Doll of Deserting

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凄艶な名。(氷上の蒼。余章)

2005-12-03 20:01:46 | 過去作品連載(捏造設定)
*こちらの諸注意をよくお読みになってから、「氷上の蒼」をご覧になった上でお読み下さい。



 青く苦く、喉に透き通るその名を。


 ひたひたと何かが近付く音のみが響いていた。イヅルはそれが何なのか理解していたつもりであったが、いざそちらに目を向けるとやはり恐ろしかった。伯父の家の客間といえど、緊張感が拭われることはない。初めてギンと出会った日であったが、その時にはまだギンの名を知ることはなかった。ただ、近付いてくる足音の主に男と逢瀬を交わしたことが知れたのではないかと、そればかりを思っていた。



「…何の御用ですか、伯母様。」
 思えば、伯父よりも浅ましかったのはむしろ伯母であった。夫婦揃って、とはよく言ったものであるが、この伯母ほど恐ろしいものもいなかった。彼女は何か怪しい手法でも使っているのではないかというほどに若く、美しい見目を保っていた。
 イヅルの問いに伯母は薄く笑い、整った艶やかしい黒髪を指で梳いた。伯母が髪を結っている様を終ぞ見たことはなかった。いつもその髪がよく見えるように腰まで垂らし、着物も淫靡な具合にはだけていた。だらしがないと諭す者も多くいたが、彼女がそれを聞き入れることもなかった。
「何の用、ということもないんだがね。」
「それではなぜこちらへ?」
「…相変わらずお前は可愛げのない餓鬼だね。可愛い甥っ子との逢瀬も理由がなけりゃ許されないのかい?」
 伯母が言うことは、大抵伯父と同じだった。可愛い、とはよく言ったものである。この伯母にいつイヅルを可愛がろうとしたことがあったというのか。既に、伯母を見つめる目は冷めていた。それは自分でも分かっていたが、あまり不快感を露にすると後々面倒なことになりそうだと思い、なるべく平静を保つよう気を付けていた。
「…お前、今日男と会ってたね。」
 イヅルの身体が瞬時にびくりと震える。伯母はそれを見て満足そうににやりと笑った。
「…伯母様のお気になさるような間柄ではございませぬ。」
 この伯母ときたら、イヅルが女と逢瀬を交わすことより、こと男と関わりをもつことについてよく小言を言った。それはおそらく、伯母がイヅルの父に懸想していたからであろう。伯母は毛色の違うシヅカが景清のことを誑かしたのであると、いつもそう決定付けたがった。だからこそシヅカに瓜二つと言われるイヅルのことも、魔性であると触れ回りたいのだろうと思った。二人を失った今、そうすることでしか伯母は自分を慰められないのだから。
「お前と同じ、毛色の珍しい男だった…。あたしはあの男を知ってるが、どうだい。男の名を知っているかい?」
「…いいえ。」
 伯母は、にたりと勝ち誇ったような顔を見せた。大層艶めかしく美しい容貌をしているにも関わらず、そういった表情しか浮かべぬために美貌も台無しである。どうやら伯母は、あの美しい銀糸の男を知っているらしい。両親と知り合いだと話していたので、不思議ではないとイヅルは思うことにした。決して伯母が特別なわけではないのだと、なぜだかそう思いたかった。
「知りたいかい?…あの男の名を。」
「…いいえ。」
「強がらなくていいんだ…。お前はあの男に言い寄られたようじゃないか。そんなことをされておきながら、名も素性も知らないっていうのは居た堪れないだろうよ。」
「いいえ。次会うことがあればあの方から直接お伺いします。」
 どこまでも名を知ることを、否むしろ伯母そのものを拒絶するような物言いに、彼女の眉が吊り上がった。そのままつかつかとこちらへ向かって来ると、鮮やかな着物の色を揺らしながらイヅルの頬を打った。想定してはいたが、予想より強い痛みにイヅルの表情が歪む。
「お前はあの女にそっくりだ…!見透かしたような目であたしを見ながら、易々とあの人を奪っていった…。イヅル、どうしてお前はそうなっちまったんだい。」
「…母は、決して父をあなたから奪ったわけではございません。父は自分のことを寂しい人間であるといつもおっしゃられておりました。母は聡いからこそそれに気付いたのです。ならばあなたは、僕の両親の間に愛など存在しえぬとおっしゃるのですか!」
 むしろ、誰が父のことを追い詰めたと思っているのか、とイヅルは声を荒げた。景清が常々「寂しい」と口にしていたのは、決して孤独であるという意味ではない。幼き頃から異常なまでの愛情を表現してきた伯母が恐ろしいと、そう感じていたとシヅカに話していたのをイヅルは聞き及んだことがあった。
 伯母の執着とは凄まじいものであった。それこそ景清が伯母のことを愛せるはずなどないというほどに恐ろしく、そして凄絶なのである。景清から「人間」というものを遠ざけていたのも伯母であった。だからこそ景清は狂うことを懸念された両親から、早々に霊術院へと入れられたのだそうだ。そのため景清は、愛というものは寂しく、浅ましいものであるとそう思いながら育ってきた。
「…イヅル、お前は駄目な子だ。目上の人間に対する物言いがなっちゃいない。だけどそうだねえ、余計に賢く育ったみたいじゃないか。おかしなことをよく知っちまったようだ。…そうだ、ご褒美をあげよう。あたしもお返しに、いいことを教えてあげるよ。なぁに、お前にとっちゃ無駄なことと変わらない。」
