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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

「国民外交」の立役者、渋沢栄一

2010年06月11日 | 博物館など
王子の渋沢史料館を訪れた。史料館がある飛鳥山は渋沢栄一(1840年3月16日~1931年11月11日)が1901(明治34)年に本邸を建てた地である。敷地が2万8000平方メートル、延べ床面積1900平方メートルの大邸宅だった。建物の大部分は45年4月の大空襲で焼失したが、82年跡地に史料館が開館した。地上2階、地下1階1650平方メートルの現在の建物は1997年に新築された。

まず1階のかなり大きい会議室で25分間の渋沢栄一の生涯の映画をみる順路になっている。要領よくまとまった映画だったので、深谷の渋沢栄一記念館に行く前にこの映画をみておけばよかったと思った。
2階では、「郷里にて」から「91年の生涯を終えて」まで9つのコーナーに分けて、栄一の生涯が紹介されている。昨年「小さな旅・深谷」で栄一の生い立ちや、関係した企業、「論語と算盤」、社会公共事業について紹介したので、ここでは5番目のコーナー「民間外交を担う」の展示を中心に書く。
栄一が幕臣時代にパリを訪問したことは有名だが、アメリカにも4回行っている。はじめて行ったのは1902(明治35)年62歳のとき、ルーズベルト大統領と会見した。2回目は日露戦争後の1909年、3回目はパナマ太平洋万国大博覧会視察を兼ねた1915年、最後は1921年81歳のときワシントン軍縮会議の視察を兼ねてだった。当然船旅で、片道2週間ほどかかった。
2回目の訪米について地図や写真とともに詳しい展示があった。この訪米は渡米実業団によるもので、栄一は団長として参加した。栄一は69歳、訪米の2か月前には関係していた多くの企業や団体の役職を辞職していた。
渡米団は総勢51人の大チーム、団員は東京、大阪、横浜、名古屋、京都、神戸の各商工会議所を代表し、いわばチーム・オールジャパン財界だった。鐘ケ淵紡績社長、東京電灯社長、大阪商船社長など実業界の人が多いが、学習院教授、大阪朝日新聞社員、市立京都陶磁器試験所長、横浜水道局工師長もいた。根津嘉一郎(東武鉄道)、松方幸次郎(川崎造船所)、巌谷小波(小説家)も団員だった。
日本を出発したのは8月19日、9月1日にシアトルに入港し、大陸を横断してボストンやニューヨークを訪れ、帰りは少し南のコースをたどり、シンシナティやデンバーを訪問し、サンフランシスコを出港したのは11月30日だった。
見学したのは、たとえばシアトルではレーニヤー麦酒製造所、練乳製造所、製粉会社、シカゴではトリビューン新聞社やエジソン電気会社、デトロイトではミシガン・ストーブ製造、薬品製造所、バロース計算器製造所、パッカード自動車製造、ニューヨークでは手形交換所、大蔵省分局、株式取引所、コロンビア大学、ピッツバーグではハインツ(缶詰)、カーネギー製鋼所 ウェスチング・ハウス電機工場、ピッツバーグ板硝子製造所などだった。じつに62都市を訪問し、帰国したのは12月17日と4か月にわたる長旅だった。

1916年、栄一は日米関係委員会の委員長となる。この委員会は3回目の渡米でサンフランシスコを訪問したとき現地の人と協議し、両国で同じ趣旨の委員会を立ち上げることを決め翌年設立した委員会である。
22年11月22日に東京銀行倶楽部で行った議事録が展示されていた。この日の18人の参加者リストには、渋沢のほか、服部金太郎(服部時計店)、浅野総一郎(浅野セメント)、団琢磨(三井合名)、藤山雷太(大日本製糖)らの名前がみえる。賓客として外務大臣、外務次官、通商局長、欧米局長らが出席している。
発明王エジソンが1923年11月21日に栄一宛てに書いた礼状が展示されていた。エジソンの75歳の誕生日に電気スタンド、レコード、映画フィルムをプレゼントしたことへの礼状だった。栄一が民間外交を積極的に展開していたことがわかる。
ところが1924年7月1日排日移民法が施行され、日米関係は悪化の一途をたどる。そこで1925年にはホノルルで太平洋会議を開催した。この会議に日本は1936年まで参加した。また26年に各国民の相互理解を深めるため、日本太平洋問題調査会を設置した。調査会は栄一が評議員会長、井上準之助が理事長として発足、その後29年に新渡戸稲造が理事長に就任した。研究面の中心人物は高木八尺(やさか)東京帝大教授だった。栄一は京都で開催された第3回太平洋会議に参加したが、すでに89歳だった。
1920年国際連盟の精神を広く普及するため各国に国際連盟協会が設立されたが、日本では栄一が会長の「日本国際連盟協会」が発足した。28年11月第一次大戦終戦10周年の日、栄一はラジオ放送で「御大礼ニ際シテ迎フル休戦記念日ニ就イテ」というタイトルの演説をした。そのときのレコードが残っており音声を聞くことができる。
「国際間の経済の協調が、連盟の精神を以って行はるるならば、決して一国の利益のみを主張することは出来ない。他国の利害を顧みないと云ふことは、正しい道徳ではない。所謂共存共栄でなくては、国際的に国を為して行くことは出来ないのであります」と主張する。いま聞いても立派なものである。このとき栄一は88歳だった。
日本軍は居留民を守るという口実で北京、天津、上海などの各都市に軍隊を駐留させた。徐々に増強し中国に無理難題を押しつけ「侵略」を進めていった。列強各国と同じだったとはいえ、栄一の考えとは隔絶した行動に思える。
1927年アメリカの子どもたちが日本に「青い目の人形」1万2000体を贈った。野口雨情・本居長世の歌でいまも語り継がれる。答礼として、日本から58体の日本人形をクリスマスに贈った。人形の交換に栄一が関与したことは有名だが、都道府県配布数など詳しい資料が展示されていた。1位は北海道の643体、2位東京568体、3位大阪429体、4位兵庫373体と続く。

栄一はアメリカとの協調をめざしたが、不幸な結果に終わったことはだれもが知る歴史のである。21世紀の現在、自民党の外交政策を継承した民主党政権により日米「同盟」という軍事同盟至上主義が推進されている。一方、鳩山小澤主導の中国重視のアジア共同体路線とのせめぎ合いがみられる。通商経済の二国間関係で、米中・日米・日中は不可欠なパートナー関係を形成している。こういう時代に明治の財界人・渋沢が推進した「国民外交」の意味は再考する価値が大きい。
なお、栄一の日中関係では、展示で孫文の1924年9月18日付けの書簡や栄一が発起人となった1931年8月の「中華民国水災義捐金募集趣意書」が展示されていた。
また、変わったところではインドのタゴールやフランスのポール・クローデルと一緒に撮った写真が展示されていた。クローデルが駐日大使をしていた1924年に渋沢の尽力で日仏会館が完成したからだ。
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