丸の内ピカデリーで「母と暮せば」(山田洋次 松竹 2015)をみた。
この映画館にははじめて来た。ここだけが1月下旬までフィルムで上映していると聞いたからだ。「この作品はフィルムで撮られたので、色彩と音がきれいだ」というようなテロップが流れた。スクリーンの大きい映画館だった。
この建物には松竹と東宝と朝日新聞社のマークが付いている。かつて朝日の本社があったことは知っていたが、いまも11階に朝日ホールがある。おそらくいまでも土地のオーナーなのだろう。
これまでの山田映画になかったこととしてCGの利用があった。冒頭のインク壺が原爆でグニャリと歪んだり、死者の世界の描写なのでレコードが宙を舞ったり、ハタキがポタリと畳に落ちたりだったが、それほど不自然ではなかった。
ただ死の瞬間や葬儀の際に、雲の階段を母と息子(吉永小百合と二宮和也)の2人が上って行くのはどんなものだろうか。たしかにだれも体験したことのない世界だからひょっとしたらこうなのかもしれないが、ちょっとウソっぽかった。「おとうと」(2010)で鶴瓶が亡くなる際、たしか石田ゆり子が「鉄ちゃん、もう楽にしていいのよ」」と声をかけるシーンのほうがリアルだった。
CGではないが、幽霊は母と子どもにだけは見えるというのは妙にリアリティがあった。
役者では「上海のおじさん」役・加藤健一がよかった。たとえばこまつ座の芝居でいうと、いまは亡きすまけいのようなコミカルな役だった。こういう役もできるということがわかった。また復員局長崎出張所の職員役・小林稔侍も、静かな演技、しかし左手先がない傷痍軍人として好演していた。
ディテールへのこだわりがすごい。でてくる料理でいうと、たとえばイワシの塩焼き、とろろこんぶの三角おにぎりなど、昭和23年の食事というといかにもこんな感じだったのだろうと思った。「プログラム」で知ったことだが、建具やふすまの柄がいまとは違うので一から作ったとか、布団の柄も違うので当時の布を探して布団屋さんに作ってもらったり、助産婦かばんは京都の博物館から借用したとか、並大抵ではない。中に入っているハサミなどの医療器具も専門書をみてつくったそうだ。
音楽に触れないわけにはいかない。
坂本龍一作曲の静謐な弦楽合奏の曲、ラストの合唱曲「鎮魂歌」はもちろん印象深いがそれだけではない。町子(黒木華)が生徒たちに囲まれてオルガンで弾く「背くらべ」。情景は「母べえ」(2008)で、吉永が国民学校で弾いていたのと同じだ。しかし曲が戦前の天皇奉祝日の式の歌だった。戦前と戦後の違いが表れている。また「背くらべ」は男はつらいよ12作「私の寅さん」で前田武彦と寅さんが「柱のきずはキリギリス、5月5日のキリギリス」と替え歌で歌っていた曲だ。
旧制山口高校の寮歌や「わたしのラバさん」も流れた。メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲1楽章(独奏はメニューイン)は、町子が浩二の部屋で二人で聞き、町子が黒木と結婚するきっかけになった曲でもある。
山田監督には珍しい純愛のラブロマンス作品であり、また原爆や戦争で死んだ人々への鎮魂の映画である。「原爆は運命じゃない、悲劇よ」という母のセリフが印象的だった。戦後70年の年、戦争法成立の年に完成したことは意義深い。
なお松竹創業120周年記念の映画でもある。
この映画館で「山田洋次×井上ひさし展」のチラシをもらったので、市川市文学ミュージアムまで行ってみた。
本八幡の駅から徒歩15分ほど、産業科学館、ゴルフセンター、テニス場、商業施設などの一角にあり、映画館では「母と暮せば」も上映中だった。中央図書館の2階にあるのだが、かなり広い平面式の図書館だった。
井上は20年ほど市川の江戸川に近い下矢切に住んでいたので、このミュージアムではもともと井上の書籍や資料をずいぶん集めていた。
展示では「母と暮せば」の小道具や衣装、藪野健さんのイメージスケッチが並んでいた。母の診察かばんやハサミなどの道具は映画にも出てきたが、昭和23年7月からの妊婦診察録やそのなかの妊婦名簿もあった。山口高等学校の旗もあったが東京鴻南会と書かれていた。調べてみると同窓会の名前(ただし2015年5月に解散)だったので、本物をOBの方からお借りしたのだろう。