「…何のことでしょう。」
「よぉく覚えておくといい―…あの男の名は、」
「―…!」
 伯母が言うのと同時に、イヅルがきつく耳を塞いだ。彼女はそれを見て、再びにたりと笑うと、イヅルの腕を強く掴んで引き寄せる。それに抗うイヅルの姿は、やけに儚く見えた。
「どうしたんだい?知りたいんだろう。お前が誑かした男の名だ。景清と同じ、お前達の香に誘われた男の。」
「―…あなたの声で、あの方のお名前を紡がないで頂きたい。」
「何だ、お前はあの男に惚れてるんじゃないのかい?」
「いいえ、いいえ…。あの方は、そのような言葉で言い表して良いお方ではございません。」
 イヅルの言葉に、どうやら相当心を奪われているらしい、と伯母が更に口唇を吊り上げた。神聖だとでも言うのか。あのような血に塗れた男を。あのように冷めた色を纏った男を、神のようだと崇めるのか。そう思い、彼女はふと嘲笑した。
「そういうところが甘いんだって、昔から何度言えば分かるんだろうねえ、お前は。」
「…え?」
「好きな男なら、自分のものになるまで思う存分束縛してやればいい。それが出来ないから愛されるんだろうけどね、お前達は。…虫唾が走る。」
 はっと言い放つと、伯母はイヅルの柔らかい髪を掴み、唇を寄せた。そのまま耳元に口を持っていくと、低い声で囁く。まるで差し迫る恐怖そのもののようだとイヅルは思った。
「…名前を知りたくないんなら、換わりに教えてやろう。」
「…。」
 鋭い視線で伯母を睨むが、彼女はいっこうに怯む様子を見せない。例え耳を塞ごうとも、今度は逃れられぬであろうということは嫌になるほど分かった。伯母はイヅルの耳に唇を寄せたまま、おどおどろしい声で低く笑った。
「あの男はね、あたしを抱いたんだよ。」
「…あなたとあの方に、そこまでの接点があるとは思えませんが。」
「いいや違うね。あたしが旦那に身請けされるまで、どこにいたか知っているだろう?」
 伯母は、景清や伯父と昔馴染みであったが、景清が霊術院にいる間に家が没落し、郭で生活していたことがあった。親族が消息を追う間もなく家のかたにと攫われ、そのまま男の慰み者になることを続けていた彼女は、長年弟に心を奪われたままであった伯母を恋い慕っていた伯父によって、懸命に溜め込んできた財産で身請けされるまで、思わず目を背けたくなるような日常を過ごしていた。帰ってきた頃には更に狂っていたおうであったと、誰かが語った話である。
「それで、どうしたのです。」
「ある時店に大層身なりのいい男が訪ねてきたんだ…。特に上等な着物を着てたってわけじゃない。ただ、黒い袴の上に白い羽織を重ね着てたってだけの話さ。でもねえ、店の奴らときたらそれだけで動揺しちまって、やたら頭ばっかり下げて気色悪いったらなかった。」
「その方は、もしや。」
「ああ。今もいるかは分かりゃあしないけど隊長さんだよ。何せそんなに敷居の高い店じゃないもんだから、隊長格が来たってだけでうるさいったらありゃしない。その人は、男を一人連れてたんだ。それが誰だか分かるかい?」
「あの方…ですか?」
「そうだ。それでその隊長さんときたら、何て言ったと思う?この男は女を抱いたことがないから、適当に選ばせて抱かしてやってくれって言うんだよ。」
 全く馬鹿にされているんじゃないかと思った、と伯母は笑う。イヅルはそれを黙って見つめていた。大層可笑しそうな顔をして、彼女は更に続けた。
「もう分かるね。選ばれたってわけじゃないけど、その時駆り出されたのがあたしさ。」
 その場の空気が凍りつき、温度が二度、いやむしろ五度ほど下がったような錯覚に陥る。目を見開いて瞠目するイヅルの顔を、おそらく母がそうしているように思えるのであろう。伯母は尚もくつくつと笑いながら見ていた。
「可笑しな因縁じゃないか。」
 何事もなかったかのように伯母が呟く。イヅルは朦朧としつつも意識を保っていた。むしろこのまま眠ってしまった方がいいのかもしれないとも思いはしたが。
部屋の中の温度は徐々に戻ってきた。だがしかし伯母とあの人の間に残る確執だけは、永遠に消えることがない。目の前の女は相も変わらず黒々とした髪を振り乱しながら笑っている。まるで遊女に戻ったかのように肌蹴た紅い着物が痛々しい。
「どうだいイヅル、いっそあたしを抱いてみるかい。」
「…誰がそのようなことを。」
「間接的にあの男と繋がることが出来るかもしれないよ?」
「誰が…!」
 じゃああたしがお前を抱いてやろうか、とからから笑い声を上げながら伯母が言い放つ。今更だが、やはり彼女は狂っているのだとイヅルは改めて確認する。性情は元より、尋常ではない環境がそうさせたのであると分かってはいた。そしてその環境を造り上げたのは、他でもない吉良という一族なのだということも。
「お帰り下さい。」
「…追い返すのかい?お前まで…お前まであたしを。」
「あなたがどなたに抱かれようと、あの方がどなたを抱いていようと構いません。しかし―…あなたは少しお休みになられた方が宜しいかと存じます。」
 近頃伯父と伯母が不仲であるということは知っていた。しかし、それがイヅルを虐げて良い理由になるかといえばそうではない。イヅルは控えめに、しかし厳かに淡々と言い放つと、緩慢な動作で伯母が足を引いた後襖を閉めた。伯母は一瞬悲しげな顔を見せたが、それには何も返さなかった。思えばあの人は寂しかったのか、と今でこそ思う。



