはじまる前に一人前にどうしてもするんだ」三原監督が峰に口をすっぱくしていってことは「マウンドへあがったら深呼吸して肩の力をぬけ。やわらかく投げるんだ」ということだけだ。長崎県西彼杵(そのぎ)郡野母崎の漁師のせがれ。小学生のころから五島列島方面へ出かけて宮崎湾の荒波で腰をきたえた。いわば稲尾二世だ。長崎海星高時代、杉町と三回投げあったが、一度も負けていないという。高校三年の昨年六月大洋に入団。その後正明高校(拓大付属)へ通ったというかわった経歴の持主。大洋の選手たちが「あいつには疲れはないんじゃないか」という峰だが、お祝いにきた大洋漁業の辻村副社長に肩を叩かれると、帽子を目深にかぶって顔をあげられないほど純真なところもある。1㍍76、75㌔、右投右打、十九歳。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大崎隆雄

2016-09-04 17:53:43 | 日記
1961年

九回裏、最後の打者木次をいとも簡単に三振にとると大崎は大きな鼻をかくすようにうつむきかげんにマウンドを降りてきた。大洋が連敗に終止符を打った瞬間だ。ベンチの前で拍手攻め、質問責めで流れる汗をふくヒマもない。試合終了後15分もたってロッカーに引きあげてきた。見上げるような大男。「八回にノーアウト一、二塁で長島が出てきたときはどんな気持ちだった?」大崎「また三振にとってやろうと思ったんです」驚いたことにまったく予期しない答えがとび出してきた。普通だったら「いや、あのときはいやな気持ちでした」とくるところだ。心臓に毛が生えている。「きょうのピッチング、自分でどう思う?」大崎「カーブがよかったです。でもシュートがキレませんでしたね」だれかが「長島を三振させた球は?大崎「カーブ」「宮本の三振は?」大崎「ストレート」大崎の口から間髪を入れず答えがとび出す。ちゃんと覚えているのだ。大崎はカーブを二種類投げわけていた。やや横から投げる小さいカーブでカウントを整え、上から投げる大きなドロップをきめ球に使っていた。落差が大きいし、ヤマを張らない限りちょっと手が出ない。「あれだけの球がほうれたら高校時代(平安高)は全然打たれなかっただろうね」大崎「いやそうでもないですよ。カーブをあんまりほうりませんでしたから・・。投げすぎると腕を悪くするから・・・」「巨人のバッターはどう?」大崎「この前、中日の森さんや江藤さんたちにガンガン打たれたでしょう。すごいですね、森さんたちは。中日にくらべると巨人の人はなにかスマートでスラッとしていますから・・・」ここで大崎君は大笑い。大きな鼻がピクピクと動いた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広島衛

2016-09-04 15:55:57 | 日記
1960年

ピッチング・フォームをかえて成功した投手はあまりいないが広島はその数少ない成功者の一人だ。昨年の九月、腰の入っていないフォームを直す意味で近藤ピッチング・コーチが上手投げから横手投げにかえた。それまでは上体だけを使ったピッチング。サイド・ハンドにかえてから広島は速球が出てきた。昨シーズンの終わり近く巨人とのゲームに杉下監督は広島を登板させた。すでに巨人は南海と日本シリーズで顔が合うことがきまっていた。そこで杉浦に似た横手の広島を杉下監督は友情出場させたわけだ。ところが広島はこのゲームで敗戦投手になったものの、新しい投法にすっかり自信をつけてしまった。今シーズンは六試合に登板して早くも三勝。フォームが特異なだけにリリーフ投手として貴重な存在になった。出身校は浪華商。山本(八)張本らの出た野球でもあばれん坊ぞろいでも有名な学校だ。ところがこの勇ましい浪商で風紀係をつとめていたというほどおとなしい。顔はごついが、ナインになにをいわれても笑っているだけ。中日ではおころない男でとおっている。杉下監督の広島評も「くそ真面目な男」ということだった。この日も「きょうはちっともいいことないですよ。ボールが高目に浮いてしまってダメだった。ぼくが出たらバックが急に打ってくれたので勝てたんだよ」それだけしゃべるのに長い時間がかかった。前夜は映画見物。このところ映画をみた翌日登板すると「絶対勝てる」そうだ。妙なジンクスだが、前夜みたのが暗黒街の帝王、性質はごくおとなしいが、映画は勇ましいのが好きらしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青木宥明

