多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

井筒和幸の「映画づくりの原点」

2010年06月14日 | 日記
こ6月6日(日)夜、新宿の紀伊国屋ホールで、井筒和幸監督の「映画づくりの原点を語る」という講演会が開催された。監督の新著「ガキ以上、愚連隊未満。(ダイヤモンド社 1680円 2009年5月)の発刊を記念したイベントだった。客の入りは7割くらい、私はこの種の講演会には参加したことがないので、監督のディープなファンは意外に多いものだと思った。この本は、井筒監督が映画を撮り始めた「行く行くマイトガイ 性春の悶々」(1975年 三上寛 茜ゆう子)から「岸和田少年愚連隊 BOYS BE AMBITIOUS」(1996年)までを回顧した著書である。

わたくしがはじめて井筒監督の作品をみたのはいまから30年近く前、「ガキ帝国」(1981年・島田紳助・松本竜介) だった。暴力シーン、とくにラスト近くの、フォークリフトで不良グループ北神同盟会長の頭を串刺しにするシーンは強烈だった。その後、しばらく間隔が開いて「のど自慢(1999年 室井滋 尾藤イサオ)、「ゲロッパ! GET UP!」(2003年・西田敏行 常盤貴子)、「パッチギ!(2005年・塩谷瞬、沢尻エリカ) 、「パッチギ! LOVE&PEACE(2007年・井坂俊哉 中村ゆり)を見た。
岸和田少年愚連隊 BOYS BE AMBITIOUS(1996年・矢部浩之・岡村隆史)はビデオで見たが、あまり好きになれなかった。
以下、講演から監督の映画づくりの本質に迫る部分をピックアップして紹介する。
この日のテーマである井筒監督の「映画づくりの原点」は、監督が高校時代に考えた「なぜ人は会社や国家に体を売って働かないといけないのか」という哲学的な問題だった。 何ものにもなりたくないというのが、監督の本音だった。セックスシーンを入れれば映画が売れるらしいと聞き込み、みんなで安くつくった映画が「行く行くマイトガイ 性春の悶々(1975年)だった。しかし日比谷の日活本社の試写室にフィルムを持ち込んだもののプロデューサーから返ってきたのは「ゴメンネ」の一言だけだった。大垣行きの帰りの夜行列車に乗るため歩いた有楽町から東京駅までの道の遠さ、10分で1本、合計5巻20キロのフィルムの重さがいまも感覚として両手に残っているという。
若松孝二監督の映画づくりの原点は怒りであり、21歳のときの「警官をいつか殺してやろう」、「やっつける方法として『表現』しかない」だった。これとは異なる「原点」を聞くことができた。
初作品は大阪の吉本キネマに頼み込み、4本立ての1本として1週間ほど上映されたのにとどまったが、「映画をつくる若者たち」として週刊大衆などで紹介され、ジョイパックフィルムから注文が来た。その後ATGの佐々木史朗社長と知り合い1000万円映画「ガキ帝国」の制作へとつながる。
しかし「ガキ帝国」完成後、公開までの2か月間「思うような映画はつくれなかった。自分は映画に向いていない。この作品を人さまに見せるのは恥ずかしい」と落ち込んだ。そして毎日ビール1本だけでミナミの寿司屋に入り浸った。「ビール、1本!」は「ガキ帝国」のラストのセリフだ。映画はそれで終わっても現実の世界ではビール1本の後、生活していかないといけない
その後も映画ができると1年くらい「なぜモノをつくらないといけないのか、なぜ映画を撮らないといけないのか、また体を売らなくてはいけないのか」と同じ問題に戻っていった

ゲロッパ」は、高円寺のバーでプロデューサーとたまたまジェイムズ・ブラウンのテレビ番組を見たことから生まれた。ブラウンは、6歳でオーガスタで靴磨きをし7歳で綿花畑で働く悲惨な生活から這い上がった芸人だ。ブラウンがやっていることも、僕たちがやっていることも芸能だ。芸能は体を売ることとは対極に位置する活動である。
それで、芸能とは何か考えた。芸能は、見る人をときには喜ばせ、ときには恐怖に陥れる。日本の芸能は京都・鴨川の乞食芸をしていた人から始まった。乞食芸とは何か、そして乞食芸をみることで人間の精神にどう影響するのか。芸能のひとつである映画は、見る人にどう影響するのか、つくる人にどう影響を与えるのか。
人間はどんなふうに暮らし、何を思い、何にこだわり、どんなおぞましい世界を夢見て、どれほど幸せなバカさ加減に浸るのか、それを観察し表現するのがぼくらの芸能なのだ
会場から、最新作「ヒーローショー(2010年 後藤淳平 福徳秀介)について、監督が語った「石川勇気は孤独、鈴木ユウキは絶望」という言葉の意味を教えてほしいと聞かれ、次のように語った。
先日「イージー・ライダー」の監督・主演、デニス・ホッパーが亡くなった。この映画のテーマはアメリカの自由と希望といわれるが、井筒監督は「孤独と絶望」を感じ取った。日本で公開された70年1月は、監督が高校2年の正月明けだった。同級生は受験勉強をスタートしようという時期に、クラスでただ1人監督は「体を売る人生は選択しない」ことを決意した。こういう生き方を試せるものなのか。絶望を友にしないと生きていけない、また孤独を友にしないと前に進んで行けない。イージーライダーの主人公のようにライフルで撃ち抜かれないよう生きるにはどんなビジョンを持てばよいか。安易に希望や展望を語る「正」のことばは信用できない。「負」の言葉である「絶望や孤独」は目の前にあることなので実感として信じられる。人間は、そのなかでなんとかやっていかないといけないと思う。

90分の監督の講演は、山口組田岡組長の自宅にアメ車を借りに行った話、若松孝二や大島渚とのエピソード、アミを張っていればだれかが現れ寿司をおごってくれる話、相米慎二と飲み歩き、札幌までツブ貝を食べに行った話など、全編漫談のようだった。しかし本質は、人生を深く考えるマジメな人のようだった。

☆井筒監督は、9条の会でよく講演するそうだ。岩波ブックレット「憲法を変えて戦争へ行こうという世の中にしないための18人の発言(2005年8月)を読んだ。中村哲、美輪明宏、香山リカ、辛酸なめ子ら18人が発言しているが、監督は、平和憲法を日米安保や自衛隊が膨張したので、現実に合わせて改憲しようというのはおかしいと主張する。「日本人はよそ(外国)に『かまいに』いくんだと、そうしないとちゃんとした国じゃないんだ、というように話をすり替えてんのが気持ち悪いね。(略)自分でかまいにいってる奴(アメリカ)をかまいにいくというのが、一番おぞましいことですよ」「(憲法が)いっぺん変わってしまうと、どんどん右回りの蚊取り線香みたいな国になって、火がついたまま最後までいってしまうからね」
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「国民外交」の立役者、渋沢栄一 | トップ | 朴三石の「外国人学校はいま」 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

日記」カテゴリの最新記事