原爆の記録で「教授遺族の手紙」というページがみえた。文章までは読めなかったが、川上教授死亡のエピソードはこういうものから取られているのかもしれない。
山田監督関係では、わたくしは初期の「二階の他人」(1961)、「運が良けりゃ」(1966)のポスターをはじめてみた。「運が良けりゃ」で、早くも渥見清と倍賞千恵子が共演していた。
1階の図書館で、久しぶりに「父と暮せば」のシナリオ(新潮文庫)を読んでみた。「うち生きとるんが申しわけのうてならん」「なひてあんたが生きとるん。うちの子じゃのうて、あんたが生きとるんはなんでですか」というセリフは「母と暮せば」と共通だ。ただ映画と戯曲の違いもあるのだろうが、突っ込み方やこだわり方のレベルがずいぶん違うように感じた。たとえば「父と暮せば」では「うしろめとうて申し訳ない病」と父が娘に名づける。また恋人・木下は原爆瓦や原爆資料をたくさん美津枝(みったん)の家に預けるという設定になっている。亡くなった親友は「モンペのうしろがすっぽり焼け抜けとったそうじゃ。お尻が丸う現れとったそうじゃ。少しの便が干からびてついとったそうじゃ・・・」。「母と暮せば」にも町子の親友で亡くなった女学生がいたが、ここまで迫力のあるシナリオにはなっていなかった。
わたくしは1994年の初演、梅沢昌代とすまけいのときに見たが、終演後天井のライトがつくと泣いている人が多数だったのをよく覚えている。
黒木華は「小さいおうち」などで、いい役者であることは知っているが、こんなに大きなショックを受けた女性の役をやるには、梅沢と比べるとまだまだキャリア不足であると感じた。
3月12日公開の「家族はつらいよ」の資料がいくつか展示されていた。妻が離婚を切り出すシーン、シナリオの10-11p目が開かれていた。また離婚届(小道具)があったが、それによると住所は青葉区美しが丘2丁目、年齢は夫が現在74歳、妻が71歳、結婚48年目という設定だった。山田監督の21年ぶりの喜劇ということだが、期待できそうだ。
この映画館にははじめて来た。ここだけが1月下旬までフィルムで上映していると聞いたからだ。「この作品はフィルムで撮られたので、色彩と音がきれいだ」というようなテロップが流れた。スクリーンの大きい映画館だった。
この建物には松竹と東宝と朝日新聞社のマークが付いている。かつて朝日の本社があったことは知っていたが、いまも11階に朝日ホールがある。おそらくいまでも土地のオーナーなのだろう。
これまでの山田映画になかったこととしてCGの利用があった。冒頭のインク壺が原爆でグニャリと歪んだり、死者の世界の描写なのでレコードが宙を舞ったり、ハタキがポタリと畳に落ちたりだったが、それほど不自然ではなかった。
ただ死の瞬間や葬儀の際に、雲の階段を母と息子(吉永小百合と二宮和也)の2人が上って行くのはどんなものだろうか。たしかにだれも体験したことのない世界だからひょっとしたらこうなのかもしれないが、ちょっとウソっぽかった。「おとうと」(2010)で鶴瓶が亡くなる際、たしか石田ゆり子が「鉄ちゃん、もう楽にしていいのよ」」と声をかけるシーンのほうがリアルだった。
CGではないが、幽霊は母と子どもにだけは見えるというのは妙にリアリティがあった。
役者では「上海のおじさん」役・加藤健一がよかった。たとえばこまつ座の芝居でいうと、いまは亡きすまけいのようなコミカルな役だった。こういう役もできるということがわかった。また復員局長崎出張所の職員役・小林稔侍も、静かな演技、しかし左手先がない傷痍軍人として好演していた。
ディテールへのこだわりがすごい。でてくる料理でいうと、たとえばイワシの塩焼き、とろろこんぶの三角おにぎりなど、昭和23年の食事というといかにもこんな感じだったのだろうと思った。「プログラム」で知ったことだが、建具やふすまの柄がいまとは違うので一から作ったとか、布団の柄も違うので当時の布を探して布団屋さんに作ってもらったり、助産婦かばんは京都の博物館から借用したとか、並大抵ではない。中に入っているハサミなどの医療器具も専門書をみてつくったそうだ。