2016-09-04 12:42:44 | 日記
1960年

キャンプ・インを間近にひかえた二月はじめ、水原監督にくどかれ、関東学院大を中退(二年)して巨人に入った。そのかげには練習試合で青木にひねられた大和証券監督藤本英雄氏(元巨人)の推薦もあった。青木の話では「水原さんから誘いがあったので一も二もなくとびついた」のだそうだ。二月十四日ナインに遅れて宮崎に姿をみせた青木はずんぐりした体つき。さっそくウエルター級ボクサーを略してウエルターというアダナがついた。そしてムダな肉を落とせ、と早朝のロード・ワークにひっぱり出された。しかも朝食ぬき。朝食がわりにリンゴ二個という苦行が十日間つづいて、青木はみるみる四㌔やせた。同時にピッチングにも力が入ってきた。アダナどおりあまりアカ抜けたピッチングではなかった。しかし水原監督はキャンプをおとずれる評論家をブルペンへひっぱっていっては「カーブは水平に曲がるし、シュートは落ちるし、ちょっとおもしろいよ。粗けずりだが、そのままオープン戦でどしどし使ってみるつもりだ」と自慢していた。そしてこの日試合前、森に「オレのミットだけ見てほうれ。迷っちゃいかんよ」といわれてはじめてプロのマウンドを踏んだ。一球目を投げるまではさすがに緊張したという。だが第一球のストレートを広瀬が打って凡退してからおちついた。そして初登板を白星でかざってプレートを下りた。だが帰りのバスの中で青木はさっぱりうれしそうではなかった。「別に疲れていない。シュートとストレートを半々ぐらい。カーブはコントロールがないのであまり投げなかった。いい当たりをされたのはみなカーブがプレート真ん中へ寄った球ばかりです」とあっさりしたもの。「走者が出ると長打がこわかった」といったが、あまりこわそうでもない。むしろ「どうだい?よかったろう」という監督の顔の方がうれしそうだった。神奈川工時代は内野手、監督学院大に入ってから野球部監督の水谷則一氏(元太陽ロビンス)にすすめられて投手に転向。投手にかわって三年目を迎えたところである。1㍍72、78㌔、二十二歳、右投右打、背番号56。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飯尾為男

2016-09-04 12:11:47 | 日記
1960年

三塁側ベンチのすみっこで飯尾と記者団との対話。ー昨年までいた東映相手に初めてで投げにくかった?「最初はいやだったね。この間はブルペンで投げていて東映のファンとケンカしたりしてね。あまりひどいヤジをとばすので・・・。こっちは東映のためにずいぶん働いたんだから、なにもいわれるスジアイはないよ。しかしきょうはヤジも案外少なかった。スタンドもベンチもね。だから何か勝たせてもらったような気がして、勝った気分が出ない」-調子はどうだった?「風がライトからレフトへ吹いていたでしょう。だからシュートがよく落ちた。しかしまだ本物じゃないね。もっとスピードも出ると思うし、シュートのブレーキもまだまだ切れが悪い」八回の無死一、二塁であっさり代わったが、西本監督はどういったの?「どうだというからどうでもいいですといったんだ。まかせますと答えると、ふつうは、じゃあ投げろというものだけど(ここで声を少し落とし、ベンチの真ん中にいた監督の方をチラッと見てから)代われといわれた」-どうでもいいなんていうからだよ。投げますといわないからだよ・・。「そりゃあ、調子がもっと出ていればいいますよ。しかしまだほんとうの調子を自分では思っていないんだから・・。試合前から気分がよくなかったんですよ。ホラ、ここにもらい目をつくって(と顔をつき出してみせると左目の下がはれている)断ろうかと思ったんだが、新入りの二等兵が断るわけにもいかないのでね」-これで四勝無敗、オールスターに出る望みもできたじゃないか・・。「とても、試合数が少ないからムリでしょう。まだ四十何イニングくらしか投げていない。ことしの目標?これで四勝できたから五勝ですね。あと一勝だ」(とニヤニヤ笑う)試合前は「きょうはアウト・ローへのスロー・ボールでいきますよ。というと、みな笑うけれど、スロー・ボールでもあすこへきまると打ちにくいものですよ」と冗談とも本気ともつかぬことをいっていた飯尾は、その十年選手らしいペースを試合のあともくずさなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ボトラ