 伯母は、心臓を患っていた。そのことを知ったのは、伯母が急死を遂げた翌年のことである。しかしその症状を誰にも悟らせることなく、静かに逝った。最期の瞬間、人が変わったように穏やかに伯父の名を呼んだことだけが、イヅルの胸に深く刻み込まれている。伯母は伯父に愛情など感じていないと思っていたが、長く連れ添った伯父には、やはり親愛のようなものを募らせていたのかと顔を俯かせたのを覚えている。
 とうとう初めて女を抱いた時のあの人のことを聞く機会はなかったが、それで良かったとも思う。聞くだけならまだいいが、それによってあの人が女を抱く様を想像してしまうのは恐ろしい。そして、あの人に抱かれた伯母の口があの人の名を紡ぐことも、やはり恐ろしい。



「ボクな、市丸 ギン言うねん。」
「いちまる、さん…。」
 


 紅く清く、喉に透き通るその名を。





■あとがき■
 ええとお気づきの方はいらっしゃるでしょうか。少しばかり「哀憐の灯」とリンクしております。が、哀憐の灯は余章のつもりで書いておりませんので、噛みあわない点が多々あるかと。(汗)
 ええと何だか凄まじいお話になりましたが、性表現はありませんので表にしました。どうなんでしょう。大丈夫でしょうか…?