音楽に触れないわけにはいかない。
坂本龍一作曲の静謐な弦楽合奏の曲、ラストの合唱曲「鎮魂歌」はもちろん印象深いがそれだけではない。町子(黒木華)が生徒たちに囲まれてオルガンで弾く「背くらべ」。情景は「母べえ」(2008)で、吉永が国民学校で弾いていたのと同じだ。しかし曲が戦前の天皇奉祝日の式の歌だった。戦前と戦後の違いが表れている。また「背くらべ」は男はつらいよ12作「私の寅さん」で前田武彦と寅さんが「柱のきずはキリギリス、5月5日のキリギリス」と替え歌で歌っていた曲だ。
旧制山口高校の寮歌や「わたしのラバさん」も流れた。メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲1楽章(独奏はメニューイン)は、町子が浩二の部屋で二人で聞き、町子が黒木と結婚するきっかけになった曲でもある。
山田監督には珍しい純愛のラブロマンス作品であり、また原爆や戦争で死んだ人々への鎮魂の映画である。「原爆は運命じゃない、悲劇よ」という母のセリフが印象的だった。戦後70年の年、戦争法成立の年に完成したことは意義深い。
なお松竹創業120周年記念の映画でもある。
この映画館で「山田洋次×井上ひさし展」のチラシをもらったので、市川市文学ミュージアムまで行ってみた。
本八幡の駅から徒歩15分ほど、産業科学館、ゴルフセンター、テニス場、商業施設などの一角にあり、映画館では「母と暮せば」も上映中だった。中央図書館の2階にあるのだが、かなり広い平面式の図書館だった。
井上は20年ほど市川の江戸川に近い下矢切に住んでいたので、このミュージアムではもともと井上の書籍や資料をずいぶん集めていた。
展示では「母と暮せば」の小道具や衣装、藪野健さんのイメージスケッチが並んでいた。母の診察かばんやハサミなどの道具は映画にも出てきたが、昭和23年7月からの妊婦診察録やそのなかの妊婦名簿もあった。山口高等学校の旗もあったが東京鴻南会と書かれていた。調べてみると同窓会の名前(ただし2015年5月に解散)だったので、本物をOBの方からお借りしたのだろう。
原爆の記録で「教授遺族の手紙」というページがみえた。文章までは読めなかったが、川上教授死亡のエピソードはこういうものから取られているのかもしれない。
山田監督関係では、わたくしは初期の「二階の他人」(1961)、「運が良けりゃ」(1966)のポスターをはじめてみた。「運が良けりゃ」で、早くも渥見清と倍賞千恵子が共演していた。
1階の図書館で、久しぶりに「父と暮せば」のシナリオ(新潮文庫)を読んでみた。「うち生きとるんが申しわけのうてならん」「なひてあんたが生きとるん。うちの子じゃのうて、あんたが生きとるんはなんでですか」というセリフは「母と暮せば」と共通だ。ただ映画と戯曲の違いもあるのだろうが、突っ込み方やこだわり方のレベルがずいぶん違うように感じた。たとえば「父と暮せば」では「うしろめとうて申し訳ない病」と父が娘に名づける。また恋人・木下は原爆瓦や原爆資料をたくさん美津枝(みったん)の家に預けるという設定になっている。亡くなった親友は「モンペのうしろがすっぽり焼け抜けとったそうじゃ。お尻が丸う現れとったそうじゃ。少しの便が干からびてついとったそうじゃ・・・」。「母と暮せば」にも町子の親友で亡くなった女学生がいたが、ここまで迫力のあるシナリオにはなっていなかった。
わたくしは1994年の初演、梅沢昌代とすまけいのときに見たが、終演後天井のライトがつくと泣いている人が多数だったのをよく覚えている。
黒木華は「小さいおうち」などで、いい役者であることは知っているが、こんなに大きなショックを受けた女性の役をやるには、梅沢と比べるとまだまだキャリア不足であると感じた。
3月12日公開の「家族はつらいよ」の資料がいくつか展示されていた。妻が離婚を切り出すシーン、シナリオの10-11p目が開かれていた。また離婚届(小道具)があったが、それによると住所は青葉区美しが丘2丁目、年齢は夫が現在74歳、妻が71歳、結婚48年目という設定だった。山田監督の21年ぶりの喜劇ということだが、期待できそうだ。