2016-09-04 11:25:27 | 日記
1960年

「極端にいえばプロ野球もストリップも同じみせものなんだ。本人は、もう少し待ってくれ、といっていたが、打たれてもいいから2イニングだけ投げてみろ、といっておいたんだよ。それにしてもみごとな打たれ方だったな」試合終了後、千葉監督はボトラの先発起用をこう説明した。ボトラには投手経験はもちおんない。ボトラは強肩を買われて二週間前から藤井寺球場でピッチングをつづけていた。この日も藤井寺へいく予定だったが、昨夜電話で千葉監督から日生球場へくるようにいわれたそうだ。「ぼくとしては二十七日ごろベスト・コンディションにするつもりだった。だからきょうは力いっぱい投げていない。打たれたって平気なのはそのせいだ。きょうはストレートとカーブ、それにチェンジ・アップを少し投げたよ」と悪びれた様子もなくしゃべる。一回麻生に初球を三遊間安打されたボトラは二回表、麻生を二度目の打者に迎えたときビーン・ボールを投げるつもりだったという。「でも日本でビーン・ボールを投げるとうるさいから、内角へ投げた」らしいが、コースは真ん中、こんどは中越二塁打された。近藤(和)を一塁に置いて岩本の左翼ホーマーはカーブだった、このときたまりかねた千葉監督がベンチをとび出したが、ボトラはガムをかみながら降板しようとせず、千葉監督も苦笑したまま投げさせた。「ビジネスである責任回数の二回までは投げきった」とボトラはすました顔。しかし最後につぶやくようにこういった。「またバットを買ってくれるよ。ぼくはやはり打者の方が成功の近道らしい」千葉監督は「あくまでもテスト・ケースだ。ここ当分の間ボトラは投手として使っていくが、ダメならまた捕手にもどす。もちろん肩のよさを買ったのだが実のところボトラは現在使いようがない。遊ばせておくのももったいないし投手としてテストしているのだ。彼らは契約期間がかぎられているので、なるべく早く投手か捕手か見きりをつけたいと思う」といっていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西尾慈高

2016-09-04 10:58:23 | 日記
1961年

西尾はんは好投した。西尾はんとは移籍してきても大阪弁で冗談ばかりいっているところからつけられたナインの呼び名。ゲーム前もベンチで報道陣と軽口をたたき合っていた。「キミはマウンドでいつもニヤニヤしているな」といわれた西尾。「そうかな。そう笑ってばかりいるつもりでもないんだがな」と首をひねる。「いやキミはニヤニヤするくらいの方がいいんだ。まじめな顔をしているときは打たれているときだからな」といえば「それでは笑っていいのか、すまして投げるのがいいのかどうも迷ってしまうよ」などといっていた。三回から板東をリリーフすると、この夜はまじめな顔で投げつづけた。九回最後の高林を二ゴロにとると左手で自分のヒザをポンとたたいてやったというゼスチャア。「カーブでストライクをとった。そのあと落ちる球、シュート、フォークボール、ストレートを低目にミックスした。コントロールがよかった」といやにたくさんボールの種類をあげた。「エンディー(宮本のこと)を一番警戒した。いつもいじめられているからな。長島?(急に小さな声になったが)あれは別にこわくない」とこのときは堂々いってのけた。「予定はショート・リリーフだったが、それがこうなってしまったんですよ。阪神時代にも巨人に2勝から3勝はしていますよ。森に打たれたのは高目にはいった球。あれはしようがない」森に打たれていなければ板東と二人でノーヒット・ノーランだったが、そんなことはまるで興味がないといった顔をしていた。「今夜は飲むかって?いや飲まんです。節制、節制」節制のところを大声でいい、濃人監督の顔をちょっとみて出口へいった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バウアー

2016-09-04 10:29:39 | 日記
1961年

七回でプレートをおりたバウアーはむし暑いのに黒いコートをはおってベンチのすみに腰かけ、クチブエをならしながら試合を見ていた。みんなが暑さにフウフウいっているのにあまりこたえないらしい。水原監督は「なにせあいつは3A級ダラス(テキサス州)で働いていたから暑さには強いはずなんだ。だから先発は日本を出るときから予定していた」と愉快そう。さらにつづけて「それでもさすがにこたえらたしいぜ。六回になったら足がガクガクするといってたから七回までがんばれといったのさ」中西の大きなフライがとんだのがその七回。バウアーは「コンディション、よくなかった。セブン・インイニング中西ホームラン」と目をクリクリさせながら首をすくめた。多田コーチは「まじめな男でね。ぼくらがいわなくてもよくランニングもするし」とほめていたが、外人特有の茶目っ気も十分。「コントロールもよくなかった。ときどき高目へはいったからね。しかしシュートやスライダーがよく切れたから・・・」右手を大げさに動かしながら、シュート、スライダーのくりかえし。多田コーチのピッチング評は「スピードはちょっと物たりなかったが、変化球がよくきまった。コントロールもよかったよ。コンスタントにこのくらい投げてくれればウチにとって大きな戦力ですな」安藤捕手は「日本へきた当時からみると球が低目へきまるようになって、非常におちつきました。後半ちょっとくずれたけれども75点はやっていいでしょう」といっていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ディサ

2016-09-04 10:07:46 | 日記
1961年

このところディサの登板回数は多い。「ディサの出て来るのを待つのではなく、早く一人前に育てる」と宇野監督の方針が変わったためだ。これは大毎の投手事情にもよる。大毎投手陣はエース小野が不安定なうえに、若生、中西、西田、三平と働かなければならない投手連に迫力が見られず、四苦八苦している状態。「ディサと杉下は夏場のつなぎにでもなれば・・・」といっていたキャンプ中の甘い考えを改めなければならないところまで追いつめられたからだ。ディサが名を知られるようになったのは、一昨年卒業した日本の高校選抜チームを破ってから、ハワイ高校選抜チームの投手だったディサは、日本チームを五安打の一点に押え2-1で勝った。同行した朝日新聞の好村記者は「球がものすごく速く、一点を取るのがやっとだった」と感心していた。昨年高林(巨人、当時熊谷組)らのノンプロ選抜チームが、ハワイへ行った時も、ディサにひねられ「ハワイに好投手あり」と宣伝された。このためディサは引っぱりだこ。アメリカ大リーグのプレーブス、ジャイアンツなど四チーム。日本の大毎、南海、東映、中日などが猛暑な引き抜き合戦をやった。ディサの魅力は、その快速球だろう。打者と真っ向から勝負する投球は、いかにも若さにあふれていて気持がいい。ただ難点はコントロール。出来、不出来の差が極端に激しい。六月五日、後楽園での東映戦には、三回投げて、東映の猛打をあびてノック・アウトされたが、十五日駒沢の同じ東映戦では、コントロールも良く完投勝利を記録したのが、そのいい例。田中コーチも「コントロールにまだまだ研究の余地がある。このためチェンジ・アップ、シュート、カーブなどいいものを持っていながら投げられない。コントロールさえつけば、もっともっといい投球をすると思う」といっていた。ディサが未完の大器で終わってしまうかどうか、それはコントロールをつけることが出来るかいなかにかかっている。しかし最近は、ぼつぼつコントロールも良くなりつつあるようだ。宇野監督は「コントロールが悪いというけれど、このごろは以前のような荒れ方はしない。だから荒れると思って待っているとストライクを取られる。これからは威力を発揮するよ。大毎追い込み戦になくてはならない投手だ。パの新人王候補だ」と高く実力を評価している。性質はいたっておとなしく、明朗。ただ、やや気の弱い面もある。去る五日、東映にノック・アウトされた時、ダッグアウトのスミで、しばらくの間泣きじゃくり、なかなか着がえにゆかなかったそうだ。「何分にもいなか着でして」と田中コーチはいっていたが、一度や二度のノック・アウトにへこたれない強さが欲しい。趣味は映画と漫画本を読むこと。目下、日本語の勉強に大わらわ。言葉が出来ないと、捕手やその他の選手との連絡がうまくいかず、つまらぬ点をやってしまうことがある。これが一番身にこたえるらしい。田宮、荒巻といった先輩が、なるべく日本語でしゃべるようにと注意してやっている。二十三日現在、十四試合に出場、三勝四敗、防御率3・63はちょっともの足りない。二十歳。

ディサ投手の話 日本の打者はみんなこわい。少し調子が悪いとすぐ打たれてしまう。これからはコントロールを身につけて、球をコーナーい散らして行きたい。それと言葉が大事だと思う。バッテリー間のサインにしても、言葉が出来ないと、なかなか思うようにならない。何勝などは考えていない。ただ全力を尽くすだけ。

東映毒島選手の話 球はたしかに早い。しかしコントロールに難点がある。ウチとやっただけでも、いい時と悪い時がはっきりしている。コントロールさえつけば、立派な投手になるだろう。直球のほか、時折り投げるカーブにも威力があるようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする